社会問題研究所

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何者が毒ガスを提供したのか

2011年02月10日 | 国際・政治

題名:「何者が毒ガスを提供したのか」
定価:1800円
オウム真理教事件の真相を暴く
小平市立図書館在庫
国立国会図書館在庫 全国書誌番号 20999335

序章 日本人に対する毒ガス攻撃

日本人に対して毒ガス攻撃が行われたのは、オウム真理教が関係したように取り沙汰されている最近の事件に止まらない。
著者は二十年ほど前に沖縄を訪問し、観光バスで沖縄本島を一周したことがある。洞窟のあるところに建つ「ひめゆりの塔」の前で、沖縄バスのガイドが説明してくれた。それによるとこの地下壕には野戦病院があり多数の傷病兵が収容されていた。米軍がこの地下壕入り口から毒ガス弾を投げ込むと、壕いっぱいに白い煙が立ち込め兵士とともに看護のため動員されていた女子生徒もたちまち息絶えたという。
このような即効性のある神経ガスはドイツで開発されサリンと名付けられていたが実戦では使われなかったのである。ドイツ敗戦後、アメリカはこれを押収し沖縄でその効力を人体実験したのであろう。
沖縄戦では、多くの負傷兵を看護するための病院に、沖縄師範学校女子部ならびに沖縄県立第一高等女学校の生徒が動員された。このうち職員十六名、生徒二百十一名が戦没死した。「ひめゆりの塔」が建てられたのは、この地で毒ガス攻撃を受けて多くの女子学生が死んだのを忘れないためであった。沖縄師範学校教諭としてこのひめゆり学徒を引率し、九死に一生をえた仲宗根政善琉球大学名誉教授は「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」なる著書をまとめた。これは沖縄戦最後の事件を正しく後生に伝えるために、生き残った動員生徒の手記や遺書を纏めたものである。その中から米軍による毒ガス攻撃の様子を引用しよう。

守下ルリ子の手記
 この手記には、以下の記述がある。
「六月十八日、ついに学徒隊は解散せよという軍命令が下った」「明けて十九日、いよいよ壕脱出を決意してその機をうかがっていると、突然敵兵の声が聞こえてきた」「壕の奥があまりむし暑いので、生徒は入り口近くに集まっていた。危険を感じた私は又吉さんと二人で奥に入ろうとしたとたんに、ドカンというものすごい爆音と同時に、もうもうと真っ白な煙が立ちこめて一寸先も見えない」『ガスだ』という声が聞こえた。続いて『ガスだ!』『水はどこ!水は!』と叫ぶ声。そのうち息がだんだんつまって苦しくてたまらない」「私もなを『水!水!』と叫び続けた。そばで誰かが、『小便をして伏せ』というのですぐ腰から手ぬぐいをとってそのとおりにした」(註1)。
 水がないので小便で手拭をぬらして口に当てたのであろう。サリンは加水分解され無毒になるから、これで守下さんは生き延びたのである。

金城素子の手記
この手記には、以下の記述がある。
 「五月二十日頃、敵がいよいよ間近にせまってきたということで、島尻へ撤退することになった」「第三外科壕に入って四、五日たった頃であったと思う。」「級友が『敵が上にきている』といった。一瞬みんなシーンとなって、奥でじっと身を固くしてかたずをのんでいた。わたしは恐ろしくなって、級友の背中に顔を隠した。間もなく、壕の中に何か投げ込まれ、それが岩にあたってパッと青い火が散った。私の前にいた兵隊の上着一杯、青い火がギラギラ光った。兵隊は硫黄弾だといって『早くその上着を脱がないと、皮膚が腐ってしまうぞ』と叫んだ。またも同じものが投げ込まれ、青い火が飛び散った。
三回目に打ち込まれたのは、白い煙がモウモウと吹き出すものであった。アッというまに、一寸先も見えなくなってしまった。兵隊が『ガスだ!』と叫んだので、みなが騒ぎ出した。兵隊は『水筒の水をハンカチに浸してマスクにしろ』といった。皆は、一つの水筒を奪い合うようにして、三角頭巾や包帯をぬらし、口と鼻をおさえた。次第に息苦しくなってくるので、私が外に飛び出そうとした。その途端、誰かが『つねちゃん!』と私の名を呼んで、片足にしがみついてきた。私は動けなくなり、もたもたしているうちに、手足がしびれてきたのである。
身体の感覚がなく、意識朦朧とした中で、『天皇陛下万歳!』と叫ぶ声や、『海ゆかば』を歌っている声、先生や母を呼ぶ声、そして級友の名を呼び続けている声を聞きながら倒れていった。その日は六月十九日であったように思う。
顔に暖かいものを感じて目が醒めたら壕の中に日がさしていた。深い眠りからさめたような気がした。もう昨日の叫び声が嘘のように、壕全体がシーンと静まりかえっていた。横を向くと、すぐそこに兵隊の死体があったが、私の足もとの方には生きのびた師範女子部生がすわっていた」(註2)

第三外科壕には現在「ひめゆりの塔」が建っているが、傷病兵のほか、軍医、看護婦や動員女子生徒など総勢九十人がいたといわれていたが、生き残ったのは女子生徒四名と負傷兵一人であった。
開発したドイツさえも使わなかったサリンの実戦効果を米軍は沖縄で、化学兵器禁止条約を犯して実証しようとしたのである。これは広島、長崎で原爆の投下による殺傷効果の実験を行なったことに匹敵する非人道的行為であった。しかも沖縄の人々にとって常識であるこの事実は、本土においては、なお隠蔽され続けているのである。
沖縄戦の敗北により、敗戦の様相は深まった。日ソ不可侵条約を踏みにじったソ連の参戦は日本の敗北を決定づけた。原爆の投下は非戦闘員の殺戮を禁じた国際条約に違反するものであったが、戦争終結前に急遽原爆を投下した真の目的は、戦後の原爆世界支配の目的にあった。沖縄戦における毒ガス攻撃はこの原爆投下の陰に隠されてしまった。しかしこれはすでに一九二五年に制定された毒ガス禁止条約に明らかに違反するものであった。
後にも述べるように、沖縄戦に先立つ硫黄島戦においては毒ガス攻撃が準備されていた。二ヵ月にもわたる頑強な抵抗にあって、米軍にも多数の犠牲者が出た。このため実際にも毒ガスが使われた可能性が高い。それは戦後遺骨収集がなされていない。これは沖縄でも同様で個人が細々と洞窟内を掘り起こし遺骨を集めていることが最近報道されたばかりである。
硫黄島では戦後、住民の帰還は許されていない。理由は火山活動の危険があるからだそうである。しかし、米軍の飛行訓練基地が置かれているのである。
ワシントン郊外のアーリントン墓地の入り口には、硫黄島に星条旗を押し立てている米兵の銅像が建っている。その星条旗は常に真新しいものである。米国を公式訪問した総理大臣たちはこの旗を横に見て墓地に入り、米軍の戦死者に花束を捧げるのが慣わしになっているのである。

  文献
  註1 仲宗根政善著『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』 角川書店 昭和五十五年六月十日 303頁
  註2 仲宗根前掲 213頁


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