ミハ缶ブログ

ヘタレ大学院生が綴る日常と非日常。
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終戦記念日

2009年08月15日 | 2010年以前の記事
 正式には、9月2日だと思うんですが。そんな事を考えつつ、「戦没者を追悼する日」を迎えました。
 この日は、ニュースからドラマに至るまで、悉く「戦争は恐ろしい」「戦場になって沖縄はかわいそう」「日本軍って酷い」「アメリカ軍も酷い」「つまる所軍隊酷い」「戦争反対! 平和万歳!!」といった趣旨の番組ばかり並んでいて、いい加減食傷気味です。
 確かに、「悲しい戦争を忘れない」だとか「過去の過ちから学ぶ」という事は、とても大切な事だと思います。私の中学時代の社会科教師は、「歴史からは、何も学べない」という持論を持つ、左翼教師ならぬ右翼教師だったんですが、「失敗学としての歴史学」という見方をするのであれば、歴史から学ぶ事は可能だと、私は考えます。
 しかし、テレビなどでの「終戦特集」の類は、大抵、政治史外交史軍事史戦争史としての「大東亜戦争」ではなく、一市民の個人史ばかりを取り上げています。そりゃあ、個人史的には、戦争なんて嫌に決まってます。しかし、戦争というものは、外交手段の一種であり、個人が各々選択して行えるものではないんです。こんな事を書くと、「民主主義では、国民が主権者だから、戦争を行うか否かを国民が選ぶ」なんて言われるかも知れません。しかし、第二次世界大戦当時の日本は、国民主権ではありませんでした。そして、当時は、それが常識でした。話が少し逸れましたね。個人史というのも、調べていくと興味深いのですが、「戦争」というものを語る上で、果たして個人史は、ベストな方法なのでしょうか。戦争そのものの悲惨さや現実を語るためには、個人史も有効な手段でしょう。しかし、「そもそも、なぜ戦争が起きたのか・戦争は回避できなかったのか」「なぜ悲惨な結果になってしまったのか・悲惨な結果を回避できなかったのか」などを検証し、失敗を生かすという事を考えるのであれば、個人史という手段では、限界があります。
 感情で「戦争はダメ!」と言うだけでは、問題の解決になりません。本気で悲惨な戦争を起こしたくないのであれば、トヨタ式に「5ナゼ」でも展開すると良いんじゃないですかね。

 終戦から60年以上が経過しているんです。そろそろ、過去の出来事について、客観的に分析しても良い頃合なのでは、ないでしょうか。

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