唯物論者

唯物論の再構築

プーチン独裁と観念論

2022-05-05 06:57:36 | 政治時評


1)独裁の敗北必然性

 虚偽は真理の前に敗北を運命づけられている。このことは虚偽に従う全ての行動が破綻することから経験的に確認できる。言い換えるなら物理的事実の反撃は、生体における事実に反した行動決定を不合理にする。見えているものを避けながらでないと、生体は道を歩くこともできない。これと同様に虚偽に従うどのような理屈にも、それに関わる誤謬がつきまとう。それゆえに行動の結末を待つまでも無く、虚偽に従う行動の破綻も予測可能である。唯物論において真理は事物の側にあり、虚偽はその対極に事物ならぬ意識において生じる。もちろん意識が全て虚偽であるのではなく、事物に根拠を持たない意識が虚偽である。またこのような虚偽意識があるからこそ、唯物論は事物に根拠を持つ真理の意識として現れる。もし事物の真理を隠蔽し、虚偽意識を根拠にする唯物論があるなら、それは唯物論を僭称した観念論にすぎない。したがってそのような偽唯物論の自己主張も、それが含む虚偽において破綻を運命づけられている。この虚偽の破綻必然性は、そのまま虚偽に根拠を持つ上部構造の崩壊必然性に転用できる。すなわち虚偽を根拠に持つ思想や慣習、集団の規定や法、そして政治体制ならびに国家は、崩壊を運命づけられている。それゆえに唯物論の歴史観は、経済活動が自らの桎梏となる上部構造を崩壊させ、自らを発展させる上部構造を構築する唯物史観として現れた。そしてそのような上部構造の崩壊は、例えばソビエト連邦の崩壊として現れた。このような虚偽の破綻必然性、および虚偽の上部構造の崩壊必然性は、そのまま独裁の敗北必然性に該当する。独裁は話し合いの拒否であり、他者の真理を否定した自己の真理の絶対肯定である。なるほど他者の虚偽を否定するためには、自己の媒介を必要とする。しかし同様に自己が自らの虚偽を否定するためには、他者の媒介を必要とする。それゆえに話し合いを拒否する独裁は、例え最初に真理であったとしても、媒介の拒否において自体的に虚偽である。それだからこそ独裁の敗北は、虚偽の破綻必然性、および虚偽の上部構造の崩壊必然性に従う。ただし独裁の敗北必然性だけを捉えて言えば、逆になぜ独裁が必要とされたのかが見えてこない。それゆえに旧時代における独裁成立の一般的背景について次に確認する。


2)独裁成立の一般的背景

 自立した民主主義が機能しない旧時代では、もっぱら支配者の独裁体制が対立する各地域を支配した。そこでの地域間の対立は話し合いで解決できず、それゆえに両者の媒介となる支配者が暴力を通じて両者を調停する。支配者に求められるのは両者からの中立であり、端的には両者の否定である。そのような支配者は、両者にとって独裁者である。そこでの独裁者は紛争解決のための必要悪であり、独裁者なしに旧時代の地域間の対立は紛争を回避しえなかった。ここでの独裁者は、経済活動の対立を解消する触媒であり、あるいは緩衝材としての役割を果たす。またそのような時代では、独裁者同士の対立も必然となる。それと言うのも独裁者は話し合いの否定者である。そのような独裁者が、相互の話し合いで対立を回避するのは矛盾である。しかもそのような対立における支配陣営内の意志統一は、即決即断を要する。話し合いと説得の猶予なしに対立が激化する旧時代では、独裁者の素早い決断が互いの陣営の構成員の生死を決める。それゆえにこのような集団の迅速な意志決定の面でも、旧時代における独裁者は必要悪であった。ところがこの必要悪は、対立の調停においても、集団の迅速な意思決定においても、その行動の真を必要とする。間違った調停は対立を逆に激化させ、間違った意志決定は戦いを敗北に導く。それゆえに独裁者は、自らの出鱈目な恣意とも対立する。それゆえに少なくとも独裁者は、それなりの識者との話し合いを通じて自らの行動の真を確かめる必要がある。しかしこれは話し合いを否定する独裁にとって矛盾である。もしここで独裁者が行動の真を識者に委ねる場合、独裁者は自らの独裁権を識者に委ねてしまう。この場合に独裁者は既に独裁者ではなく、識者が新たな独裁者に転じる。その新たな独裁者は、古い独裁者との比較でより真なる独裁者である。とは言えこのことにより古い独裁者は、対立の調停と迅速な意思決定に関し、行動の真を得る。古い独裁者による権力の移譲は、独裁者に対して求められた目的を実現する。そして目的を実現したがゆえに、独裁者は役割を失う。ただし独裁者が独裁者であるのは、迅速に自らの退陣について意思決定をせず、提示された真理を否定して自らの恣意を真と偽ることにある。このような独裁者が体現するのは、端的に言えば虚偽である。これに対して新しい独裁者は、真理を体現する。それゆえにこの新たな独裁者は独裁者ではない。ただしそれは、最初の独裁者との比較においてのみ独裁者ではないと言うだけに留まる。一方で独裁者が完全な虚偽になれば、独裁者は自らを存立させる支持基盤を失う。それゆえに独裁にはそれなりの真理を飾る必要がある。その空虚な真理が目指すのは、独裁の虚偽の粉飾である。その精神的姿は、独裁者の都合に合わせて中身を差し替えた民族主義や宗教、および共産主義の擬態イデオロギーとして現れる。そしてその物理的姿は、虚飾の冠や勲章、または儀式の形で現れる。


