きのうの「旧・永山武四郎邸」の探訪シリーズその2。
明治10年代初めということでおおむね140年前という住宅建築であり、
当時盛んに作られた「洋造」を基本としている。
しかし生活スタイルとしては武家出身者でもあり伝統的な貴賓空間、
床の間付きの「座敷」が最優先された「格式」的建築スタイルを踏襲している。
その前室として洋室の「応接室」がある「和洋混淆」スタイル。
床の間や書院といった格式重視の空間がしつらえられて、
壁にはきちんとした土壁も塗り上げられて、天井高も高い。
そして当然のように、南面する庭の眺望を楽しむ「縁側」が造作されている。
しかし写真でわかるように、本州以南地域のように板戸の雨戸で
夜間や雨天時だけ遮蔽して通常的には開放されている「縁側」ではない。
庭との境界部分にガラス建具が2重に装置された特異な「縁側空間」。
日本建築のこういう空間では、縁側をガラスで閉じるという発想はあり得ない。
しかし日本から開拓のためにこの北海道に移住してきた人間にとって
その寒冷気候は想像を絶したものであったことは言うまでもない。
縁側で、陽だまりに佇んでそのぬくもりを愛でられる季節時間は
北海道では夏場の数カ月間に過ぎず冬の吹雪の室内浸入の怖れもある。
温熱的な「陽だまり」をそこに期待することは諦めざるを得なかった。
そうすると住宅建築としてはどう対応すべきか、いろいろな可能性がある。
そのなかで明治の文明開化とともに欧米から住宅用の「ガラス」が輸入され
開拓使のごく初期のモデル的な建築「ガラス邸」で新規建材として推奨された。
輸入建材で高価であるにもかかわらず、北海道ではガラスが積極的に使われた。
内陸部の開拓民ですら、こぞってガラスを購入して建材利用した。
規格寸法で作られたガラス単体が大量消費されたという。
むしろその規格寸法に合わせ「建具」造作された。日本初の「寸法規格化」でもある。
そこまで北海道の人々がガラスを受容したのは、その気密性要素から。
この当時どんな他の建材よりも、ガラスは密閉性が優れていた。
輸入ガラスの市場占有率で北海道はダントツだったのだと言われる。
そのガラス建具が、この縁側空間を2重に覆った。
ガラス建具で縁側の1要素である庭の視界確保だけがなされ2重化が進んだ。
本州地区でつい最近まで、いや今でもガラスは単板が優勢と考えると、
まるで奇跡のように「開口部ガラス」の2重化が140年前から実現していた。
いま、この2重のガラス建具空間をチェックすると、
室内側は引き違いで半分開放仕様であり、屋外側はいわばガラス建具「雨戸」。
雨戸の収納・戸袋は数枚分しかなくて、たぶん1枚だけを「寄せて」
そのほかのガラス建具戸は、外部側から外すことを意図したと想像される。
(永山邸説明員の方からも取り外し方法は未解明の様子)
たぶん、使い続けるウチに季節に応じての「取り外し」は面倒になって、
ほぼ常時2重ガラス建具で閉じられた空間になっていたのではないか。
6月になっても朝晩の冷気はきつく、9月にもなれば肌寒くなる気候条件では
本来的な「縁側」として楽しみ、機能できる期間はごく限られ、
やがて常時閉鎖する2重ガラス建具空間に変容したことが容易に想像される。
縁側という「中間領域」空間ではなく、2重ガラス建具の「窓・開口部」と呼ぶ方が
この空間の機能性をより明確に表現しているのではないか。
そうした日本住文化からの離脱が、明瞭に表現されていると思える。
こんな経緯が北海道住宅の「流れ」だったことが伝わってくる。
しかし、北海道では現代にいたってウッドデッキ文化が盛んになっている。
寒冷地住宅建築本体としてはこうして「閉じ」ざるを得なかったけれど、
そこに暮らしてきた北海道民は、気質としてはきわめて「開放的」。
隣居からの目線を気にするよりも、短い開放的な季節を思い切り楽しむのに、
ウッドデッキなどの生活文化もまた盛んになったと想像される。
日本的な縁側空間は、まったくカタチを変えて受け継がれているのだと思う。