旅する骨董屋 喜八

チベット圏を中心にアンティークや古民芸・装飾品を旅をしながら売買する喜八の、世界の様々な物や人その文化を巡る旅のブログ。

旅で視る、生きる価値とは。

2023年10月06日 | 日記



生きる、と言う事に関してです。

生きる価値とか、
ヤベー事、言ってると思われるでしょう。

僕が気が向いた時にたまに書く、
死生観にも関係あるかな。

自己啓発系ではござらん。

興味ない方はスルーしてくだされ。


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先日、自転車でコケた。

豪快に吹っ飛んだよね。

胸を強打して、「あ、肋骨、イったわ」とすぐに感じた。

数日、放置してたのだが痛すぎて病院に行きました。

何年振りの病院だろうか。

町医者の整形外科に行ったのだが、
その病院の待合室は、老人で溢れかえっていた。

座る椅子が空いていないほどに混み合っていた。

「足が痛い」
「腰が悪い」
「どこそこが調子悪い」

老人達のそんな会話ばかりであった。

歩く事も話す事も、おぼつかない人も多かった。

正気を失った青白い顔色で肉体はほぼ朽ち、
スローモーションで病院内を歩く、その姿は、
言葉は悪いが、
生きる屍、ゾンビであった。

遊園地のショーではなく、ここに居たわ、リアル・ゾンビ。

それでもまだ、動いていたり、会話している人はマシで、
待合室の椅子で、燃え尽きているご老人も居た。

「あれ?天に召されました?」と思わずにいられない、その風貌。

超高齢化社会である日本の縮図を見た気がした。

これが日本全国、とてつもない人数が同じ状況であるならば、
今、日本はどうなってしまっているのだろうか。

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それなりに医療が発達した現代。

もしかすると、
それは、個々の肉体と気力の限界値、本来は死を迎えるべき年齢をも、
「長生きが良い」という名目のもとに越えてしまってはいないだろうか。

もちろん、
高齢でも元気で仕事や社会活動、趣味をしている方々も多くは居ると思う。

だが、一般的には体に大きな故障が出ると共に、
気力が衰えるだろう。
病気も多くなるかもしれない。

自分の人生の先が長く無いのは感覚的に知ると思う。
それを自分で認めるか認めないか、は別にして。

いずれにせよ、
その時には、人は死を少なからず意識するだろう。

高齢だけではなく、
命に関わる病気や事故、
心が本当に深淵に潜る時など以外は、
人は基本的に、
生より死の分量が意識下で大きくはならない、と思うのです。

では、
人は普段から生を意識しているかと言うと、
一般的には「生きている事」を本当の意味で毎日実感はしないだろう。
例え意識しても、
すぐに日常生活で忘れてしまうのでは無いだろうかしら。

生きる事は、
死ぬ事を意識すると感じられると、
僕は思うのです。

死を意識する時、
人は、生きる価値を何に見出すのであろう。

一日一日を大切に生きようとするのだろうか。

それとも、
生に何も価値を感じないのだろうか。

もしくは、
何も深くは考えないのだろうか。

分からぬ。

でも、僕は思う。

どんなに理由を並べた所で、
基本的に、
日本人の多くが捉える死や生は、
恵まれた環境下での死生観であろう。

もちろん、
僕の死生観だって、
恵まれた環境での価値観に過ぎない、と自覚しているのです。

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何年も前、インドでこんな事があった。

当時、僕はインドで長距離寝台列車に乗っていた。

インドの寝台列車に乗った事がある人ならば分かるかもしれないが、
基本は清潔とは言えない。
路線にもよるが、以前は、床やトイレは爆裂級の汚さの時もあった。

僕はその当時、長旅の途中であり、
信じられない程に汚れた身なりをしていたので、
あまり気にしなかったが、普通はその汚さに引くだろう。

・・・で、ある列車移動の日である。

外は雨が降っていて車内の床は泥まみれで、
床は染み付いた糞尿の匂いを強烈に発し、
乗客が床に捨てたゴミも散乱し、
地獄の様相を呈していた。

その時である。

両足の無い、まだ中年とも言えないインド人が、
泥だか糞尿まみれだかの汚い床を
手にボロ雑巾を持って掃除していたのだ。

両足が無いので這いつくばる様に、彼は掃除していた。

白い粗末な衣服も、もう洗いようが無いほどに汚れていた。

乗務員ではないのは明らかだ。

では、何のために?

そう、彼は労働の対価として、寄付を求めていたのだ。

ひたすら泥まみれになり、
ぎこちない優しい笑顔で、遠慮がちに出す手。

その光景は、僕の脳裏に張り付いて離れない。


インドでは喜捨を求める人は多い。

場所によっては、道端でそこら中で見かける。

リクシャ(三輪オートタクシー)に乗ってると、
デリー辺りでは、女装した男性達ヒジュラーがやってきて、
お金を渡さないと「自分勝手な奴!」とか毒付かれる事も珍しくはない。

幼い子供が芸を披露する場合や、
子供が粗末なボールペンを対価として売る時などもあるが、
基本的に大人は、ひたすら「金をくれ」とせがむ。

お金を受け取る以外に、特に、対価となる行為や、
一部を除き、感謝をしないのは、
宗教上の喜捨の意識、または環境での価値観もあるだろう。

ところが、
そのインドで、
その両足の無い男性は、
汚物に塗れる清掃という誰もが嫌がる労働をして、お金を求めていたのだ。

単なる喜捨を求めるのではなく、
自ら、能動的に行動(労働)をしていた。

しかも、両足が無いにもかかわらず、だ。

彼は必死に生きていた。

日本とは圧倒的に違う、絶望的な環境に居ながら、
彼は生を強く求めていた。

そこに僕には
「生きる価値」を鮮明に感じたのです。

それは僕の人生にとって、
忘れる事の出来ない光景の一つとなっている。

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前述した、日本の高齢者の姿を見ても、
満員電車で通勤するボロボロになった会社員を見ても、
そこから得られる死生観は乏しいだろう。

いくら自己啓発本の類を読んでも、
著名人の名言を聞いても、
答えを見つける事は難しいだろう。

だって、
そもそもが恵まれているのだ。

世界には圧倒的に「生」を求め、
必死に生きる人達が居る。

いや、もしかしたら日本にも居るかもしれないが、
それは分からない。
でも少なくとも、
インドの最下層・最貧層のハンディ・キャッパーと比べる事はできないだろう。

そこには、
死と生が常に隣り合わせであり、
生への渇望が
人間を人間としていると思うのです。

彼らにとって生きるとか死ぬとかは
僕には分からない。

しかし、
そこに何かを感じる事だけは出来るのです。

その上で、
死と生を考えていきたいと
思えるのでした。



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