 2a)事実隠蔽と民主主義

 物理的事実が独裁者の私的利害に反する場合、独裁者は物理的事実を必要としない。そして往々にして独裁者は、そのような場合に事実の隠蔽を必要とする。ただしそれは既に隠蔽の事実において物理的事実の真理を拒否し、その拒否において真理に対立する。それゆえに事実の隠蔽は、独裁者に都合の良い情報だけを生み、虚偽の思惟を周囲にもたらす。したがって独裁者は、事実に敵対して周囲に不幸と虚偽をもたらす虚言者である。また独裁における事実の隠蔽がもたらすのは、単なる情報の遮断や虚偽の流布に留まらない。それは物理的力を持って事実の殲滅を目指す。その最初の殲滅対象は、事実を語る者である。そしてその物理的力の実行が、独裁者に対して独裁者としての物理的実存を与える。一方で真理はそれ自身が物理的力であり、分け隔てなく全てを制圧する。それが実現するのは、事実に従う真理の神的独裁である。真理がこのような力を持つ以上、本来なら真理の実現において人間による独裁は不要である。人間は敵対者の殲滅を真理に任せ、自ら暴力を駆使する必要も無い。ただしこの理想的無政府主義は、独裁の現実に対して短期的に無力である。それは長期的な独裁体制の疲弊を通じてようやく独裁を崩壊させる。ここで独裁体制に疲弊をもたらすのは、事実認識の欠落であり、独裁者が自らもたらした虚言である。事実認識は社会生活の維持に必要な情報であり、虚言は直接に社会生活の維持と敵対する。そもそも人間が或る事態に対処するためには、まずその事実認識から始めなければいけない。このことは、事実がいかに憤慨すべき内容を持つとしても変わらない。またそれだからこそ事実は、人間の類的利害と一致する。それゆえに例え手段として独裁が現れるとしても、その独裁は事実の真性を必要とする。そしてその真性を実現するのは、物理的事実の正確な公表である。ただし実際には対立する私的利害が、事実さえも二通りに表現する。そこで事実認識の齟齬を話し合いによって調停する政治手法が現れる。それは力による事実認定を否定する政治手法としての民主主義である。それは私的利害を排除し、類的多数により類的事実を抽出し、類的利害を目指す。それだからこそ民主主義の独裁は、独裁と区別され、独裁の対極におかれる。また実際に現実の独裁は、もっぱら真理の神的独裁と区別され、虚言の独裁に留まる。民主主義の登場において、虚言の独裁は事実に敵対し、自らの私的利害に従う単なる暴力に転じる。


