社会問題研究所

社会の裏側に隠された真実を追求します。

何者が毒ガスを提供したのか

2011年03月15日 | 国際・政治

題名:「何者が毒ガスを提供したのか」

定価:1800円

オウム真理教事件の真相を暴く

小平市立図書館在庫

国立国会図書館在庫 全国書誌番号 20999335

著者経歴

    

伏見和郎(ふしみかずお)

1924年 仙台市に生まれる

1942年 第二高等学校(旧制) 理科甲類を卒業

1945年 東京帝国大学第二工学部電気工学科を卒業   

      逓信省電気試験所 (現在のNTT電気通信研究所) に入所

1962年 東京大学より工学博士の学位授与

1964年 NTT電気通信研究所を退所

      タケダ理研工業株式会社 (現在の株式会社アドバンテスト) 入社

      取締役、開発部長

1967年 東京大学原子核研究所に教授として入所

1984年 東京大学を定年で退官

      東京大学名誉教授

1984年~1994年

      電気化学計器(株)DKK 顧問

1984年~1991年

      日本電子(株)顧問

      

著書に 『電子回路の基礎(オーム社)』及び『文革前後の北京大学(日中出版)』 などがある


オウム真理教事件の真相を探る

2011年03月10日 | 国際・政治

題名:「何者が毒ガスを提供したのか」

定価:1800円

オウム真理教事件の真相を暴く

小平市立図書館在庫

国立国会図書館在庫 全国書誌番号 20999335

目次

まえがき

序章   沖縄戦における毒ガス攻撃

     守下ルリ子の手記

     金城素子の手記

第一章 坂本弁護士一家殺害事件

     時代背景とオウム真理教

     『サンデー毎日』による教団中傷

     坂本堤弁護士と横浜法律事務所

     検察が描く『坂本一家殺害の概要』

     公安警察のスパイ岡崎一明

     青山弁護士は坂本一家殺害をしらなかった

     出鱈目な上申書

     オウム真理教は坂本弁護士を問題にしてはいなかった

     青山吉伸被告の証言

     やったんは極道や

     誰も物音を聞いていない

     殺害に使われた毒ガスはサリンか

     五年十一ヵ月も待たされた

     むすび

第二章 熊本県波野村での騒動

     オウム教団の波野村進出の経過

     信者の生活

     最初に弾圧を煽動した警察

     地元権力者による煽動

     「波野村を守る会」と「オウム真理教被害対策弁護団」

     住民票転入拒否がもたらしたもの

     住民票不受理の矛盾

     人権尊重を求める市民の会

     むすび

第三章 松本サリン事件

     河野氏宅に撒かれた毒ガスは無臭だった

     地獄絵

     サリンが検出された

     サリンとはいかなるものか

     毒ガスは一時間前から発生していた

     異臭がした

     サリンは噴射された

     サリンは複数箇所から撒かれた

     第一通報者河野義行氏が疑われる

     自白の強要

     庭で毒ガスを発生させた


オウム真理教事件

2011年03月07日 | 国際・政治

題名:「何者が毒ガスを提供したのか」

定価:1800円

オウム真理教事件の真相を暴く

小平市立図書館在庫

国立国会図書館在庫 全国書誌番号 20999335

この本の内容が

何者が毒ガスを提供したのか

という題で第一章から第十二章まで紹介されています。


何者が毒ガスを提供したのか

2011年03月06日 | 国際・政治

題名:「何者が毒ガスを提供したのか」
定価:1800円
オウム真理教事件の真相を暴く
小平市立図書館在庫
国立国会図書館在庫 全国書誌番号 20999335

まえがき

