唯物論者

唯物論の再構築

隠れた変数

2011-05-03 15:58:41 | 相対性理論

 アインシュタインによる不確定性理論への生理的嫌悪は、隠れた変数理論として説明されている。この隠れた変数理論とは、言い換えれば、偶然は存在しないということであり、自由を錯覚とみなすものである。全ての運動を説明できると考えるなら、隠れた変数理論は当然の大前提とも見える。しかし偶然が存在可能だと考えることは、運動の説明を阻むものではない。むしろ偶然の成立をありのままに捉えることが、偶然に始まる全ての運動の説明を可能にする。それはさらに、説明可能なものを偶然に扱う誤りを排除するためにも必要な作業である。以下に偶然が存在可能である点を、最大集合と最小集合の両者から説明する。

 存在するものの最大集合は宇宙である。この定義から言えば、宇宙の外部には何も無い。つまり宇宙の運動に対する影響は、宇宙の外部に存在せず、宇宙の内部にしか自らの運動の決定因は存在しない。この場合、宇宙が自らの外部に対し運動方向を決定するのは、宇宙自身の任意である。つまり自由に宇宙は自らの外部に向かって運動する。言い換えれば、宇宙自体の運動は、自らの外部に対し偶然として現れる。もし宇宙が自らの総体において自己原因だとすれば、この段階で既に偶然も存在可能だと示される。

 しかしこの場合でも宇宙の運動は、宇宙自身にとって必然であり得る。宇宙が自らの外部のいかなる向きに対して運動を行うにしても、宇宙の内側にその原因があると考えられるためである。言うなれば、宇宙自身が自らの内なる決定因に従って、宇宙の外部の特定の向きに対し進行を進めたにすぎないとみなせる。例えば宇宙の遺伝子とか、宇宙の本能とか、なんらかの意思決定要素が宇宙の総体の運動を決定したとみなせる。言い換えれば、宇宙は自ら自由意志を得ていると思い込んでいても、実はそのような内なる決定因に従っていただけとみなせる。

 宇宙が内なる決定因をもつ場合、その前提から言えば、内なる決定因に対する影響は、内なる決定因の外部に存在せず、内なる決定因の内部にしか自らの運動の決定因は存在しない。この場合、内なる決定因が宇宙に対し運動方向を決定するのは、内なる決定因自身の任意である。つまり自由に内なる決定因は宇宙に対し運動する。言い換えれば、内なる決定因自体の運動は、宇宙に対し偶然として現れる。もし内なる決定因が自らの総体において自己原因だとすれば、この段階で偶然も存在可能だと示される。

 しかしあいかわらずこの場合でも内なる決定因の運動は、内なる決定因自身にとって必然であり得る。内なる決定因が宇宙に対していかなる作用を与えるにしても、内なる決定因の内側にその原因があると考えられるためである。言うなれば、内なる決定因自身が自らのさらに内なる決定因に従って、宇宙に対し作用を与えたにすぎないとみなせる。言い換えれば、内なる決定因は自ら自由意志を得ていると思い込んでいても、実はそのようなさらなる内なる決定因に従っていただけとみなせる。

 このような形で内なる決定因は、上位集合の運動を決定する役割を果す。仮に内なる決定因が既に現れた上位決定因と完全に同格だと示された場合、そこで既に隠れた変数理論は破綻する。人間が神の意思を決定したら、神は決定者ではなくなってしまうのと同じである。したがって玉ねぎの皮むきのような決定因の深層化は、存在者の最小集合がもつ決定因にまで行き着くしかない。

 決定因の追跡を存在者の最小集合にまで辿った場合、それ以上の内なる決定因の追跡は、矛盾に遭遇する。最小集合は定義であり、定義に従えば、それ以上の集合の分割が不可能だからである。つまり最小集合は、定義に従えば、それ以上に内なる決定因をもち得ない。前提から言えば、最小集合に対する影響は、最小集合の外部に存在せず、最小集合にしか自らの運動の決定因は存在しない。この場合、最小集合が上位集合に対し運動方向を決定するのは、最小集合自身の任意である。つまり自由に最小集合は外部に対し運動する。言い換えれば、最小集合自体の運動は、上位集合に対し偶然として現れる。最小集合は自らの総体において自己原因でしかあり得ず、この段階で偶然の存在が確定する。

 アインシュタインは、自らの決定論的世界観を唯物論者スピノザに結び付けている。残念ながら、スピノザは物質を自律するものとみなしており、正確にはアインシュタインはスピノザ主義者ではない。隠れた変数理論は、存在だけが世界に存在し、無はどこにも無いというラプラス理論が示した結論と同じである。したがってアインシュタインはラプラス主義者と自認すべきである。決定論への反論は、無の存在についてのハイデガーの説明がすでに完結させている。上記の説明はその単なる焼き直しである。
 はじめに述べたように、物体運動の偶然性は、物理学を不要にしないし、また唯物論を否定しない。ただし偶然性の恣意的解釈が、コペンハーゲン解釈における意思説のような観念論に連繋するのを、ここでは拒否する。

 なお、さらに集約可能な最大集合、またはさらに分割可能な最小集合を想定するのは、無意味である。それは生命起源を別宇宙に求めるのと大差の無い循環論であり、そもそもそのような想定自体が論理矛盾である。また現実面でも問題がある。最小集合の無限分割が可能なら、ゼノンのパラドックスのように、アキレウスは亀を追い越せない。実際にはアキレウスは亀を追い越す。つまり論理抜きに、現実が最小集合の無限分割可能性を否定している。一方、最大集合に無限な拡張性を与えようとする場合、パラレル宇宙論に落ち着く。この宇宙論では、並行して存在する宇宙相互の排他性が必要となる。相互に排他的ではないパラレル宇宙は、パラレル宇宙と呼ばれるのに値しないためである。ところがこの相互排他性は、パラレル世界の想定自体を無意味にする。相互に干渉不可能な二者にとって、相手の存在は無だからである。仮に干渉不可能なパラレル世界が実在したとしても、現実論として、単一宇宙論を変える必要はどこにも無い。
(2011/05/03)


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