 2b)独裁者の罠

 虚言者は自らの嘘を通じて利益を得る。そしてその利益はもっぱら嘘を通じた他者の行動の誘導により得られる。それは他者の利益損失に伴う自己利益の実現であり、端的に言えば詐欺による他人の生活の搾取である。この場合に嘘は虚言者の生活を支える大事な手段である。それゆえに詐欺により生計を立てる虚言者は、自らの嘘を反省しない。虚言者は自らの発言を虚偽として自覚し、自らの行動については物理的事実を根拠とする。そして他者の行動については虚偽を根拠にするように期待する。一方で唯物論は物理的事実を根拠とし、観念論は事実ならぬ捏造された意識を根拠とする。したがってこの場合の虚言者は、他人に対して観念論をふりまく観念論者であり、自らに対しては唯物論を徹底する唯物論者である。ただし虚言者が周囲にもたらす虚偽情報は、それを信じた周囲の者を観念論者に仕立て上げ、彼らに生活困難と不幸をもたらす。このような虚言者は、そもそも事実を知らずして虚言することはできない。そして同様に虚言を弄する独裁者も、事実を知っていなければいけない。ところが独裁者が振りまく虚言および虚偽の思惟は、巡り巡って独裁者にも降りかかる。いわゆる“独裁者の罠”は、独裁者にとって不都合な事実報告が下位支配層から上位支配層に伝達するうちに、下位支配層が持つ上位独裁者に対する恐怖により、事実報告が正反対の虚偽報告に転じることを言う。この“独裁者の罠”がもたらす事実の消滅は、独裁者における事実認識を阻害し、事実に対応する必要な行動を阻害する。もともと虚言者は嘘つきの自覚に対し、その不名誉の苦痛を回避しようとし、次第に自らの嘘を真理だと思い込む。独裁社会ではさらにその自律的な事実忘却の仕組みが、虚言者の周辺に実体を得て外化する。しかもこの事実忘却の仕組みは、独裁者とその周辺だけでなくその社会全体に伝播する。事実を隠蔽された社会では、下位支配層であろうと上位支配層であろうと、不都合な事実の全体を知ることはできない。またそのような独裁社会では、その知り得た事実自体が、知り得た人間を口封じの危険にさらす。それゆえに独裁社会において事実を知った者は、見えた物を見えていないと信じる異常者にならざるを得ない。これらの結果として独裁社会では、独裁者の都合に合わせた情報だけが流布する。しかし道を歩く生体が見えているものを見えていないと思い込むと、その者は歩くたびにつまづく。この物理的事実の反撃は、生体における事実に反した行動を困難にする。同様に虚言者が自ら発した嘘を自ら真理と信じると、物理的事実の反撃が虚言者の生活を困難にする。ただし独裁社会の場合、この虚言者に対する物理的事実の反撃は、独裁者だけに与えられるのではない。それは独裁社会全体に対して与えられる。それゆえに長期的に言えば、どのような独裁体制もその長期的持続は不可能である。


3)観念論成立の一般的背景

 独裁を成立させるイデオロギーは、事実に敵対する観念論として現れる。旧時代でそれはもっぱら宗教や迷信として現れた。ただしそれらはあからさまに虚偽意識にだけ根拠を持つ観念論である。近代においてこのあからさまな観念論は、科学と民主主義により或る程度駆逐されている。このあからさまな観念論を駆逐する背景には、一方で見えた物を見えたままに理解する日常的で素朴な唯物論の抵抗があり、他方で宗教や迷信が持つ論理不整合に対する観念論内部における自浄作用がある。最初に現れる素朴な唯物論は、直接的事実に対する直接的信頼において、直接的事実に反する虚偽と対立する。しかしそれはその素朴な信頼において、直接的事実に現れる錯覚に対し無防備である。光線の屈折による対象の見え方の変化に対応しなければ、その者は対象の実際の姿を見誤る。また偶発的経験を頼りにして全ての行動を決定するなら、その者は間違った結果を得る。この場合に直接的事実は、現実の対象と異なる現象に過ぎない。そして現実の対象は直接的事実と異なる現象の実体として理解される。しかしこの場合、直接的事実が物理的事物であるなら、現実の対象は物理的事物ならぬ何かである。それゆえに現象の実体は、直接的事実と異なるイデアとして、すなわち物理的事物ならぬ意識として現れてくる。そしてここに、物理的事物を根拠とする唯物論とイデアを根拠とする観念論の対立も始まる。現代の唯物論の場合、現象の実体が物理的事物であり、現象の方が観念であると考える。しかし旧時代において唯物論は、直接的事実に現れる錯覚を真実だと信じる軽率者として観念論者に理解された。ただしこのような唯物論の扱いは、当時の思想世界内部で唯物論者を貶めるために使われた虚言にすぎない。そこにあるのは、理屈の実態と異なる唯物論のレッテルである。それは実際の唯物論に対する呼称ではなく、むしろもっぱら偏狭な見解に拘泥する観念論者に対して与える蔑称である。またそれゆえに旧時代において唯物論のレッテルは、対立する観念論の内部で相互に相手を罵る表現として使われた。しかもこのような理解は、現象の実体を意識として扱う観念論を正当化するものでもない。