 一連のオウム真理教にかかわるとされた事件が大きく取り上げられるに至ったのは、地下鉄サリン事件が発生してからである。このときの市民の第一声は「誰がこんなことをやったのだ」であった。その日を境にして、マスコミはオウムの犯罪なるものを大々的に報道しだした。新聞には第一面で「自衛隊の乗っ取り計画」とか、「サリン二百五十キロの東京上空散布」とかの記事が二年にわたって続いた。
 これを契機として、また五年以上も前の一九五九年暮れに起きた坂本弁護士一家殺害事件も突如浮上した。この事件の直後、元信者岡本一明が坂本夫妻の長男龍彦が埋められた場所の地図と映像を神奈川地検と共産党系の弁護士団体横浜法律事務所に郵送しているのである。しかし、この事実は地下鉄サリン事件発生まで完全に隠蔽され続けていた。
 松本サリン事件は地下鉄サリン事件より八カ月も前に起きた事件であったが、河野義行氏が犯人とされ続け、警察が河野氏に謝罪したのは事件後一年たってからのことであり、地下鉄サリン事件が発生してからも五カ月たってからのことである。しかし一九九五年元旦の『読売新聞』では、上九一色村でサリンの残留物が発見されたと報じられた。この報道は『読売新聞』一社というのも奇妙であったが、地下鉄にサリンが撒かれる一カ月前のことであり、その後に行われたように徹底的に捜査をすれば、地下鉄サリン事件がオウム真理教の犯罪であるか否かは分かったはずである。一方地下鉄サリン事件が発生する直前の一月に、上九一色村のオウム教団施設で子供を含む五十人以上のサリン中毒事件が発生している。これは当時はまったく報道されなかった。
 このように権力機構はマスコミを操作し事実を隠蔽し続けてきた。また事件の取り上げ方もまず地下鉄サリン事件から始まり、坂本弁護士一家殺人事件となり、松本サリン事件は一番最後になった。しかし、オウム教団弾圧の計画はすでに坂本弁護士一家殺害事件以前から企てられていたものである。
 この本ではオウム教団弾圧の過程での逆行した事件の取り上げ方とは反対に、時間を歴史的に追いながら新聞その他の報道から、その裏に潜む真実を掘り起こしオウム教団弾圧の経過とその目的を明らかにすることに努めた。
 アメリカは国土が広く移民の国であることから、多くの新興宗教が生まれてきた。古くは「モルモン教」や「ものみの塔」などすでに大きくなったものがある。一方、多くの弾圧された新興宗教もある。
 ジム・ジョーンズが主催する人民寺院はアメリカ国内を追い回されて、ついに南米のガイアナで一九七八年十一月、子供を含む九百人以上が殺された。一九九三年四月にはブランチ・デビデアンが主催する新興宗教はテキサス州ウェイコで宗教施設が軍隊に一カ月も包囲されたあと総攻撃を受け、女子供を含む百人以上が惨殺された。さらに地下鉄にサリンが撒かれる半年前の一九九四年十月五日、ほとんど同時にカナダのモントリオール近郊と、追われた先のスイスのシェリー村で殺人が行われ、子供を含む五十を超える死体が発見され、リュック・ジュレが主催する新興宗教『太陽寺院』が弾圧された。
 これらはキリスト教系の新興宗教であるが、アメリカでは、この他にイスラム系、ヒンズー系、黒人アフリカ系など七十年代以降、十種にも及ぶ教団が弾圧の憂き目に遭っているという。いずれも殺人集団のレッテルを貼られての圧迫であった。
 大軍事力という集団的テロによって圧迫解体された民族は、個人一人一人が身を犠牲にして反撃に立ち上がっている。今は集団的テロはテロといわず、個人的反撃のみをテロとして忌まわしいもののように糾弾されている。この一身を犠牲にした個人の反撃は宗教的信念に裏付けされている。大軍事力を陰で操っている権力集団は常に宗教集団の動向に敏感であり、教義の内容が権力集団の支配目的に反する動きがあるときには、教団が拡がらないうちにその芽を摘み取ろうと世界的に監視、策謀している。
 岩永天佑『告発の書』(インターネットHP)によれば、オウム教団に対しては、一九八六年四月以降、「神仙の会」時代にすでに権力者集団のスパイ数名が教団に潜入、会員になりすまして麻原教祖の人格、教義を徹底的に分析し、その結果教団が権力者集団に重大な脅威であると結論し、教団の活動妨害が決定されたという。その後どんな経過を辿ったのか、これに始まる一連の事件を辿って事実を明らかにしていこう。

