伊藤實さんが、昨日、10月18日午前11時15分に移転性脳腫瘍のためお亡くなりになったとのこと。
彼は、私のホームページでは、「ニさん」として、また『不条理を生き貫いて 34人の中国残留婦人たち』の中では、第28章「シベリアで刑期を終え、次に行かされたのはカザフスタンだった」に登場します。人懐こい優しい笑顔で近所に住む残留婦人のことも気遣っていらした。
2015年8月 サハリン残留邦人 伊藤實さんに北海道でインタビューした時、すでに87歳だったので、享年92歳になられます。その時はお元気で、記憶もしっかりとしていらして、子どもの頃の話から現在までを話してくださった。
3歳の時、父親の転勤で酒田から樺太の野田町(チェホフ)へ。44年ぶり、69歳で帰国。直後に花巻で3.11震災に会う。NPO日本サハリン協会(元日本サハリン同胞交流協会)の会長だった小川岟一氏の機敏な対応で、直後に札幌に引っ越した。
(証言のアブストラクト)
国民学校、高等科と、15歳まで学校に通っていた。泊居(とまり)で機関紙見習いになり18歳で機関士になった。戦争になりみな徴兵されたが、機関士だったので残された。
終戦後は、ソ連軍の命令で働かされた。翌年昭和21年の6月に軽微な事故を起こす。働きづめで睡眠不足、空腹で居眠り。目が覚めたらカーブの信号が赤だったところを間に合わず入ってしまった。バックしたがその後、軍に呼ばれ後ろ手にされ罪人にされた。3日目豊原(ユジノサハリンスク)の刑務所に入れられた。6か月後、夜中に起こされ連れ出され、夜中に軍事裁判。通訳付き。2年6か月の刑。車に乗せられ大泊(コルサコフ)に。船でウラジオストクに連れて行かれる。それからハバロフスクへ。シベリアの収容所で森林伐採を2年。アムールというところで鉄道を作った。黒パン1日700グラム。仕事を120パーセントやると120グラムくれた。40代50代60代の日本人が多かった。
その後カザフスタン送りに。カザフスタンまで2週間かかって移動。途中でパンが無くなる。荷車の柱にしがみついて移動したり。「(ひとつのエピソードを)1分もかからないで話しているが大変だった。よく生きてた」 親切にしてくれたロシア人もいた。
カザフスタンでは、自分で藁を使って寝床を作らなくてはならなかった。食料はジャガイモ10キロのはずが、腐ったジャガイモの山から直径2センチほどのジャガイモを2キロくらいしか貰えなかった。風呂はなかった。最初は牛の世話をして、その後逃げて山に行き、見つかって、ボイラーの仕事に就くことになった。やっと給料が貰えるようになり、ドイツ人と結婚。38年前、自分が50歳の時、妻は亡くなる。3人の子供はロシア語。自分でもだんだんに子供の勉強を見ながらロシア語を覚えた。
従姉妹と子供の頃、葉書のやり取りをしたことがあり、その住所を覚えていた。ペレストロイカが始まってから、従兄弟の住所を覚えていたので手紙を出した。日本に帰りたいと大使館にも手紙を書いた。長女も次女も母親の国であるドイツに行きたがった。子供たちは母親のドイツの籍になっていた。
63歳で一時帰国し石巻、酒田にも行った。昔の同僚の機関助手にも会った。ずっと日本で暮らしたいと思った。
44年ぶり、69歳の時、永住帰国。74歳で東日本大震災に遭遇。津波に合い、逃げられず、泥だらけで一夜を過ごす。山の上で避難生活が始まる。(この間、小川さんたち支援団体が必死に探す) 2週間後、元日本サハリン同胞交流協会の小川岟一氏の手配で仙台から東京に行く。それから4月5日に札幌に着く(小川さんが知事と話をつけてくれた)。4月下旬、心配しているドイツの娘に会いに行く。娘たちが赤十字に頼み、ドイツに住むことができる手続きをしてくれた。しかし「日本で生まれたんだから、日本で死にたい」と日本に帰ってきた。
カザフスタンでは「日本に帰りたい」一心だった。よく生きていた。助かってよかった。(終)
「(ひとつのエピソードを)1分もかからないで話しているが大変だった。よく生きてた」と、話された時、彼の話に応え得るだけの想像力が私に本当にあったのだろうかと自問せざるを得ない。シベリア、カザフスタンでの生活は、想像を絶する飢餓感、空腹感、望郷の念を抱えての苦しいものだったに違いない。ひとつのエピソードの背景には、数百のエピソードが眠っている。極限状況を生き貫いた彼の心情。子どもたちや孫たちと、ドイツと日本に離れて暮らすことを選択した彼の心情。そんなことを想像しています。帰り際にドイツの板チョコレートをいただきました。
衷心よりご冥福をお祈りいたします。