 3a)ロシア共産主義の観念論

 近代史を襲った恐るべき事態は、ロシアにおいて唯物論であるはずの共産主義が事実と敵対し、事実隠蔽と虚言が支配する独裁社会を作り上げたことである。そこに現れたのは、事実と敵対する唯物論と言う奇怪な理屈である。とは言えその唯物論としての威力は、一方で共産主義の喧伝において非共産主義社会における民族自決や人権活動などの反体制運動を牽引した。しかし肝心の共産主義本国は、自国を民族抑圧と人権抑圧の人間収容所に作り変えてしまった。革命当初はロシア国内の混乱を一過的な事態と捉える向きもあったが、ほどなくロシア共産主義が赤色官僚の支配する単なる封建主義的独裁国家にすぎないことが明らかとなる。このときにロシア共産主義の変質をもたらしたのは、レーニン率いるボリシェヴィキが行った実質的な民主主義否定である。なるほどその独裁の完成は、ロシア革命を主導した政治局メンバーの皆殺しを通じてスターリンが実現した。しかしその独裁体制の根源には、レーニン自身が抱えた民主主義軽視の人間不信があり、スターリンはその端的な人格化にすぎない。しかもボリシェヴィキは憲法制定議会の少数派であり、その革命自体が民主主義の否定の上に成り立っていた。結局このボリシェヴィキの行動原理の欠陥は補正されることなく、すぐにボリシェヴィキ自らを実質的に崩壊させた。ロシアの外部にいる共産主義者は、ロシアのイデオロギーと体制がロシアの独裁を人間の独裁に変えるのを期待し、またそのように変わるのを前提にロシアの独裁を容認し、また支持していた。しかしその期待は裏切られ続け、実現することも無かった。後から見れば当然のことなのだが、そもそも独裁は事実を隠蔽し、虚偽をあたかも事実として流布することにより成立する。これに対して事実は現場の声として独裁の根元から湧き上がる。しかしそれが現場を超えて全体の事実として流布するためには、民主主義が必要である。このことをマルクスは「ゴータ綱領批判」において自覚していた。ところがロシアの共産主義独裁はその真実の声を全て締めあげて殺してしまった。つまるところ独裁は、それ自体が事実の対極にあり、唯物論の対極なのである。そのような共産主義は観念論にほかならず、唯物論としての共産主義ではない。


 3b)ロシア共産主義の敗北

 事実が否定されて虚偽が流布される社会では、通用するのは支配者の都合に合わせた虚偽だけであり、正しい情報が流通しない。そして事実に反した情報に従って、これまた支配者の都合に合わせた施策を支配者が進める。そしてその施策に対する評価も、虚偽報告に従った支配者の都合に合わせた自己満足となる。結果としてその社会では、何が問題でどのように施策を進めるべきかも全て出鱈目になる。これではまともな経済活動は無理なので、それなりに生産現場では非生産的な体制に対抗する者もいたはずである。しかしそのような対抗は、独裁社会において危険な行為にすぎない。それゆえにとりあえず生活できるなら、独裁社会において非生産的な運用に対抗する者もいなくなる。資本主義先進国における共産主義批判の一つに、“共産主義体制では労働者は生活不安が無いので、労働者は働かなくなる”と言うものがある。しかしこれは共産主義を貶めるための単なる虚言である。これではロシア共産主義において労働者があたかも裕福で、仕事をする必要が無かったかのようである。実態はそうではなく、まじめに働こうとすると逆に生活の危険にさらされる。それゆえに独裁社会では労働者が真摯に働けないのである。似たような事情は芸術においても再現される。芸術表現の一方は悲劇であり、もう一方は喜劇である。悲劇が表現するのは個別の露呈であり、喜劇が表現するのは普遍の露呈である。悲劇は普遍に見捨てられた個人を描くことで、現実の虚偽を暴く。喜劇も体制の現実が抑圧した普遍的気分を発露させる。つまり喜劇が笑い物にするのは、現実の虚偽である。いずれもその尖鋭な表現により露呈させるのは、現実が抱えた虚偽である。そして独裁社会は、このような表現を許すものではない。自ずと独裁社会ではあたりさわりの無い出来事を描く芸術だけが生き残る。しかしそれは現実から遊離した芸術であり、過ぎ去った時代の生命を失った芸術である。これらの事情はロシア社会の経済発展を、個人生活の充実から遊離した歪んだものに変えた。そしてその累積はロシアの独裁体制を内部から崩壊させ、結局70年の時間をかけてもロシア共産主義は貧困の根本的解決をできずに自滅した。