あとがき

地下鉄サリン事件が起きてから八年余が経過した。この本で取り上げた内容を要約してみると次のようになる。
当初の一年はオウム教団を弾圧する目的のマスコミを動員しての大々的な宣伝とならんで、国松長官銃殺未遂事件、村井秀夫氏殺害事件、各所に起きた異臭事件、そして都庁小包爆弾事件と集中的に事件が発生し、教祖を含む教団幹部が次々と逮捕された。続く一年は頻発するO‐157食中毒事件や列車妨害事件で、社会不安の情勢が醸し出された雰囲気の中で元信者という連中の自白に基づいた裁判が行われた。その後判決が下されたが、いずれの事件も「麻原教祖の指示の下に村井秀夫氏が先頭に立って犯行が行われた」という検察側の主張に対して、裁判所はこれを丸飲みにした判決を出したのが特徴である。まさに『死人に口なし』を地で行ったものであった。
その後情勢は徐々に変化した。幹部を一掃した後、圧迫は一般信者にも及んだ。オウム真理教信者の関与するパソコン会社の経営に干渉し、資金源を絶つほかに、信者の居住権をも奪う策動が続いた。これには住民運動なるものが組織されたほか、暴力団の策動もあり、その中には拳銃発砲事件も起きた。
こうした策動にもかかわらず教団は生き延びており、最近はアーレフという名前に代えて信者は再結集しているという。ここにきて謀略集団はオウム真理教事件を過去のものとして忘却の彼方に消し去ろうとしている。ニューヨークで起きた国際貿易センター爆破9・11事件直後、地下に潜行していると称されている元オウム信者平田信と菊池直子に六百万円の懸賞金を掛けたが、一年も過ぎた現在は交番に張ってあった顔写真も捕まったかどうかについて何の断りもなくほとんど撤去されてしまった。
 今年(二〇〇五年)に入ってから、麻原教祖に対する論告求刑もおわった。麻原教祖がサリンの存在すら一貫して否定しているにかかわらず、一連のサリン事件を指示したとする検察側の主張は今までの経過から間違いなく判決に反映されるであろう。すでに一九九六年春の最高裁判決で何の実質裁判も行われないままに「オウム教団はサリン犯罪を行なった」という判決を下しているのだから。
東京地裁の麻原判決が下された後は、時間を稼いで事件を闇から闇に葬る策動を続けるに違いない。国民の関心が薄らぐように努め、忘却の彼方に押しやろうとするであろう。すでに帝銀事件の例もある。帝銀事件は、陸軍登戸研究所が開発した有機シアン化合物シアンヒドリンを戦争直後米軍が押収したことに始まる。シアンヒドリンは青酸カリと異なり、胃に入って胃酸により分解されて効果を発揮する遅効性の毒物である。この毒薬の人体実験をやらされた男は陸軍中野学校出身者で、戦犯訴追と引き替えに実行したといわれている。犯人とされた平沢忠道は全く無実であった。平沢は何度も再審を請求したがその都度却下された。しかし死刑を執行することができず獄死した。養子がその後再審を請求しているが、最早過去のものとしてマスコミにも取り上げられることはなくなった。一九四九年七月、国鉄レッドパージに際して起きた下山国鉄総裁殺害事件も線路に裸で横たわっている写真がなぜかアメリカ公文書館で五十年ぶりに発見されたにもかかわらず、写真週刊誌に載せられただけでマスコミは何の反応も示さなかった。
オウム真理教についても黙殺を狙っていることは事実である。オウム教団抹殺を図った一連の事件について内情を最もよく知っていた警察庁長官である国松孝次氏は口封じのために射殺されようとして九死に一生を得た。その後、外交官の経歴が無いのにスイス大使に任命され隔絶の身になった。今は任を終え帰国しているが、沈黙を強いられている。しかし、オウム教団弾圧には余りにも多くの人が関与している。教団は多くに信者を抱えていたし、今も存続している。弁護士だった青山伸吉氏も、殺人犯でもないのに科せられた十七年という不当に長い刑期を終えた後には出所するであろう。真実を隠蔽することは不可能であろう。
ソ連が崩壊しアメリカが一人勝ちとなった今、世界は大きく変貌しつつある。世界貿易センタービルを倒壊させた9・11事件を契機にアフガンに侵攻し、さらにイラクを侵略した。特にイラク侵略は石油資源の略奪を目的とするものであった。この9・11事件は実は米国政府が事前に知っていた疑いが持たれている。その理由はCNNテレビ局がビルに突入する最初の飛行機を事前に準備し撮影し、しかも放映していたのである。この事件の直前に開かれたサンフランシスコ平和条約締結五十周年記念会議に出席していた田中真紀子外務大臣は帰国早々テレビの取材に対して、今まで経験したこともない「五十人のボディガードがつく異常な警戒態勢」だったと述べた。この後間もなく田中は外相を解任された。これらは裏に闇の権力集団の存在をうかがわせる。この権力者集団こそがオウム教団弾圧を目論んだ者たちである。
なぜオウム教団をこれほど徹底的に弾圧するほど危険視したかについては、充分に解明されてはいない。この教団の教義については全く知らず本書でも触れていないが、教義によるというより社会的影響力から判断されるべきであろう。原始仏教では出家信者と在家信者が分かれていた。出家信者は生産労働に携わらず修行に専心し人間に生きる道を教え托鉢により暮らしていた。生産に携わる在家信者は出家信者から人生の道を教えられ食料を寄進して生活を支えていた。小乗仏教といわれる南方仏教はこの伝統を引き継いでいる。日本の仏教はこれと異なり在家主義で、最近は葬式仏教と化してしまった。街には浮浪者が溢れる時代にもかかわらず万人に救いを差し伸べるという宗教者の理念が失われてしまっている。
オウム教団は釈迦の昔に帰って出家信者を中心に活動しているが、修行としてパソコンショップやラーメン屋を経営し生産活動に従事していて、その収益金で在家信者である浮浪者を含む貧しい人々を救済しているようである。阪神大震災の時も真っ先に救援活動を行なったのもオウム教団であった。若い青年が多く惹かれたのも故無きことではなかった。こうした宗教の急速な拡大に、世界支配の権力が恐れを抱いたと推察される。
オウム教団弾圧劇は世界を支配する黒い謀略集団が日本の国家機構、すなわち政府、国会、警察、公安調査庁そして裁判所をも動員し、マスコミも言論統制下に置いていることを明らかにしている。この本は一連のオウム真理教事件を追うことによって日本が亡国の淵(ふち)にあることを示している。我々はこの現実を見据えて我が国の将来を切り開いていかなければならない。


