久松集落を見渡せる高台に「久松五勇士」の碑がある。
1905(明治38年)日露戦争、ロシアのバルチック艦隊が
宮古島近海を北上するのを漁師が発見した。
当時宮古島には通信手段がなかったため、久松の若者5人が選ばれ、
約120キロ離れた石垣島へサバニを漕ぎ「敵艦見ゆ」の電報を打たせた。
その功績は戦時中、戦意高揚に利用された。
のちに高い航海能力と強い責任感を讃えて、
この場所に顕彰碑が建てられた。
五勇士の記録は諸説ある。
「早すぎた説」平良市史に記された与那覇氏の証言では
旧暦4月14日(新暦5月18日)に出航、大本営への打電は翌日と書かれてある。
「僅差説」1934年(昭和9年)の新聞によると、出発は新暦5月26日で、打電は
翌日27日となっている。
その電報より数時間前に信濃丸がすでに打電しており
「遅かりし1時間」と誇張されて取り上げられている。
「1日遅れ説」大本営宛ての伝文によると、八重山からの打電は
5月28日になっており信濃丸より1日遅れていることになる。
他にも、石垣島までに行く途中に水納島に寄港して一人増えた説。
着いた地で疲れはて1日寝てしまった説。
到着して陸路を30キロ歩いた説などがある。
当時、軍はバルチック艦隊を発見するため、
日本全国で海上を監視していた。
その軍よりも先に漁師が発見するなどあってはならないことだった。
実際は五勇士の方が早かったと現在ではいわれている。