春の日差しが差し込み、女たちがたらいで洗濯する中を子供たちが遊びはしゃいでいる。
「早くこっちへ行こうぜ!」「ちょっと待ってよ!」
女たちは洗濯の合間に、子供たちの掛け声に耳を傾けている。
これは、桶職人が多く住む長屋が立ち並ぶ京橋桶町における日常の風景である。職人が作り出す桶は、人間が生を受けてからあの世へ逝くまで、江戸市中でのあらゆる用途に使われる。
そんな一角にあるのが、ツボ師の木兵衛が治療を行う小さな長屋があった。木兵衛の誠実な施術と親しみのある話術は、施術による治癒効果と合わせて町人衆の評判を呼んでいる。
この日も、板の間では1人の男の子がうつ伏せの状態で木兵衛の施術を受けている所である。木兵衛は、慣れた手つきで小さい子供のツボを見つけた。
「腰のツボを押しているけど、痛くないかな?」
「うん、全然痛くないよ」
木兵衛が押しているツボは、腰にある腎愈である。腎愈は、寝小便に効果のあるツボの1つである。
「ぼくの寝小便、本当に治るの?」
「わしの施術とぼうやの強い気持ちがあれば治るからね」
施術が終わると、腹掛け1枚の男の子はその上から着物を着用しようとしている。そばには、男の子の母親らしき女の人が座っている。
「すいませんけど……。お代はこれだけでよろしいでしょうか?」
「小さいぼうやだし、12文でいいよ。ここは、お金に余裕がなくても、病を癒すための施術を行うのがわしの役目ですから」
木兵衛に施術を頼む場合のお代は、大人が24文、子供が12文である。高額なお代が求められる町医者と比較すると、その良心的なお代は長屋の住民にとって有難いものである。
「寝小便が治ったら、またくるからね」
男の子が愛くるしい笑顔でそう言うと、母親と手をつないで長屋から路地のほうへ出た。それと入れ替わるように、急激な腰痛に耐えかねた大工職人の男がやってきた。
「大腸愈のツボを押しますから、しばらくの間辛抱してください」
「いててっ、いててててててっ……」
ツボの押し方は、施術を受ける人によって異なる。大人であれば強めに、子供であればやさしくツボを押さえるのが木兵衛の施術の基本である。
「施術は終わりました。これだけ押せばもう大丈夫だろう」
「いつの間にか治まっているとは、木兵衛のツボ押しは噂通りってわけだ。はっはははは!」
大工職人は、木兵衛の施術の腕に感心しながら豪快な笑い声を上げている。施術前の苦痛に満ちた顔つきだったのがまるで嘘のようである。
「おいらの大工仲間にも、木兵衛のことを伝えておくよ。木兵衛のツボ押しを受けたら、腰の痛みも一発で治るってな」
江戸っ子ならではのきっぷのよさに、木兵衛は柔和な顔立ちで大工の男の話につき合っている。ささいな話に耳を傾けるのも、ツボ師の仕事を続ける上で大切なことである。
お代をもらって先客を送り出すと、木兵衛は次の客がやってくるまで仰向けに寝転がって一休みしている。そんな木兵衛は、ツボ師としての顔とは別にもう1つの顔を持っている。しかし、表の仕事とは違って、裏の仕事を知っている人は誰もいない。
その頃、表通りでは読み売りの男の人が何かを読み上げている。周りには、老若男女問わず多くの人々が野次馬のように集まってきた。
「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! どえらいことが起こったよ! おなじみ夜暗(やぐら)の忍(しのび)が、子の刻に両国箱崎へ現れたってもんだ! 何の罪もない商人を手討にした旗本の戸倉盛勝の一団を屋敷にてバッサリ斬り倒した! さあ、詳しいことはこれを読めば分かる! さあさあ、買った買った!」
菅笠をかぶった読み売り屋は、右手に読み売りを掲げながら、いつもの名調子で聴衆に向かって声を上げている。これを聴いた町人衆はその内容に興味を持ったのか、次々と銭を差し出しては読み売りを受け取った。