 3c)ロシア愛国主義

 共産主義が想定した虚言の独裁は、所有が資本家に集中する資本主義的独占に基づいて成立するものであった。しかし資本家を一掃したはずのロシア共産主義では、所有権が共産党官僚に集中し、その赤色独占に基づく国民弾圧が発生した。とは言え共産主義の看板は、平等な所有を謳う。それゆえにロシアにおいて、共産党による資本主義的独占の事実はタブーである。そしてこのことが共産党官僚の富裕を、資本主義的富裕と違うものにした。簡単に言えばそれは、宗教的位階に従う身分制社会における富裕である。ただロシアでは宗教の代わりに、骨抜きにされた共産主義がその宗教的位階の富裕に正当性を与えていた。しかし所有の不均等の事実は、すぐにその看板としての共産主義自体を腐食させる。そこで誰も信じなくなった共産主義の代わりに、今度はロシア共産主義において愛国主義が現れた。そしてそれに従い、ロシア共産主義が実現した身分制も、愛国主義に従う軍属の身分制に移行する。その敵は、共産主義の大義に基づくロシア独裁体制の拡張、および体制に敵対する国民を資本家の手先とみなす虚言により生み出された。一方でもともと共産主義は国際主義であり、ロシア愛国主義と折り合わない。そこにおける民族主義も国際主義に従属する。他方でその国際主義は民族主義の連合規則であり、民族主義は国際主義において否定されない。それゆえにレーニンもバルト三国を独立させ、ウクライナやベラルーシなどのロシアの地域民族についても自治国としてロシアから分離した。これに対してロシア愛国主義は、このレーニンの施策を反故にし、再びこれら独立国家と自治国をロシア支配下に引き込む。さらに第二次大戦の戦勝国となったロシアは、大戦後の東欧も自らの所領とみなすことになる。これを可能にしたのは、腐食した共産主義の看板が東欧諸国でまだ有効であったこと、そしてナチズムを資本主義の権化と捉えた戯画的理解において、東欧諸国がロシア独裁に対して無防備であったことに従う。ところが共産主義と違いロシア愛国主義は、これら諸国で独裁体制を正当化する論拠として通用しない。そのために東欧諸国における独裁の正当性も、共産主義の看板だけが保証した。そしてこのことが東欧諸国における独裁への抵抗を、反共産主義としてのみ成立させた。


 3d)プーチン民族主義

 ロシアにおける共産主義崩壊により、ロシアは議会制民主主義国家となった。それゆえに世間的に共産主義=独裁体制と捉える限り、ロシアにおける独裁体制による恐怖支配も終わったはずであった。ところがプーチンによる新たな独裁支配がロシアで始まると、この予想も裏切られることになる。ここで露呈したのは、共産主義であろうとなかろうと独裁体制を醸成する特異なロシア風土の現実である。その独裁は一方で国内におけるスターリンやヒトラーの恐怖政治樹立を踏襲し、他方で国外における第二次大戦時のドイツ軍や日本軍の他国への軍事侵攻と謀略工作を踏襲する。ただしプーチン独裁が共産主義独裁と異なるのは、プーチン自身が私有財産を是認し、共産主義を否定することにある。それゆえにプーチン独裁は、ロシアにおける共産主義独裁と違い、プーチン自身とプーチンに追従する資本家の王族のような贅沢な生活を悪びれる必要も無い。プーチンとその仲間たちは、その贅沢な生活をおおっぴらに資本家の当然の権利として是認できる。この点のロシア独裁体制は、共産主義独裁体制の時代を通じて見ても、北朝鮮で社会主義を語る金王朝よりも世間一般に対してまだ誠実である。しかし逆にプーチンにとってこの共産主義の否定は、自らの良心とロシア国民に対するイデオロギー的煙幕を喪失させる。これに関して、ウクライナ侵攻前にプーチンが、汎スラブ主義なる民族神話を起草したとの話題がある。それはヒットラーの汎ゲルマン主義を模倣した汎スラブ主義だとの話である。この汎スラブ主義は、ロシアの世界支配を正当化するイデオロギーであり、かつてロシアが題目として掲げていた共産主義の喪失を埋め合わせるためにプーチンが立ち上げた思想らしい。もちろんそこに現れるスラブ民族は、ヒットラーの考えるアーリア人と同様に、自己都合の虚偽観念なのであろう。それはプーチン自身をスラブの盟主とみなし、スラブ以外の民族を否定するだけでなく、プーチン以外のスラブ全体の自由を否定するための神話である。このような選民思想は、世界のどの国家にも登場し、もちろん日本にも沢山と居る。しかし不思議な事にそれらの国粋主義者は、プーチンを筆頭にした他国の国粋主義者を罵る割に自らの思想に都合の悪い自国の事実を無視し、プーチンと同様にその弁明の神話を構築するのに忙しい。


