#302: アガルタの凱歌

2010-11-07 | Weblog
 ジャズ界の帝王マイルス・デイヴィス。常に時代の最先端を行くクリエイティブなミュージシャンであった。彼の最晩年にマイルス自身が語った自伝が出版されたが、ジャズの歴史の中で、「ビ・バップ」「クール」「「ハードバップ」「モード」「エレクトリック」などエポックメイキングなスタイルのほぼすべてに彼自身がかかわっている。こんなジャズ・ミュージシャンは他におらず、まさしく不世出の音楽家であった。

 1964年の初来日以降何度か来日を果たしているが、蚤助は1973年と1975年の来日公演の2回、いずれも東京厚生年金会館大ホールでのライブを聴いている。いわゆるエレクトリック・ジャズの時代であった。

 

 最初が1973年の6月22日(金)のことで、↑が当時のコンサートのパンフである。1階V列6番というシートだったことが、貼り付けてあるチケットの半券でわかる。確か2階席の真下で、もの凄いサウンドが渦を巻いて押し寄せてきたことを覚えている。この時のマイルス・バンドのメンバーは、御大マイルス(tp)のほか、デイヴ・リーブマン(ss,ts)、レジ―・ルーカス(g)、ロニー・リストン・スミス(kbd)、マイケル・ヘンダーソン(b)、アル・フォスター(ds)、ジェームズ・ムトゥメ(cga)、バラ・クリシュナ(Sitar)、バーダル・ロイ(tabla)、ピート・コージー(g)、シタールやタブラなどインドの楽器を使い、音の洪水であった。マイルスはトランペットを天に向かってではなく、大地に向かって吹くようになっていた。それもエコーやワウなど電気処理をしてである。

 

 2度目(↑)が、1975年1月22日(水)で日本ツアーの初日。座席も1階V席11番と、前回と同列のほぼ同じ席だったことがわかる(笑)。この時のメンバーは、前回のメンバーからインド楽器奏者とキーボードが抜け、ホーン奏者がデイヴ・リーブマンからソニー・フォーチュンに代わっていた。このバンドは、ベース奏者のマイケル・ヘンダーソンがキー・プレイヤーになっていたようで、マイルスもステージ上でヘンダーソンに細かな指示を与えていたような記憶がある。

 そして、このバンドは東京、名古屋、京都、札幌、小倉と回った後、2月1日と2日の両日、大阪フェスティバル・ホールのステージに立った。大阪では昼夜3回の公演が行われたが、1日の演奏の模様は、現在「アガルタの凱歌」「パンゲアの刻印」という2つの作品として残されている。

 冒頭に掲げたのは「アガルタ」で、ジャケット・デザインは横尾忠則である。1960年代に忽然と登場した横尾のアンダーグラウンド風ポスターは、土俗的、あるいはレトロな感覚の不思議な味わいを持っていて注目を集めた。それが、マイルスの日本公演のライヴ・アルバムのジャケットに横尾の作品が使われたのである。そのことにまず驚かされた。音楽シーンの先端を走っていたマイルスと、アンチ・モダンともいえる横尾の作風の接点が理解できなかったのだ。

 だが「シャングリラ」とも言われる地底王国アガルタの伝説は、当時インド旅行をするなど、スピリチュアルな世界に関心を抱いていた横尾を刺激したに違いない。このジャケットからは、横尾の奔放な創造力、表現のためのエネルギーが直に伝わってくるようだ。そして、帝王マイルスの凶暴といってもよいほどのエレクトリック・サウンドも、ここで一つの頂点を示したのである。蚤助にとって、マイルスの音楽について関心があるのはこの辺りまでであって、これ以降晩年に至るまでの作品については全く思考停止となっていることをここに告白しておく。

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 これからの季節、鍋を囲む機会が多くなる。鍋をやると、役割分担というのが大抵自ずと決まってくるのものだ。仕切り役の「鍋奉行」というのは有名な役どころだが、他の配役はこんなところで…

 「鍋奉行灰汁(あく)代官に待ち娘」


 


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