何者が毒ガスを提供したのか

2011年03月05日 | 国際・政治

題名:「何者が毒ガスを提供したのか」
定価:1800円
オウム真理教事件の真相を暴く
小平市立図書館在庫
国立国会図書館在庫 全国書誌番号 20999335

第十二章 化学兵器禁止条約

 毒ガス戦の始まりから、各種化学兵器の出現とそれに続く国際的な禁止条約の駆け引きを振り返る。条約に対する各国特に大国の利害の対立から、自己規制相互規制に一定の進展はあったが抜け道も含むものとなっている。実際、大国の毒ガス保持は今も続いており、秘密のヴェールに隠された使用が続いている。
 オウム真理教事件真相究明の鍵の一つは、この化学兵器禁止条約である。その根拠は国際条約であるから、アメリカは勿論、これと安保条約を結んで軍事的に従属状態にある日本もその制約を受けるからである。日本は毒ガスを作らないし持たないと宣言している。政府機関は勿論のこと民間の会社も宗教団体も、いかなる形にせよこれに違反して製造することはできない。違反を監視する義務も負わされている。また毒ガスなどの化学兵器は原料としては平和目的の化学製品の原料にもなりうるので、その流通には監視が義務付けられている。「オウム教団がサリンを作った」というお話は、この二つの事項を日本政府が条約に違反して履行を怠ったことになる。

