江戸時代というのは、けっこうな「旅行ブーム」の時代。
庶民の物見遊山の旅行というのは、届け出段階で禁制されていたけれど、
それが神社仏閣詣でなどの宗教がらみになれば緩やかに許可されていた。
「旅行用心集」というようなベストセラー「旅行ガイド」も江戸版元から出版され、
「お陰詣り」に庶民は繰りだしていたとされる。
現代にいたる神社仏閣への参詣心というのは、こうした旅行実利と一体となって
日本人の生活習慣、心理に深く浸透していったものと思えます。
本音とタテマエという2重基準の使い分け要領が良かったと思える(笑)。
で、きのう触れた「富山の千石地主」内山家の1701年から1780年を生きた当主、
逸峰さんの旅行記録があった。その様子に注目し暮らしと趣味生活の取材です。
この人の生きた当時の内山家の経済状況はけっこうな浮沈ぶり。
家の基本版図「1000石」の収入があったところ、おじいさんの代に
近隣の河川氾濫があって新田開発の必要が生じ、積極的に経営拡大し、
一時期1700石まで版図を広げていたとされる。多少のムリもあっただろう。
そしてそのおかげでか、藩主はこの内山家に頻繁に出入りして、ついには
父親の代に藩から金づる利用されたのか、資金的に借金が嵩んだようで
1729年頃には一転して300石程度まで版図が縮小する。
借金返済苦境のために農地を切り売りしていったのだ。
そのような家の経済状況の中、36才のときに逸峰さんは当主を世襲した。
そこから地道な復興努力を傾け1745年・43才当時に600石まで回復させた。
ちなみに1石というのは人1人の1年間食べるお米の量に相当する価値。
全国の石高は幕末で3000万石と言われ事実人口も3000万人だった。
当時の内山家の奉公人は44人で馬を15頭飼育していたとのこと。
このころの家屋敷の面積状況が書き付けられている。
●母屋 3.5間×9間=31.5坪●作事場 5間×15間=75坪●馬屋 4間×6間=24坪。
●中屋 2.5間×9間=22.5坪●物置勝手 3.5間×9間=31.5坪。
工場一体型家屋と考えると、総面積184.5坪建築物の所有「企業」。
現代の日本人の1人あたりGDPはざっくり500万円とされるので、
44人雇用+扶養家族もカウントすれば、およそ100人分のGDP相当と推計。
そうすると5億円程度の「総GDP」規模の企業ということになる。
製造業平均で仕入費用が50%と勘定すると、総売上10億円企業程度かなぁ。
<GDPは付加価値の総量なので、仕入を除外した金額と考える。>
っていうことは売上げ5億くらいまで落ちていた業績を倍増させたのと同義か。
ちょっと荒唐無稽かも知れない積算ですが、大ぐくりの把握数字として。
で、本題のかれの人生の「旅行遍歴」であります。
●若い20才で「伊勢参り」に行っている。若いボンボン「旅をさせろ」か。
それから家業に精励して家勢を衰退期から倍増と復元させたところで
還暦になってから余生と考えたか、頻繁に旅行に出かけ始める。
●60才 京都 ●63才 京都・大阪・明石・伊勢
●同年 弥彦・新発田・米沢・山寺・松島・鹿島(神宮)・日光・江戸・善光寺
〜〜●74才 大津
と、写真2枚目詳細のようにほぼ毎年10回の旅行に出掛けているのです。
家系伝承では京都の出自とされているので、まずは遍歴はそこから開始したか。
当時の旅行はひたすら徒歩旅行でしょうから、なかなかの健康ぶりであり、
また、その費用負担も可能なほどの財政状況だったようですね(笑)。
ちょっと懐勘定も交えた歴史的推理での「取材」ですが、
この人の人生の状況が総合的に垣間見えて、人間的親近感を抱きます。
江戸期がずいぶんと身近に感じられてオモシロい。