34.足利尊氏叛乱
34.9. 叡山の陣
34.9.1. 後醍醐天皇叡山臨幸
官軍の総大将義貞はわずか六千余騎になるまでに討たれて湊川から京に帰ってきた。
京中は大騒ぎとなった。
一方後醍醐天皇たちは官軍が戦いに敗れたときのことを想定して、叡山東坂本へ行幸することが予め話し合われており、5月19日、後醍醐天皇は三種の神器を持って、叡山東坂本に臨幸した。
持明院統の皇族も東坂本に向かった。
尊氏入京
新田軍を追って入京した尊氏は、東寺を居場所にした。
持明院統の皇族も東坂本に向かったが、ただ一人後伏見院だけが日野中納言資名と三条中将実継だけをお供にして、東寺にやってきた。
足利尊氏は大層喜んで、東寺の本堂を皇居と決めた。
尊氏は合戦の協議を行い、「事が遅れて、義貞に軍勢が付いたならば面倒なことになる。敵の軍勢がまだ少ない今叡山を攻めるべきだ」と決めた。
6月2日、正面と搦め手合わせて五十万騎の軍勢を叡山に向かわせた。
足利軍は東坂本、西坂本の両側から迫っていった。
せまい間道や、嶺道でも、小ゼリ合いなどが繰り返され、夜も昼も、凄惨な戦いが行われた。
とくに西坂本、東坂本では、主力と主力との激突がくりかえされ、また洛内に近い所で部落戦、河原戦、畑合戦など、酸鼻をきわめた戦が行われたという。
6月5日から20日にかけての比叡山攻防戦において、死傷した者の数は夥しかった。
官軍の抵抗は激しく、足利軍は比叡山の東西双方の山麓から追い立てられ、戦場から退いた武士たちは、洛中に踏みとどまることもかなわず、十方へ逃亡していった。
半月続いた戦いは、官軍の勝利となった。
しかし、官軍の勝利は京を奪回して完全なものとなる、攻防戦に勝利しただけでは、まだ喜びは少ない。
この攻防戦に勝利した時、間髪を入れずに官軍が素早く、足利軍を追って京を攻めていたならば、足利軍は持ちこたえることはできなかったと云われている。
しかし、官軍はこの絶好の好機を逃してしまう。
官軍は、次の戦の意思統一が出来ないままに、空しく10余日が経過していったのだった。
その間、京都周辺に逃亡していた足利勢力は、再び士気を回復して京都に帰還し、兵力を回復したのであった。
官軍の攻撃
官軍は、「京都内の敵側兵力、手薄なり!」との情報だけでもって、6月末日、10万余騎を二手に分けて、今路(山中越)と修学院から、京都に押し寄せていった。
足利尊氏は、事前に官軍の計画を知っていた。
尊氏は京の中心部まで敵兵を誘い出し、そこで大軍をもって打ち取るという計画を立てていたのである。
足利軍は少数勢で鴨河原へ繰り出して、矢を少しだけ放たせた後、退却した。
官軍は、緒戦の勝利に乗じてと、京都中心部まで足利軍を追撃した。
尊氏は、相手をぎりぎりの地点まで引き付けた上で、東寺から、軍勢50万騎を繰り出した。
京都の街中を走る南北東西の小路を使って、臨機応変の布陣を取らせ、天皇軍を東西南北に分断し、四方八方に囲み、一騎残らず討ち取れと、戦闘を展開した。
官軍は足利軍の攻撃を受け撤退することになる。
34.9.2. 延暦寺と興福寺
叡山に追い返された官軍は体制の立て直しを計っていた。
後醍醐天皇は、まず叡山に対して、大きな荘園を寄進した。
これによって、延暦寺は戦う気力を取り戻し、打倒足利のために動き出した。
延暦寺は奈良の興福寺に打倒足利の協力要請の書状を送った。
興福寺はこの要請に応え、協力を約す返書を送った。
興福寺が延暦寺の味方をすると伝えられると、畿内、近国で戦の勝敗を計りかねてどちらへ付くべきかと考え迷っていた武将達が、皆叡山に意志を伝えて協力を始めた。