毒ガスなど化学兵器の出現
 原始の昔から山野に自生する動植物の毒を、殺し合いの場に使用することは行われてきた。しかし近代化学工業を基盤として大規模な毒ガス戦が行われたのは一九一四年に始まった第一次世界大戦である。ドイツが塩素ガスを使用したのが初めとされている。しかし、これはいつもながらドイツが敗戦国としてその罪を一身に着せられたためなのであった。実は最初に毒ガスを使用したのはフランスであった。
 空中窒素からアンモニアを作る発明でノーベル賞を受けることになったオットウ・ハーンがドイツ化学界の大立て者でもある枢密顧問官フリッツ・ハーバーから、西部戦線の膠着状態を変化させるための塩素を毒ガスとして使う計画に協力してくれないかと依頼された。ハーンは「それはハーグ条約に違反するのではないか」と反論すると、ハーバーは「やり始めたのはフランス軍の方が先なのだ」と答えたという(註1)。   
 ハーグ条約については後に述べるが、一九一四年八月のシャンパーニュの戦いでフランス軍が催涙ガスのブロモ酢酸エステルを詰め込んだ手榴弾を投げ、榴散弾を撃ち込んだとある(註2)。 
 多くの死傷者を出し、戦局に影響を与える毒ガス戦が始まったのは一九一五年二月のドイツ軍による塩素散布にある。塩素は塩化ビニールなどの原料として大量に使用される。しかし当時は食塩を電気分解して苛性ソーダを作る際に多量に出る無用の副産物であった。
 毒ガス戦はエスカレートし、次々と新しいガスが投入されていった。そして一九一五年七月、東部戦線でドイツ軍によって強力な窒息性ガスであるフォスゲンが使用された。このガスはイギリスの化学者デーヴィが一酸化炭素に塩素を混ぜ日光に当てるとできることを発見していた。フランスもフォスゲンの大量製造法を開発し塩素ガスの報復として準備していたのであるが、あまりに猛毒なために躊躇しているうちドイツ軍が先に使い始めたといわれている(註3)。 
一九一七年七月には糜爛(びらん)性毒ガスであるイぺリットがドイツ軍により使用された。これは辛子のような匂いがするのでマスタードガスともいわれる。このガスは成分に塩素と硫黄を含み、また遅効性で、時間が経つと皮膚が爛れ皮膚に接触するだけで被害が出て、ガスマスクの効果が無くなる。アメリカはマスタードガスより強力な糜爛性毒ガスが作られ、ルイサイトと呼ばれた。そして、この爆弾十二個を投下すればベルリンは全滅するとも豪語した。このガスは塩素と砒素を含み既にドイツで合成されていたが、なぜか実用化されなかったことがあとで分かったという(註4)。 このように次々と新しい毒ガスが開発されて、大戦終結までにはアメリカで四千種の物質が集められ研究されたという。
 ドイツは八百八十五万人という空前の犠牲者を出して第一次世界大戦は終わった。毒ガスによる死傷者はドイツ軍が八万人、連合国側が百万人、そのうち装備の悪かったロシア軍が約半分を占めたという。

