快談爺流離日記

思いの儘に記す自然を好み手近の被写体を撮り歩く暇爺。

於大のみち

2012年12月26日 10時52分44秒 | 公園・風景・その他
猫親父さんがマンホールの蓋の収集をやって見えるのを見て思い出した、
マンホールの蓋では無いが於大のみち(明徳寺川)2kmの左岸の道路にマンホール型の石板が敷かれ於大お方と水野家に関する記述が記されていた、
明徳寺川の左岸2kmに46個の石板が設置してあった、右岸にも於大のみちや道路周辺に有る施設などに関する歴史が記述されていた。

1画は、桜の木の葉も落て枯れ木の様な於大のみち、(画の左の道路に白い円く見えるのが石板)

2画は、石板 於大1歳の時
1528年(享禄元年) 於大1歳
第四代緒川城主水野忠政の娘として生まれる、母は華陽院於富の方というきれいなお方でした。

3画は、石板 於大5歳の時
1532年(享禄元年) 於大5歳
三河のほとんどを我がものにした岡崎城主松平清康から求婚された母於富は忠政に離縁されて清康と再婚しました。

4画は、石板 於大6歳の時
1533年(天文2年) 於大6歳
忠政は西三河へ勢力を伸ばそうと考え、緒川の対岸刈谷に立派な城を築いて此処を水野氏の本拠地として家臣団ともに移りました。

5画は、本年4月のに400本の八重桜の満開時、

於大のみちの画像

於大のみちの画像

於大のみちの画像

於大のみちの画像

於大のみちの画像