4)事実の復権

 旧時代の思想世界において観念論が唯物論を圧倒したのは、当時の事実認定が曖昧で情報一般に信頼性が無かったことに従う。伝聞や推定の延長に現れる迷信に対して無防備な思惟は、確実な思惟を得るために思惟規則の妥当性に自らの根拠を見出そうとした。このことが哲学においてヒューム経験論からカント超越論を経てヘーゲル弁証法に至る観念論の系譜を成している。他方で唯物論はギリシャ古代哲学の時代から観念論の傍流として非体系的な反体制思想のまま現代に至っている。ただしこの理解は、プラトン・アリストテレスが樹立した後代の観念論の系譜からの見え方である。一般に唯物論として理解されるレウキッポスやデモクリトスはエレア派の一群にあり、思惟と物体の明確な区別の無い世界と同様に、その思想は当時の観念論と区別されない。そして逆に観念論もまた唯物論と区別されないからである。この似たような事情は、カント以前のデカルトやスピノザ、ライプニッツの時代にも該当する。その時代の思想世界では、既にキリスト教の支配下で無神論の唯物論的科学が弾圧されている。そしてそのことが当時の全ての思想に対し、唯物論の自己認識を阻ませていた。またなぜ唯物論が反体制思想なのかと言えば、事実にのみ忠実な思想は、事実を嫌う体制に忌避されることに従う。しかし社会体制がいかに唯物論を忌避しても、その行動は事実を知る必要があり、その理屈も唯物論を目指す必要がある。そしてその先には自由な言論と民主主義の必要が現れる。この判断を間違う限り、その社会体制は崩壊せざるを得ず、崩壊を避けようとするなら、独裁体制でさえ自らを自律的に崩壊させる必要を持つ。事実の復権は観念論における思惟規則の樹立の延長上に現れる必然であり、このことが観念論からさえも唯物論の復権を要請させる。この点で言えば、唯物論の共産主義を国是としたソ連は、事実を忌避したがゆえに実際には唯物論国家ではない。そして唯物論国家ではないのであれば、それは共産主義国家でもなかった。


 4a)東欧革命とソ連崩壊

 知の普遍化を可能にする情報技術は、経済発展の重要な基礎を成す。それゆえに情報技術の発展は文字と印刷技術、さらに通信技術の進展を経て一般大衆の生活に様々なメディアの形で定着した。この技術の大衆化では、特に学問と芸術に対する知的要請が大きな推進力になっていた。一方で情報技術は、共同体の軍事において重要な構成要素でもある。それゆえに軍事は、経済的な必要が無くとも情報技術を進展させる。言い換えると、軍事は単なる経済活動の必要を超えて情報技術の推進役を果たす。そしてこのことは共同体の自己管理機構である政治全般についても該当する。いずれにおいても必要とされる情報技術の進展は、それ自体が自由な言論と民主主義の進展である。したがって情報技術の進展は、政治的独裁体制と対立する事象である。そしてこの情報技術の進展に対応できなくなった独裁体制の自壊が、1990年代の東欧とロシアで連鎖的に発生した。それが東欧革命とソ連崩壊である。この時代に自由な言論と民主主義の武器となったのは、欧米の自由な生活的事実を直接的なテレビ映像を通じて東欧共産圏に知らしめた衛星放送である。東欧では西ドイツに近接する諸国だけではなく、ロシア支配から外れた社会主義のユーゴスラビアからも欧米の自由な生活風景が東欧共産圏に流布された。加えて携帯電話の画像技術と通信技術の向上が、独裁体制の虚言を暴く力となった。そして旧態依然な経済機構を維持してきただけの東欧とソ連の共産主義独裁体制は、それらの前にひとたまりもなく粉砕された。


 4b)独裁のジレンマ

 事実隠蔽と虚言は、独裁体制のイデオロギー的基礎を成す。それが隠蔽しようとするのは、独裁体制による生産手段の実質的な私物化の事実である。ところが事実隠蔽と虚言は、その生産手段の動作を妨げ、生産機構全体の腐食をもたらす。この生産手段がまともに動作しない事実は、隠蔽されることで生産手段を雪だるま式に機能不全にする。さしあたり独裁体制は、自らの富裕を維持する限りで旧態依然な経済機構を維持するので、生産手段の機能不全のしわ寄せを一般大衆が受ける。しかしそれがもたらす一般大衆の貧困は、独裁体制に対する貧民革命を根拠づける。ここで独裁体制が貧民革命を防止するために必要なのは、一般大衆の貧困の改善であり、その生活水準を向上させる経済発展である。しかし経済発展の基礎を自ら破壊しながら、経済発展を目指すのは矛盾である。ところがこのジレンマの事実は、自由と民主主義を基礎にして発展する他国が無ければ、独裁体制下の一般民衆に気づかれない。また独裁体制自身も自らの事実隠蔽と虚言に騙され、もっぱら自己欺瞞に陥っている。このジレンマは共産主義独裁に限った話ではなく、発展途上国における封建主義的な軍政を敷く多くの軍事独裁国家にも該当し、さらに宗教を基礎にした多くの原理宗教国家にも該当する。それらの独裁に共通するジレンマは、端的に言えば、知を破壊しながら知を目指す矛盾である。すなわち独裁体制が行う自由と民主主義の否定とは、人類に対する知の否定であり、その情報統制の中身は、国民に対する無知と無学の強制である。このような独裁国家の経済は、他国の経済発展の軌跡を追従する限りでのみ発展するが、それ以上の経済発展を望むことはできない。そして経済発展を遂げた独裁国家では、その実現した国民的富裕が独裁体制と矛盾し、国内で政治の二方向の選択肢の対立を引き起こす。それは独裁体制に対する肯定と否定の選択である。そしてこのときに独裁体制が勝利するなら、その国の経済発展も終焉する。