毒ガスなど化学兵器の開発競争
 第一次世界大戦における毒ガスの大量使用によりもたらされた悲惨な結果を反省して、一九二五年ジュネーブ議定書が誕生し、二八年発効した。一九八九年の時点で百数十カ国が加盟している。しかし、この条約は毒ガスの使用は禁止しているが保有と研究開発は禁止していないのである。アメリカを初めとする戦勝国は競って毒ガス開発に狂奔した。ベルサイユ条約で禁止されたドイツも第二次世界大戦の切迫とともに化学兵器の開発を再開した。
 毒性物質の研究は、また農薬という平和目的の応用も加速させた。一九三八年にはシラミ退治で有名になったDDTが合成され、一九四一年にはBHCが合成された。これらの有機リン系化合物の生理作用は神経細胞間の信号伝達を阻害することにより毒性が現れることも知られるようになった。この結果有名なパラチオンという殺虫剤が生まれた。
 一九三六年ドイツのシュラーダーは有機リン化合物の中から猛毒の神経ガス第一号であるタブンを作りだした。四二年には多量生産が開始された。第二次世界大戦が始まった三九年にはタブンの二倍の毒性があるサリンが開発された。この毒性はフォスゲンの三十二倍で都市に投下すれば数分間で死の町と化することができる。大戦末期にはさらに強力なソマンが開発されている。しかしドイツはこれら毒ガスを使用しなかった。その研究は極秘に付されたが、敗戦後連合国に発見されて、彼らをアッと言わせたのである(註5)。アメリカやソ連など連合国側は資料とともに毒ガス類を鹵獲(ろかく)し本国に送った。ドイツが使用しなかったのは、アメリカが大量の毒ガスを備蓄しているのを知っており、その報復を恐れたためであった。 
 日本は列強に遅れること久しい一九二五年(大正十四年)毒ガスの開発製造が開始された。二七年には広島県の大九野島に製造工場が造られることになった。一九三一年(昭和六年)満州事変が勃発すると、それまであった陸軍科学研究所を拡充する必要に迫られ、陸軍習志野学校が創立された。これは化学戦の教育訓練を目的としたものであったが、名前として地名が付けられたのは目的を秘匿するためであったという(註6)。この習志野学校は日米太平洋戦争の後も存在を知られていなかったが、地下鉄サリン事件の前日に、この学校で訓練を受けた看護婦が聖路加国際病院に派遣されてきたことが明るみに出て注目されるようになった。大九野島で毒ガスが製造されたのは太平洋戦争が始まった前後が最盛期で、一九四三年には化学兵器の製造研究は全く行われなくなった。また第二次大戦においては日本軍は毒ガスを全く使用しなかった。これはアメリカによる報復攻撃を恐れていたためと考えられる。
 第二次世界大戦後も化学兵器の開発はより大規模に進められた。一九五〇年代にはG剤より毒性の強いV剤すなわちVXガスが開発された。毒ガスは一般に活性が高いので、長期保存には向かない。これを避けるために八〇年代にはアメリカは二種類の薬品を発射と同時に混合させて猛毒化するバイナリー技術も開発した。

