唯物論者

唯物論の再構築

2012-09-01 12:05:17 | 映画・漫画

 「道」1954年 製作イタリア
           監督 フェデリコ・フェリーニ
           主演 ジュリエッタ・マシーナ

 この映画は、粗暴なサーカス芸人と哀れな娘の報われない魂の物語である。力自慢の芸人ザンパノは、知恵遅れの娘ジェルソミーナを金づく力づくで自分の女にする。ザンパノは、ジェルソミーナを女奴隷のように扱うが、それでも彼女はザンパノを愛する。ザンパノにしても、彼女と一緒にいるのが当たり前になり、二人はまるで夫婦のような関係になる。しかし二人に幸せは、結局訪れない。ザンパノが繰り返す犯罪行為を目の当たりにして、ジェルソミーナの心は次第に病んでゆく。ついにザンパノは、罪悪感で気が変になったジェルソミーナを捨ててしまう。その数年後、街を歩いていたザンパノは、彼女が好んでラッパで吹いていた曲を聴く。その曲を介してザンパノは、彼に捨てられたジェルソミーナが、4、5年ほど前に一人寂しく病死していたことを知る。映画は、ザンパノがジェルソミーナと出会った砂浜で嗚咽に暮れるシーンで終わる。

 この映画に対して健全な精神は、ザンパノの身勝手を責めるであろうし、哀れな娘の主体性の欠如に不満を感じるかもしれない。しかし映画の目的は、人生相談ではなく、美の表出であり、さらに言えば魂の救済である。この映画がジェルソミーナの体現した無償の愛に美を見出しているのは、間違い無い。ただしジェルソミーナの愛を美に昇華しているのは、ザンパノの悔悟の涙である。映画の中でジェルソミーナは、ザンパノの中に自らの生の意味を見出す。しかし彼女は、結局ザンパノに捨てられる。その行為はジェルソミーナの生を無意味にする展開である。それに対してザンパノの涙は、ジェルソミーナの生の無意味化を阻止する。言わばそれは、ザンパノによるジェルソミーナの魂の救済となっている。ところがジェルソミーナは既に死んでおり、彼女は自らの魂の救済を知り得ない。可哀想なことに、ジェルソミーナにはザンパノの懺悔の声も届かないわけである。ところがザンパノの懺悔は、ジェルソミーナに届かずとも、観客には届いている。実際には、この映画が救済を目指している真の対象は、ジェルソミーナの魂ではなく、観客の魂である。この映画の芸術的完成度の高さは、そのことを観客に感じさせないところにある。穢れを知らない健全な精神は、ジェルソミーナを放逐したザンパノを責め立てるかもしれない。ザンパノの惨めな姿は、ザンパノの仕打ちに憤慨した正義感に満ちた観客の溜飲を下げるものである。ところがジェルソミーナが死んでいる以上、この映画の中で魂の救済が必要なのは、むしろザンパノの方である。

 この映画の世界では、ザンパノ唯一人が、ジェルソミーナの身の上に起きた出来事を知る証人である。誰も見ていなくても、神様だけは知っていると言い回しがある。しかしここでは、恐ろしいことに、神様でさえ知らないのに、ザンパノは知っている。ザンパノは、ラッパの音を聴くたびに、ジェルソミーナの吹き鳴らすラッパの音色を思い出し、自ら振り捨てた愛を知る。ラッパの音はどこまでも彼を追いかけ、目を閉じても耳を塞いでもザンパノの耳から離れない。実はそのラッパの音を聞いているのは、ザンパノではなく、観客である。つまり実際には、ジェルソミーナの身の上に起きた出来事を知っているのは、ザンパノ唯一人ではない。「禁じられた遊び」という戦災孤児の少女を描いた映画がある。この映画では、ラストシーンで迷子になった少女が、既にこの世にいない母親を求めて、違う女性の声を追いかけて人ごみに消えてゆく。ザンパノに聴こえるラッパの構図は、「禁じられた遊び」で、人波に見え隠れしながらもまだ聴こえる少女が母を呼ぶ声とかぶさる。ここでも実際に少女の声を聞いているのは、少女の周囲にいる登場人物ではなく、観客である。またこの構図は、映画「ソフィーの選択」で、泣き叫ぶ我が子の声の記憶に苦しむ母親ソフィーの姿にもかぶさる。ここでも実際に母親に捨てられて泣き叫ぶ子供の声を聞いているのは、ソフィーではなく観客である。これらの出来事は全て映像の中の虚像なのだが、ジェルソミーナのラッパの音色も、母親を探す少女の声も、助けを求めて泣き叫ぶ子供の声も、いずれも映画を見終わった後の観客の心に突き刺さる形で、繰り返し聴こえてくる。この種の自らの穢れを自覚する観客は、被害者の不幸ではなく、加害者の苦悩を自らの中で再生する。ノスタルジーとは、過去の傷の痛みのことである。これらの映画は、経験してもいない過去の傷を観客にもたらしている。そしてその苦悩こそが、自らの対極に立つ善を、美として現象させている。

