旅する骨董屋 喜八

チベット圏を中心にアンティークや古民芸・装飾品を旅をしながら売買する喜八の、世界の様々な物や人その文化を巡る旅のブログ。

日本でのチベット物の考え方

2018年09月12日 | 日記



【チベット物に対する考え方】

この難い題材を書くかどうか少し考えた。
誤解を招いたり反対意見、
あくまで、限られた体験での今の意見であって、
今後、変わるかもしれないし、
そもそも、自分の首を絞めかねないかもしれないからだ。
でも、まぁ、今の想いの丈を
この際、言ってしまおう、というか
吐き出してしまおう。
長いので、興味ない人はスッとばしてくださいな。

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チベットの民族性や装飾品、民族衣装などに
関する捉え方は色々あるだろう。

以前から日本では、
少数民族、特にチベットに対して、
偏った価値観の情報(意見)を発信しているのを
見たり聞いたりする事がある。

チベット人のモノを扱う時、身に纏う時、
の「心構え」を論じているのだ。

チベット物を売買をする人のその意見の中には
僕とは意見が違う点があるな、
と思ったりするのもある。

それは、
チベットのモノを扱ったり、
身につけるのは
「こうでなければ、ならない」
という断言的な偏った意見が見られたりするのだ。

その「こうでなければ、いけない」というのは、
個人の価値観である。

つまり、彼らの歴史を知った上で、
その歴史に畏敬の念を払い、
「ホンモノ」(ホンモノの定義は置いておこう)だけを
身に纏う事が正しく、
それ以外は正しくない、というような姿勢である。

確かに言っている事は分かる。

ホンモノは美しい。
そして、それらを深く知り、纏うのも美しい姿だ。
それらを求める姿勢も僕は否定しない。

しかし、それのみが正しい、
他は間違っている、
とは限らないのだ。


ここで、冷静に考えてみよう。


僕らは日本人である。
つまり、チベット人達からは外国人なのである。

考えれば、おかしな話である。

外国人がチベット人の文化への向き合い方を
「こうでなければ、ならない」
「これのみが正しい」
と断言して論じてるのである。

例えるならば、
日本に何回か来た事がある日本贔屓のアメリカ人業者が、
日本の着物や文化に関して、
「こうでなければ、ならない」
「ホンモノを身に纏わなけらばならない」
などと
断言しているのである。

分かり易く言おう。

日本の着物に例えるならば、
京都の○○友禅など高額かつ伝統技法の代表的な着物のみが「ホンモノ」であり、
それ以外のポリエステルとか現代物の安物の着物を
着るべきではない、
と外国人が断じているのだ。
そして、日本は大きな戦争の犠牲を伴った民族である。
それを重く考えて、日本の物を身に纏え、と言っているように思える。

そりゃ、伝統技術を伝承し技巧と時間を費やした着物は
問答無用で美しいし、価値のある物である。
戦争も悲しい歴史である。

でも、それだけが美しく、
それのみを纏うことのみが正しい、とは言えないと思う。
そして、過去を知るのは重要であるが、
「今の日本」と「これからの日本」を知る事も重要である。


日本の夏祭りなどで学生達が着るような安物の着物であっても、
それは伝統文化が残っている事であり、
美しい固有の文化であると思う。
これは否定するモノゴトではないと思うのだ。


日本に例えると分かってもらえるかもしれないが、
いざ、
「チベット」とか「少数民族」とかの
ワードを入れると、
あぁ、そーなのか、と妄信的に信じてしまうらしい。



決して【外国人が他国の文化を論じてはいけない、という事ではない】
論じるのも自由だし、
逆に外からの様々な意見も必要だとは思う。

だが、他国文化に対する個人の見解の中に在って、
「決めつけ」と「否定」を広めるのは疑問が残るのだ。


日本とチベットは違うよ、
などの理由は幾らでもつけれるだろうが、
大局的に離れて見ると同じ事であると思う。

美に拘りを持ち、
高みを目指す姿勢や、
背筋がシャンとしたモノを求めることは共感し、
★【僕もそれを求めている】

だが、たとえそうでなかったとしても、
それは選択肢や価値観の違い、
または
求めるモノの違い、であると思う。




知り合いの家にて。
お婆ちゃんは伝統衣装。
でも、後ろに居る孫は現代の服を着る。

チベットに置いても、
今や現代的な洋服を着たチベット人が多い。

日本の極端な意見は、
外からこれらを否定をするようなものである。



僕が実際にチベットで感じた事を言おう。

日本人と同じである。

どんな地元民であっても、
古く佳いホンモノや、伝統文化が美しく価値があるのは知っている。
日本人の多くが京友禅などの着物や日本伝統文化が素晴らしいと知っているのと同じだ。

しかし、今や多くの大衆は、
技巧を凝らした民族衣装や
古く佳い装飾品は日常、身に纏わず、
化繊素材の安価な衣装や
中国製のプラスチックなどでできたチベット文様の装飾品も身に纏うのだ。

そして、洋服を着込み、現代的な生活をしているチベット人であっても、
チベット暦の正月には伝統的な催しに参加し、
チベット人としての誇りや伝統を残している。


あえて、結論を言おう。


チベット人の一般大衆、意外とファジーやで。


こうでなけりゃダメ、とか
ホンモノを身に纏わなければならないとか、
固い意見は持っていない場合がある。

僕の友達の一般人であるチベット人の女の子も、
アンティークはアンティーク、
伝統盛装は伝統盛装、と
日常生活の価値観とは分けて捉えていている。

彼女は低所得層とか伝統を重んじない家庭とかではない。
富裕層に位置する家柄で、
親は伝統も重んじている。
もちろん、漢民族系でもない、生粋のチベタンである。

その生粋のチベタンにあっても、
アンティークは価値があるのは知っているが、
実際にどれくらいの金銭的価値があるかは
正確には分かっていない。

ある日、彼女から連絡が入り、
彼女の叔母がトクチャなどを持っていて、
現地の業者が買いたいと言っているようなのだが、
事前に、どのくらいの金銭的価値があるのか、
日本人の僕に聞いてきたぐらいである。


また、チベット現地でも、美や伝統にこだわった、
ある一定の富裕層の中の人々や地位のある人、
地方に生きるゴリゴリの古い遊牧民達は、
ホンモノと言われるモノや、
古い伝統を第一に求めるかもしれないが、
それは広い視野で見るとごく一部である。

多くの人々は、
「今、在る、大衆文化の価値観の中」で生きているのである。

そして、現地でのアンティークの売買業者がクセモノであり、
一般大衆とは離れた価値観のモノを扱う場合がある。

なので、必然的に、
日本で極端な意見(断定・否定を含めた意見)を言っているのは、
現地のアンティーク売買業者と接点のある、
売買業者である場合がある。


現地へ行った事がない人は、
日本での個人の見解である極所的な意見を信じてしまう。


それは、我々のチベット人や少数民族に対する、
「こうあって欲しい」という
【願望】なのであって、
実際の今の現地の大衆感覚とはズレがでる場合もあるのだと感じる。


実際、自らが現地へ足を運び、
チベットの現地人と交流すると
また違う価値観が見えてくるはずだ。



価値観は人それぞれであり、
あれはダメ、
これこそが正しい、
という偏った価値観だけではないよーに思える。

何を信じて、
何を求めるか、は
人それぞれだと思うが、
自分の信じた価値観とは違う価値観を
「否定」してはいけないと思うのだ。





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