6. 甘南備寺の命名の話
奈良時代から平安時代の初期にかけて、甘南備濱吉という男がいた。
石見の国守として、弘仁6年(815年)7月13日に柿本人麿から数えて14番目の国守に任命されている。
日本後記によれば、甘南備濱吉は1年前の弘仁5年(814年)に日向国の国守に任命されており、その1年後に石見国守に転任したのであった。
また、甘南備濱吉は任命された10日後の弘仁6年7月23日に石見の国守から刑部少輔に転任したとの記録もある
甘南備濱吉の後任として大中臣弟守が任命されたが、この人も半月後の8月10日に丹後守に転任した。
大中臣弟守の後任は8月10日付けで紀貞成が任命された。
これらの早すぎる国守の交代劇についての詳細な記録はない。
紀貞成の後任は25年後の承和7年(840年)正月に藤原行繩が任命されるまで、記録にない。
紀貞成が25年間勤めたことになるが、当時4〜6年で国司が交代しているので、記録落ちと思われる。
<甘南備氏>
甘南備氏は天平12年(740年)に神前(かみさき)王が甘南備真人姓を与えられ臣籍降下した時から始まる。
神前王は第30代敏達天皇の後裔である。神前王は甘南備真人の姓を与えられ臣籍降下した。
ここで甘南備は氏、真人は姓である。この真人とは天武天皇が天武13年(684年)に制定した八色の姓の一つである。
八色の姓とは、「真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」の八つの姓である。
甘南備濱吉はこの甘南備氏の氏族であると思われる。
余談ではあるが徳川家康の正式な名は次の通りだったという。
従一位徳川次郎三郎源朝臣家康(従一位=位階、徳川=名字 (みょうじ) 、次郎三郎=通称、源=氏 (うじ) 、朝臣=姓、家康=諱)
甘南備濱吉が記載されている史料は、上記の国司任命のものしか見当たらなかった。
しかし、この甘南備寺濱吉が、石見国守であったことは、今の甘南備寺や甘南備寺山との間に、何らかの関係があったのではないか?
そう思うと、物語が湧いてきた。
6.1 .石見の国守甘南備濱吉
さて、甘南備真人濱吉は弘仁5年(814年)に日向に国守として赴任してきた。
日向国の国司は現在の西都市にあった。
しかし、日向国は都から遠い国であったため、国司の人事は左遷人事が多かったようである。
この甘南備濱吉は生まれも育ちも都の人であり、都から遠く離れた日向の暮らしに不満を持っており、事あるたびに色々理由を付けて転任希望を出していた。
その努力の効果があったのか、着任して1年後の弘仁6年(815年)に日向守から石見守に転任の通達がきた。
しかし転任先を知った甘南備濱吉は不服であった。
甘南備濱吉は京の都に戻りたかったのである。
そこで甘南備濱吉は石見に向けて出発すると同時に陳情書を都に送った。
日向から石見には船で向かう。日向灘を北上し関門海峡を抜けて日本海に出た。
当時、長門から石見にかけての海岸線は白村江敗戦(663年)後、軍事力整備に総力をあげており、航路も整備されており、地方物産の交易も盛んに行われていた。
石見の国府に着いた甘南備濱吉は、以前柿本人麻呂がここの国守であったことを知った。
柿本人麻呂は万葉集の大スターであり、当然甘南備濱吉も良く知っていた。
甘南備濱吉は俄然興味を掻き立てられた。
柿本人麻呂がこの石見国で詠んだと思われる歌を集めた。
人麻呂の歌を咀嚼し、当時の人麻呂の心情を思い浮かべ、この偉大な歌人の世界に陶酔していた。
ところが甘南備濱吉の伊甘での任務は数日で終わることになる。
甘南備濱吉が出した陳情書が聞き遂げられ、京都に転任の命を受けたのである。刑部少輔への転任であった。
甘南備濱吉は小躍りした『やっと都へ帰れる』。京へ帰れるという快い気持ちの中で、人麻呂が歌った石見の風景を心に留めておきたいと思った。
そして京への道筋は、かつて柿本人麻呂が通ったと思われる道を行き、人麻呂の心情を味わおうとした。
京へは、伊甘から恵良→高角山→(江の川渡船)→井田→三原→渡→(江の川渡船)→渡田→牛の市→弓張→八上を通り広島の千代田、吉田町を経由して瀬戸内海に出て船に乗る、という経路で行こうと決めたのである。
<続く>