寛政年間に入ったこの時代、老中に就任した松平定信による改革が打ち出された時期である。しかし、この改革は江戸市中の庶民にとっては、改悪と言わざるを得ない内容で非常に評判が悪い。
それ故に、町人衆の怒りの矛先は幕府のほうへ向けられていた。けれども、一言でも幕府への批判を口にすれば、御用聞きからにらまれることは確実である。
そんな息苦しい時代に現れた『夜暗の忍』の活躍に、溜飲が下がる思いを持つ庶民は数多い。
日暮れになっても、表通りは町人衆で賑わいを見せている。そこへやってきたのは、人々に群がろうとしない齢30過ぎの男である。その男は、他の人の誘いにも一切動じずに黙々と足を進めている。
「おい、何度誘っても振り向かないぞ」
「せっかく声を掛けたのに、そのまま黙って通り過ぎるなんて」
江戸っ子の気質とは違う一匹狼の姿に、町人たちがやっかみを感じるのも無理はない。しかし、その男には2つの顔があることを知る人はいない。
辺りが暗くなる中を歩き続けると、誰もいないであろう1軒の長屋が目に入った。
「誰もいないな」
男は周囲を見回してから、長屋の玄関に足を入れた。
そこで目に入ったのは、暗中でも目立つ2足の草鞋(わらじ)である。
「あいつ、もうきているのか」
本来なら不在であるはずの家屋にもかかわらず、男は怪しむ素振りを見せることはない。慣れた足取りで部屋の中へ入ると、その中央に地下へ通ずる階段らしきものを見つけた。
その階段は、大人の男が1人入れるのが精いっぱいの大きさである。地下の隠し部屋へ降りると、そこには何本ものろうそくが辺りをかすかに照らされている。
すると、聞き覚えのある声が男の耳に入った。その声の主は、30歳前後の風貌を持つ木兵衛である。
「清蔵、鞘師の仕事はどうなのか」
「おめえにそんなことは言われたくねえよ。まあ、おれたちにとっても鞘は大事なものだからな」
清蔵は、京橋南鞘町にて刀剣の鞘を作る職人として日々の仕事に勤しんでいる。分業化が進む鞘作りの中にあって、清蔵は鞘作りから塗りまで自ら手掛ける数少ない存在である。
「木兵衛、おれたちはどういう立場にいるのか、それは分かっているだろうな」
「表の仕事と裏の仕事、いずれも本業であるということだ」
木兵衛の表情は、ツボ師としての人情味あふれる性格とは明らかに異なる。それは、裏の仕事こそ彼らの本領を発揮する場であることを意味するものである。
そんな2人の前に突如現れたのは、齢60を過ぎた風貌の男である。その男が発する濁声は、人生経験を積んできた味わい深いものがある。
「陽(ひなた)と影、ここへきた理由は分かるな」
「ああ、分かるさ。何も事が起こらなかったら、ここへくる意味なんかないからな」
元締の前では、木兵衛は陽、清蔵は影という名前で呼ばれている。この漢字1文字の名前は、2人が裏の仕事で行う場合に使われる。
「いずれ重大なことになるかもしれないが……。実は、吉原のほうで少し気になることがあってなあ」
「吉原って、それはどういう意味だ」
「まだ事件が起こると言っているわけじゃない。ただ、いずれ起こるのではないかとわしは思っとる。打ちこわしが遠因となって、幕府が意次をやめさせたように」
元締は、表通りの商家にて材木問屋を営んでいる。表の仕事を行う傍らで、常連客と話し合う中で様々な情報を耳にする機会も多い。
そんな元締の口から出る言葉に、陽と影は真剣な眼差しでうなずいている。
「お前らは言わなくても分かっているだろうけど、忍の掟は分かっておるだろうな」
「自らの正体が相手に知られたら、仲間によって命を絶たれるということか」
「そういうことだ。まあ、陽と影がしくじるようなことはないと思うがね」
元締がそう言い残すと、その場から静かに去った。2人は、元締の言葉に改めて忍としての厳しさを痛感している。