 4c)中国共産主義独裁

 鄧小平による中国経済の建て直しの基本は、スターリン主義が廃絶した私的資本の復活である。その中国近代化路線は、市場資本主義を通じて中国を世界第二のGDP国家にまで発展させた。ここでの共産主義独裁は、他国の経済発展の軌跡を追従する強力な梃子として機能する。なるほど中国共産党は、天安門事件を筆頭にして国民に忍従を強いたし、辺境民族に対する弾圧も継続している。しかしそれにより多くの経済施策を効率的に実現してもいる。しかも中国共産党は、改革開放で忍従を強いた国民に対しても、彼らの多くに生活的富裕を還元するのに成功している。したがって国民に対する飴と鞭に関して言えば、中国共産党は国民に対する鞭に相応した飴を多くの国民に与えている。しかも中国経済の発展は沿海部と都市部に限定しており、見方によれば、それ以外の貧困地域における改革開放が進む限り、まだ中国の経済発展に伸びしろがあるように見える。そしてこのような事情が、中国共産党の独裁体制を盤石であるかのように錯覚させる。ところがほとんど似たような事情は、スターリン独裁によるロシア工業化、または脅威の戦後復興を果たした第二次大戦後の東欧やソ連にあった。人工衛星や有人宇宙飛行を実現するソ連に対し、当時のアメリカは危機感を感じ、テレビなどの生活雑貨の工業化に喜ぶ自国の科学を卑下さえしていた。もちろんこの時点でソ連が独裁の否定的影響を分析し、自由と民主主義の国内体制構築に進んでいたなら、当時のアメリカの危機感も現実のものとなったかもしれない。しかし独裁体制とは、自由と民主主義の対極である。その体制は、自由と民主主義への転換の道を自ら封鎖している。ところがこの自由と民主主義の封鎖は、経済発展への道の封鎖に等しい。それゆえに独裁体制を続けたソ連は、全世界の共産主義者の期待をよそに、貧困のうちに崩壊した。当然ながらこのロシア共産主義と同じことは、中国共産主義にも該当する。すなわち独裁体制を続ける中国は、原理的に経済発展を持続し得ない。このことは、現在の中国の経済発展が遠からず失速するのを示している。