化学兵器禁止条約の歩み
 毒ガス禁止条約の最初の動きは一八七四年のブラッセル宣言に始まる。これには十五ヵ国が調印したが、イギリスが批准しなかったために成立しなかった。一八九九年オランダのハーグで再び毒ガス禁止の会議が開かれ欧米の主要大国のほか日本も加わって、初めて「使用禁止」条約が締結された。これにはアメリカが実効性が薄いとして調印しなかった。しかし一九〇七年に再びハーグに四十四カ国が集まり、「ハーグ条約」が締結された。
 この条約は毒ガスの定義がはっきりしないことや、使用の禁止だけで開発、製造そして保管に制限条文が無いという抜け道があったため守られることが無いものとなった。しかしオットー・ハーンが「ハーグ条約」を楯にして一時は毒ガス開発に反対したように理念的には大きな進歩の役を果たした。
 第一次世界大戦の毒ガスの大量使用によってもたらされる悲惨な結果を反省して、一九二五年ジュネーブ議定書が誕生した。現在まで百数十カ国が加盟している。しかしこの議定書にも化学兵器の使用だけを禁止しているだけである。開発保有に関する検証規定も存在していないのである。
 第一次大戦のときと異なり第二次大戦で化学兵器の使用が抑制されたのは、戦争に関する国際条約において報復権が認められているからである。この報復権自体は大国による小国の圧殺を認める不当な性質のものであるが、化学兵器戦には一定の歯止めがかかることになった。
 しかしこの協定の精神を踏みにじったのは加盟国のアメリカであった。毒ガスの定義の曖昧さを利用したものであった。一九六五年、AP通信社はアメリカが南ベトナムで毒ガスを使ったと報じたのである。米軍はこれは催涙ガスであると強弁した。さらに「枯葉作戦」と称する除草剤と猛毒のダイオキシンの大量散布が行われた。この結果広大な農地が耕作不能となり、奇形児の出産も相次いだ。一九六六年一月サイゴン西北部で、ゲリラを掃討するために地下トンネルに催涙ガスと称する毒ガスを送り込んだ。このためにガスマスクを付けているにも拘わらずオーストラリア兵が死亡するという事件が発生している(註7)。  
 こうした状況を背景に一九六九年に開かれた国連総会において、ジュネーブ議定書の不備を改め化学兵器を全面的に禁止する国際条約の締結が提案された。これに基づき一九七三年一月十三日に、開発、貯蔵とその査察を含む「化学兵器の開発、生産、貯蔵および使用の禁止ならびに廃棄に関する条約」が我が国を含む各国によって署名された。この条約を一九九五年四月五日に我が国は批准した(註8)。 そして条約の規定に従って一九九八年四月二十九日に発効した。但しこの時点においてはアメリカは議会の反対を理由に批准していない(註9)。
 この全面禁止廃棄条約が締結された背景には、新興開発途上国に化学兵器を持たせないという企みが隠されている。毒ガスの製法は文献に発表されて公知である上に、農薬の専門家および製造の技術と設備があれば作ることが可能で、同じ大量破壊兵器である核兵器に比べて遥かに容易である。それで「貧者の核兵器」とも呼ばれている。このため化学兵器製造用原材料の輸出規制が査察の重要な柱となっている。この実効性を高めるために一九八五年に品目について合意が得られ、主要物質八品目をコア・リストして、付帯の四十一品目とともに警告表ウォーニング・リストとして定められた(註10)。このコア・リストの中には上九一色村で発見されたと報道された三塩化燐も含まれている。
 特に重要なコア・リストの品目は輸出規制措置がなされ我が国においては「輸出貿易管理令」で施行されている。これには国内の流通にも目を光らせなければならない。国内法には「化学物質の審査および製造などの規制に関する法律」がある。この第十四条に「(指定された薬物を)使用しようとするものは、事業所ごとにあらかじめ主管大臣に届けなければならない」とある(註11)。コア・リストにある三塩化燐は製造者がどこに売ったかを届けなければならない。主管大臣は通商産業大臣または厚生大臣である。政府は三塩化燐の流通経路を知っていたはずであるし、オウム真理教は三塩化燐の使用目的を届けていたはずである。届けていなかったとすれば、その違法を追求できるはずであり、それをしなかったとすれば政府の怠慢である。オウム真理教はサリンを作らなかったのである。
 実は一九九五年一月二十日から始まった第百三十二回通常国会は化学兵器禁止条約の批准が予定されていたのであった。しかし朝日、読売、毎日などの新聞は地下鉄にサリンが撒かれたあとの三月二十三日までは一切これを報道しなかった。唯一事前に報道したのは、『日本経済新聞』三月十日の記事であった。五面の下部に小さく「化学兵器禁止法を国会に提出することを閣議決定した」とある(註12)。さらに百五十九ヵ国が署名した「化学兵器禁止条約が年末に発効することを受けた措置である」としている。この条約を批准すれば戦時中海外に送られ、そのまま廃棄された毒ガスの処分を義務付けられ、その費用に相当の金額を要し論議の対象になる。さらにアメリカが批准していないことも問題にされるであろう。地下鉄にサリンを撒いた目的は、アメリカの様子を見て批准をためらっていた日本政府の尻を叩くことを狙ったものであったかもしれない。
 三月二十三日新聞各紙は地下鉄サリン事件のあとを受けて、審議中の化学兵器禁止条約の批准と関連した国内法とは別に特別立法の制定が必要との政府見解を五十嵐広三官房長官が述べたと報じた(註13)。 さらに五十嵐官房長官は、米国のクリストファー国務長官から地下鉄サリン事件に関して支援の申し入れがあったことを明らかにし、「どういう協力が適当か関係各省で検討中だ」などと述べたという。アメリカの犯罪を隠蔽するずうずうしい発言といわなければならない。批准に合わせた国内法に続いて屋上屋を重ねる特別立法とは、何の必要があってのことかと疑問が持たれたが後の国会審議でオウム真理教弾圧の世論形成に十分に利用された。
 我が国がこの条約を批准した一九九五年四月五日は、地下鉄にサリンが撒かれてから僅かに半月足らずのことであったことは注目に値する。内閣法制局による法案の作成には時間がかかるので、地下鉄にサリンが撒かれる大分以前から秘密裏に文案の作成が行われていたのである。なお、ご丁寧にも四月二十一日には「サリンなどによる人身被害の防止に関する法律」なる特別立法が成立公布された(註14)。これは法律の文言では一言も触れていないがオウム真理教を狙った国家権力を総動員した弾圧であった。国会審議においては自民党から共産党まで全会一致で賛成された。カナリヤ籠をぶら下げた警官隊が上九一色村に進軍したのはこれを契機としてであった。