「早くこっちへ行こうぜ!」「ちょっと待ってよ!」
女たちは洗濯の合間に、子供たちの掛け声に耳を傾けている。
これは、桶職人が多く住む長屋が立ち並ぶ京橋桶町における日常の風景である。職人が作り出す桶は、人間が生を受けてからあの世へ逝くまで、江戸市中でのあらゆる用途に使われる。
そんな一角にあるのが、ツボ師の木兵衛が治療を行う小さな長屋があった。木兵衛の誠実な施術と親しみのある話術は、施術による治癒効果と合わせて町人衆の評判を呼んでいる。
この日も、板の間では1人の男の子がうつ伏せの状態で木兵衛の施術を受けている所である。木兵衛は、慣れた手つきで小さい子供のツボを見つけた。
「腰のツボを押しているけど、痛くないかな?」
「うん、全然痛くないよ」
木兵衛が押しているツボは、腰にある腎愈である。腎愈は、寝小便に効果のあるツボの1つである。
「ぼくの寝小便、本当に治るの?」
「わしの施術とぼうやの強い気持ちがあれば治るからね」
施術が終わると、腹掛け1枚の男の子はその上から着物を着用しようとしている。そばには、男の子の母親らしき女の人が座っている。
「すいませんけど……。お代はこれだけでよろしいでしょうか?」
「小さいぼうやだし、12文でいいよ。ここは、お金に余裕がなくても、病を癒すための施術を行うのがわしの役目ですから」
木兵衛に施術を頼む場合のお代は、大人が24文、子供が12文である。高額なお代が求められる町医者と比較すると、その良心的なお代は長屋の住民にとって有難いものである。
「寝小便が治ったら、またくるからね」
男の子が愛くるしい笑顔でそう言うと、母親と手をつないで長屋から路地のほうへ出た。それと入れ替わるように、急激な腰痛に耐えかねた大工職人の男がやってきた。
「大腸愈のツボを押しますから、しばらくの間辛抱してください」
「いててっ、いててててててっ……」
ツボの押し方は、施術を受ける人によって異なる。大人であれば強めに、子供であればやさしくツボを押さえるのが木兵衛の施術の基本である。
「施術は終わりました。これだけ押せばもう大丈夫だろう」
「いつの間にか治まっているとは、木兵衛のツボ押しは噂通りってわけだ。はっはははは!」
大工職人は、木兵衛の施術の腕に感心しながら豪快な笑い声を上げている。施術前の苦痛に満ちた顔つきだったのがまるで嘘のようである。
「おいらの大工仲間にも、木兵衛のことを伝えておくよ。木兵衛のツボ押しを受けたら、腰の痛みも一発で治るってな」
江戸っ子ならではのきっぷのよさに、木兵衛は柔和な顔立ちで大工の男の話につき合っている。ささいな話に耳を傾けるのも、ツボ師の仕事を続ける上で大切なことである。
お代をもらって先客を送り出すと、木兵衛は次の客がやってくるまで仰向けに寝転がって一休みしている。そんな木兵衛は、ツボ師としての顔とは別にもう1つの顔を持っている。しかし、表の仕事とは違って、裏の仕事を知っている人は誰もいない。
その頃、表通りでは読み売りの男の人が何かを読み上げている。周りには、老若男女問わず多くの人々が野次馬のように集まってきた。
「さあさあ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい! どえらいことが起こったよ! おなじみ夜暗(やぐら)の忍(しのび)が、子の刻に両国箱崎へ現れたってもんだ! 何の罪もない商人を手討にした旗本の戸倉盛勝の一団を屋敷にてバッサリ斬り倒した! さあ、詳しいことはこれを読めば分かる! さあさあ、買った買った!」
菅笠をかぶった読み売り屋は、右手に読み売りを掲げながら、いつもの名調子で聴衆に向かって声を上げている。これを聴いた町人衆はその内容に興味を持ったのか、次々と銭を差し出しては読み売りを受け取った。