 この映画でフェリーニは、観客に理解しやすいように、美化する対象を組み立てる。おかげで映像には映らなくとも、観客には苦悩するザンパノの傍らに彼を見守るジェルソミーナを見ることができる。この映画との比較で言えば、「禁じられた遊び」では、神は人間の苦悩を突き放した傍観者として現われている。現実の苦悩が深すぎて、神を寄せ付けなかったのである。そのために、仮に「禁じられた遊び」に足長おじさんや熱血教師が登場しても、それは美の立像にはならず、おそらく偽善の香りを漂わせる可能性が高い。スピルバーグは「シンドラーのリスト」で、この種の偽善の香りを消すために、とことん人間の地獄を描いている。「ソフィーの選択」に至っては、神はソフィーの苦悩を見守るだけであり、ソフィーの傍を離れずに共に死ぬことしかできなかった。世界はますます「道」が体現したようなゲーテ流の予定調和に、虚偽を感じるように変わっているかに見える。少なくとも魂の救済を宗教的に実現するのは、既にオカルトの領分である。現実の苦悩が天国で救済されたところで、現実世界の問題は何も変わらないからである。逆にそのような救済は、現実の苦悩を誤魔化し、宗教そのものを偽善に変える。「道」にしても、宗教的な奇蹟の実現を拒否している。
 芸術の可能な行動範囲は、美の実現に留まる。しかしそれにも関わらず芸術家は、現実との関わり方を試されている。一見すると芸術が実現する美は、現実の穢れに対する善の美として現われる。あたかもそれは、現実から独立した善が存在するかのような錯覚を生む。この錯覚に従えば、芸術は現実から乖離することが可能である。つまり戦前日本の愛国芸術や旧共産圏の労働者芸術のように、特定集団に帰属する利益実現のために美を捏造するのが、可能のように見える。ところが実際に善の美を基礎づけているのは、現実の虚偽に対する真理の美である。したがって捏造された美は、その基礎づく事実が含む虚偽により、時間経過を待たずに美の反対物へと転化する。名作映画に限らず、歴史に残る芸術作品は、そのような帰属と変遷に耐えた真理を内包している。芸術家は、自ら芸術家であろうとする限り、現実との関わり方を常に自らに対して問わざるを得ない。とはいえ美は、善ではないし、真理とも異なる。つまり美の評価基準は、倫理や科学の評価基準に適合しない。善の居場所が未来にあり、真理の居場所が過去にあるとすれば、美の居場所は現在にある。芸術の苦難は、足元の不確かな場所に、巨大楼閣を築くことにある。その足元の不確かさは、往々にして芸術家をありふれた正義に安住させる。しかしそのような美は既に古めかしく、過去の名作がその領地を食い荒らしている。「道」は既に古典であり、この映画が食い荒らした場所に、次の芸術が花咲くことは無い。したがって「道」の前に「道」は無く、「道」の後に「道」は無い。
(2012/09/01)


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