こうして、京の足利軍は全ての道を塞がれてしまうようになり、食料不足になっていった。
この状況をみた官軍はここぞとばかりに、京の足利軍を攻める。
7月13日に戦いが始まる。
(注)7月13日は「太平記」での記載。しかし後述する「東寺」の「開かずの門」の説明板では6月30日とされている。恐らく太平記の作者の思い違いだと思われる。
官軍は京に打って出た。
激戦の末、新田義貞は兵2万余騎で、尊氏が籠もる東寺の小門まで押し寄せた。
そこで、義貞は弓を放ちこう言った。
天下の乱休事無して、無罪人民身を安くせざる事年久し。
是国主両統御争とは申ながら、只義貞と尊氏卿との所にあり。
纔(わずか)に一身の大功を立ん為に多くの人を苦しめんより、独身にして戦を決せんと思故に、義貞自此軍門に罷向て候也。
それかあらぬか、矢一受て知給へ。
「天下の乱れが止むことなく、罪なき人民が身を安んじられなくなって長年が経った。
これは皇室両党の争いとは言え、ただこの義貞と尊氏卿との争いである。
わずか私一人が大きな手柄を立てるために多くの人を苦しめるより、一人で戦いを決しようと思うから、私自身がこの城門に参上したのだ。
この言葉に偽りがあるかどうか、矢一筋を受けてお知りになるがよい」
尊氏は、
我此軍を起して鎌倉を立しより、全君を傾け奉んと思ふに非。
只義貞に逢ひて、憤を散ぜん為也き。
然れば彼と我と、独身にして戦を決せん事元来悦ぶ所也。其門開け、討て出ん。
「私はこの戦を起こして鎌倉を発った時から、全く主上をお倒ししようと思ってはいない。
ただ義貞に会って、恨みを晴らしたいためである。
だからあの者と私と一人で戦いを決することは、もとより望むところである。
その門を開き、討って出よう」
と言って、東寺の東門から打ち出ようとしたが、上杉伊豆守重能の諌めに従って思いとどまった。
これが、東寺の東門が「不開門(開かずの門)」と言われている所以である。
そうこうしているうちに、勢いを取り戻した足利軍に追われ、新田義貞は撤退を余儀なくされ、坂本へと引き返した。
この戦いで、名和長年が討ち死にする。
「三木一草」と言われる、後醍醐天皇の寵臣であった、楠木正成・名和長年・結城親光・千種忠顕が亡くなったのである。
楠木・結城は姓に、名和は伯耆守で官名に〈キ〉がつき、また千種の〈クサ〉をとって〈三木一草〉としゃれていったものである。
今回も、官軍の攻撃は失敗に終わった。
また、興福寺の衆徒も叡山に協力するという返事を送っていたが、その話を翻して、足利との協力を約束したのだった。
つまり、興福寺は後醍醐天皇を裏切ったのである。
34.9.3. 近江の戦い
叡山の衆徒は、公家、武家、その家来など全部で20万人以上の人数を数ヶ月以上養ってきており、蓄えは尽きそうになって来ていた。
足利軍は、北国の道を足利高経が抑えて人を通さず、近江も小笠原信濃守が野路(現南草津)、篠原に陣を取って、湖上の行き来の船を止めていた。
叡山は、この状態を打破しようとして9月17日に叡山全山の衆徒五千余人が志那の(草津市)から上がって、野路、篠原へ押し寄せた。
この戦いに、佐々木道誉も足利方に加わった。
戦いは、官軍が破れ近江側からの補給路を断たれることになった。
叡山も坂本も益々兵糧が乏しくなって兵士たちの不安も増してきた。
孤立した官軍から抜けていく兵も増えてきていた。
叡山に籠もる人々は天皇を始め疲労困憊していたが、新田軍だけは意気軒昂であった。
このような中、意外な展開が訪れることになる。
<続く>