寛政年間に入ったこの時代、老中に就任した松平定信による改革が打ち出された時期である。しかし、この改革は江戸市中の庶民にとっては、改悪と言わざるを得ない内容で非常に評判が悪い。
それ故に、町人衆の怒りの矛先は幕府のほうへ向けられていた。けれども、一言でも幕府への批判を口にすれば、御用聞きからにらまれることは確実である。
そんな息苦しい時代に現れた『夜暗の忍』の活躍に、溜飲が下がる思いを持つ庶民は数多い。
日暮れになっても、表通りは町人衆で賑わいを見せている。そこへやってきたのは、人々に群がろうとしない齢30過ぎの男である。その男は、他の人の誘いにも一切動じずに黙々と足を進めている。
「おい、何度誘っても振り向かないぞ」
「せっかく声を掛けたのに、そのまま黙って通り過ぎるなんて」
江戸っ子の気質とは違う一匹狼の姿に、町人たちがやっかみを感じるのも無理はない。しかし、その男には2つの顔があることを知る人はいない。
辺りが暗くなる中を歩き続けると、誰もいないであろう1軒の長屋が目に入った。
「誰もいないな」
男は周囲を見回してから、長屋の玄関に足を入れた。
そこで目に入ったのは、暗中でも目立つ2足の草鞋(わらじ)である。
「あいつ、もうきているのか」
本来なら不在であるはずの家屋にもかかわらず、男は怪しむ素振りを見せることはない。慣れた足取りで部屋の中へ入ると、その中央に地下へ通ずる階段らしきものを見つけた。
その階段は、大人の男が1人入れるのが精いっぱいの大きさである。地下の隠し部屋へ降りると、そこには何本ものろうそくが辺りをかすかに照らされている。
すると、聞き覚えのある声が男の耳に入った。その声の主は、30歳前後の風貌を持つ木兵衛である。
「清蔵、鞘師の仕事はどうなのか」
「おめえにそんなことは言われたくねえよ。まあ、おれたちにとっても鞘は大事なものだからな」
清蔵は、京橋南鞘町にて刀剣の鞘を作る職人として日々の仕事に勤しんでいる。分業化が進む鞘作りの中にあって、清蔵は鞘作りから塗りまで自ら手掛ける数少ない存在である。
「木兵衛、おれたちはどういう立場にいるのか、それは分かっているだろうな」
「表の仕事と裏の仕事、いずれも本業であるということだ」
木兵衛の表情は、ツボ師としての人情味あふれる性格とは明らかに異なる。それは、裏の仕事こそ彼らの本領を発揮する場であることを意味するものである。
そんな2人の前に突如現れたのは、齢60を過ぎた風貌の男である。その男が発する濁声は、人生経験を積んできた味わい深いものがある。
「陽(ひなた)と影、ここへきた理由は分かるな」
「ああ、分かるさ。何も事が起こらなかったら、ここへくる意味なんかないからな」
元締の前では、木兵衛は陽、清蔵は影という名前で呼ばれている。この漢字1文字の名前は、2人が裏の仕事で行う場合に使われる。
「いずれ重大なことになるかもしれないが……。実は、吉原のほうで少し気になることがあってなあ」
「吉原って、それはどういう意味だ」
「まだ事件が起こると言っているわけじゃない。ただ、いずれ起こるのではないかとわしは思っとる。打ちこわしが遠因となって、幕府が意次をやめさせたように」
元締は、表通りの商家にて材木問屋を営んでいる。表の仕事を行う傍らで、常連客と話し合う中で様々な情報を耳にする機会も多い。
そんな元締の口から出る言葉に、陽と影は真剣な眼差しでうなずいている。
「お前らは言わなくても分かっているだろうけど、忍の掟は分かっておるだろうな」
「自らの正体が相手に知られたら、仲間によって命を絶たれるということか」
「そういうことだ。まあ、陽と影がしくじるようなことはないと思うがね」
元締がそう言い残すと、その場から静かに去った。2人は、元締の言葉に改めて忍としての厳しさを痛感している。
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