  4d1)現代中国における情報統制

 かつて安定下にあったソ連や東欧の独裁国家では、国民経済に比して肥大化した国民監視機構が、軍事の巨大化と相並んで国民経済の無意味な損耗を生んだ。しかしその非効率な経済体制は国民に貧困をもたらし、その多くが自壊した。いまだにその同じスターリン式独裁を続ける自称社会主義国は、より過酷なスターリン式独裁の道を選んだ北朝鮮だけが生き残っている。ただし北朝鮮の場合、韓国を含めた周辺国が逆に北朝鮮の崩壊を恐れている。そして北朝鮮の国民が離反すれば、即座に崩壊するのも目に見えている。これに対して中国共産主義は、より安定的に自らの経済規模に即応させつつ、より効率的な方法を選択しながら、国民監視機構と軍事の巨大化を進めているように見える。中国ではロシアと違い、日米欧の公共放送を一応見ることができるが、自国に都合の悪い部分が現れると瞬時に画像を停止する。またインターネット情報にも検閲が入っていて他国のネットソースに対するアクセスも制限されている。ニュースによると、どうやらアメリカはその情報統制の手法を、PCや携帯電話の基本ソフトにまで監視機能を組み込む徹底したものだと想定している。そもそも自由な言論を警戒する独裁体制では、公共通信はもちろん私的通信でさえ自由に語れない。発信側は言葉の一つ一つに体制批判を注意し、受信側も言葉の一つ一つに体制批判を注意する。この時点で情報一般の通信速度は著しく低下する。それゆえにもっぱら独裁体制化の通信では、既に通信内容を保証された同一内容の同一文言だけが流通する。もちろん基本的にその内容は、独裁体制に相応した無難な事柄で満たされている。その情報の質的低下を裏打ちするのは、情報に対する疑問の排除要請である。ただしその内実は、情報の発信者と受信者の双方に対する知的興味の麻痺の要請である。加えて大量に発生する監視情報を処理するためには、それに対応する巨大な監視機構を運用する必要がある。この監視機構の巨大化は、監視作業に従事する人員を増大させ、それらの人員を監視すべき自由な言論に晒す。事実の直視に晒される人員は、自国の虚言を容認するために、自らの良心の麻痺を要請される。この虚言の容認に対する代償は、監視作業者に対する優位な待遇を必要とする。しかしそれは監視機構のさらなる巨大化に帰結する。結局これらの情報統制がいかに効率的であろうと、それは無制約な情報通信と比して、全ての情報処理に余計な負荷を与える。またこれらの事柄は全て、中国の経済発展の足枷となる。そして知的興味と良心の麻痺は、国家を根底から腐らせる。つまり中国共産主義独裁は、釈迦の掌で飛び回っただけの孫悟空のように、ソ連や東欧の独裁国家が陥った運命から逃げられない。ちなみに筆者は、インターネットの基本ソフトに監視機能を組み込むことで完全な情報統制を実現するのは、必要とされる情報処理規模の巨大さゆえに不可能だろうと思っている。


 4e)虚言の愛国

 独裁体制下における情報の質的悪化と速度低下は、独裁体制の安定に貢献する。また独裁体制に生活保証された臣民も、独裁体制の維持を自らの生活の安定と心得て、独裁体制への忠誠を愛国と理解する。逆に国家の将来を憂い独裁体制に逆らう者、または同じことであるが、事実に対して忠実であろうとする者は、非愛国者とか非国民と呼ばれ、売国奴と罵られる。しかし事実の蓋をあけてみると、愛国を叫ぶものが国を衰退させる亡国の徒であり、そうでないものが国に将来を憂いた愛国者になる。このように愛国の実態が反転する事情は、現在のロシアや中国で横行しているが、かつては第二次大戦時の日本やドイツでも起きていた。あるいはそもそも同様の事態は、ソ連時代のロシアや文革時代の中国でも起きていた。しかし現在の日本やドイツではこのような愛国のフレーズが陳腐化した一方で、ロシアや中国ではいまだに愛国の自称が権威を持つ。この差異はやはり、第二次大戦の敗戦国として、自国が他国に対して犯した暴力の事実を直視させられた経験の有無に従う。それに加えて、中国の場合だと中国共産党が第二次大戦の戦勝権威を継承し、中国共産党と中国国家の同一視の元に、独裁への隷属と愛国を一体化させている。またロシアの場合もプーチンがなぜか第二次大戦の戦勝権威を継承し、プーチン独裁とロシア国家の同一視の元に、独裁への隷属と愛国を一体化させている。しかしここで敗戦による事実直視の強制にこだわると、自ずとロシアや中国に対する武力による圧倒的な敗戦を通じて、彼らに自国の暴力の事実を反省させなければいけなくなる。ところがドイツや日本が受けた仕打ちをロシアや中国に与えるためには、ロシアや中国だけでなく世界全体に大規模な惨劇が拡がるのを覚悟しなければいけない。実際にはおそらく戦犯国の無条件降伏が起きるずっと手前で停戦が実現し、敗戦による事実直視の強制も実現しないであろう。しかもロシアや中国に対して武力による圧倒的な敗戦を与えたとしても、民族的理性が不足する限り、彼らが自国の暴力の事実を反省する保証も無い。実際に日本やドイツにも、第二次大戦時の侵略の事実に対し、言い訳を繰り返す人間は今でも沢山いる。しかし旧時代と違い、現代における事実直視は、必ずしも敗戦による強制を必要としない。なるほど敗戦を通じて戦犯国を支配すれば、戦犯国に対して事実直視の条件を容易に確立する。ところが既に現代の情報技術は、かなりの水準で事実直視の条件を確立している。そうであるなら、惨劇の拡大を覚悟してまで戦犯国の無条件降伏にこだわる必要も無い。事実系列の地道な積み重ねは、虚言を根拠とする観念論を、理性の推論を通じて粉砕する。ちなみにこの同じ理屈は、グレナダ侵攻のような戦争犯罪を行って無反省な、自由と民主主義を自認するアメリカの愛国主義に対しても適用される。

(2022/05/05)

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