快談爺流離日記

思いの儘に記す自然を好み身近の被写体を撮り歩く暇爺。

今日は、比較的過ごしよい一日であった、ミササガ公園まで散歩に出かけた、隣の猿渡川をのぞいて見たら鴨がのんびり泳いでいた。

2020年01月13日 20時35分18秒 | 公園・風景・その他

猿渡川をのぞいて見たらしwがひていたので浅瀬にかたまっていた、潜水の得意の鴨が深場を泳いで、潜っては浮かんでまた潜ってを繰り返していた、

潜る間際、キンクロハジロでは無いか?。

カモメが気持ちよく泳いでいる。

浅瀬に羽を休めて羽くつろいをしている

潜水の得意な鴨が我が物顔で騒いでいる。

この鴨が一番元気がいい。

潜っては、浮かんで忙しい。

 

浅瀬で、羽くつろい

公園の噴水も勢いよく

一月も半ば近くに成っているのにバラが咲いて居る。

まあまあ、見られる姿で咲いて居た。

この様なバラが咲いて居た、今年は比較的暖かいですね。

午前中は人でも少ない、だけどBBQゾーンは、別格です、午後からのブログは、明日に投稿させてください。

 令和2年1月13日投稿。

 


恵那地方のドライブ阿木川ダム湖周辺に

2020年01月12日 10時00分14秒 | 日頃の写真新活動

午後2時ごろ思い付きで恵那方面にドライブしてきました、阿木川ダムに着いたときは、陽が西に傾いて居ました、今時期は日暮れが早いので映す被写体も少なく適当にシャッターを押して

 

阿木川ダム湖を渡る橋、陽が西に光芒が橋を浮かび上がらして綺麗。山間から陽が傾いて射す。

ダム湖畔の東屋風の造り、休息所。

陽が西に傾き山に沈む直前眩しかったが、カメラに収めてきた、綺麗な光彩。

日暮れ時此の画は以前撮ったお蔵入りの夕日。

此の画も、お蔵に眠っていた、眠らせるのは勿体ない、ブログに載せました。

            令和2年1月12日投稿。

 


郷土の偉人伝、幕末を駆け抜けた、郷土の志士たち…維新の魁 天誅組。

2020年01月09日 18時34分06秒 | 日頃の写真新活動

幕末の動乱期、朝廷が政治の表舞台に台頭するようになり、幕府の権威が徐々に失われて行きました、その折、公家の中山忠光を中心に志士たちが団結し、天皇を中心とした国作りを目指して一つの集団が立ち上がりました、この集団を「天誅組」と言います。

文久3年(1863)孔明天皇の大和行幸の紹を受け天誅組は先に大和入りをして、幕府領を平定し行幸をお迎えしょうと考え、そこの幕府出先機関を倒し「五條御政府」を置きました、のちに天誅組が「維新の魁」と評される由縁に成って居ます。

しかしながら、行幸の直前に朝廷内で、クーデターが起き行幸中止が断行され天誅組は、朝廷・幕府から逆賊として討伐受ける側に立たされ、天誅組は敗退を続けて、現在の奈良県吉野村において、壮絶な最後を遂げる。

この天誅組に刈谷藩を脱藩した、松本奎堂や宍戸弥四郎らが参加していた、松本奎堂は、総裁として、宍戸弥四郎は合図係として活躍し、最期は、天誅組と運命を共にした。当時は逆賊の汚名を受けたが、明治えと時代が変わる中で、彼らの行動が

評価されるように成って来ました。

刈谷偉人伝其の1幕末をかけぬけた刈谷の志士たち~”維新の魁” ”天誅組”。

松本奎堂詩石塔『君が為命しにきと世の人に語りつきてよ峰の松風』 亀城公園にて。

天誅組が最期を遂げた、奈良県東吉野村と刈谷市との友好締結

『ゆかりのまちの友好市町村』である旨の締結の記し。

1段上の画との関連。                               

松本奎堂先生の生誕の地、石碑、

 

松本奎堂先生の墓十念寺にて。

宍戸弥四郎先生の生誕の地「広小路5丁目」お墓は、銀座4丁目「松秀寺」にあるが、

探し当てられなかったので、ごめんなさい。

 

宍戸弥四郎の紹介プレート、天誅組はちょっと勇み足を踏んだ様だ。

この若い志士の行動が無ければ、明治維新は来なかったであろう、

文明開化も来なかっただろうと考える、幕府の政治では一揆も発生した?、今の天皇制が良かったのでは。

   令和2年1月9日投稿。

 

 


郷土の歴史探訪、寛政一揆と村替えの処分、刈谷藩と奥州の福島藩との領地変え

2020年01月06日 11時49分23秒 | 日頃の写真新活動

寛政一揆によって刈谷藩は、幕府から村変えの処分を受け重原村、野田村、半城土村、高須村、犬ケ坪村等

18か村を奥州の福島領・幕領の一部と交換することになり、以来福島藩はこの地に陣屋(現在の重原市民館あたり)を置いて郡代により三河の飛び地を治めました。浄福寺の前には[重原陣屋跡]の石碑が建てられて居る。

此の碑と並んで「従是東福島領これより東、福島領)の碑が建てられて居ます。

もとは東海道筋の福島領の東と西の端にありました。福島分領は、明治2年(1869)三河の国に新たに150ケ村与えられ、重原藩が誕生し、やはりここを陣屋として治めました。陣屋で使われた門は、半城土町の願行寺の山門に玄関は十応寺に、それぞれ移築されています。

浄福寺に有る重原陣屋跡の石碑。

是より東福島領の石碑、同じく浄福寺に設置されている。

浄福寺石門、

重原陣屋の門、現在願行寺の山門に移築されている。

重原陣屋の玄関、十応寺に移築されている

是より西福島領の石碑、知立中央公民館北に位置する処に設置されている。

 

福島領西の端は、東海道筋の東に有った、池鯉鮒宿は福島領であった。

刈谷城址石碑現在の位置は二の丸の有った所である。

刈谷城の名残の石垣。一揆は、農民の我慢の限界であったと考える、

正統な事でも、暴動を起こすのは、戴けない。

刈谷藩では元文3年(1738)にも一揆が発生しており、いずれも領内諸村に課せられた金銭負担が原因となり発生した、いずれも飢饉の年に発生したとみらる。

         令和2年1月6日投稿。