硫黄島戦での毒ガス攻撃
 アメリカは大東亜戦争が始まった後の一九四二年ごろから化学兵器の研究を強化した。このような状況を背景にして、一九四三年にトルーマン大統領は「アメリカは化学兵器を報復以外に使用しない」という声明を行なった(註15)。 これは裏を返せば条件付きで毒ガスを使うと明言したことになる。この情報をキャッチした日本政府は国際赤十字委員会などを通じて、「日本軍は中国で毒ガスを使用せず」と弁明したがアメリカは相手にせず、かえって化学戦の準備を進めた。一方米軍の中には日本軍は中国で使用したので報復の権利を放棄しているとの意見が持ち上がっていた。また対日戦で増大するアメリカ軍の犠牲を少なくするために、化学兵器の使用を是認する世論も高まっていた。
 南太平洋での米軍によるマキン・タラワ攻略戦では、わずか四日間の戦闘で九百九十人の戦死者と二千人余の戦傷者を出した。このとき、現地軍は化学兵器の使用許可を求める電報を打ったという。
 さらに、この後の硫黄島でも多大な死傷者の出ることを予想して、秘密裡に高性能砲弾をカムフラージュしながら毒ガス弾を発射することが計画された。さらに綿密にも、自軍の砲手にも分からないように毒ガスのマークを消し、しかもガスによる汚染が自然に除去、浄化されたときを見計らって上陸することまで検討された。ヨーロッパ戦線ではこのような提案は一切行われていなかった。
 これは提案段階ではルーズベルト大統領によって拒否されたという(註16)。しかし、実際には実行された可能性が高い。その理由はその後に引き続く沖縄戦で毒ガスが使われたからである。また硫黄島戦において米軍は戦死者は六千八百二十一人、負傷者は二万八千六百八十六人に及ぶ大量の犠牲者を出している(註17)。戦死者をできるだけ減らすことが現地米軍の最大の義務であり、出先司令官の責任で毒ガス攻撃が行われた可能性がある。
 戦後硫黄島の住民は島に帰還する事を許されず今日に至っている。これにより戦争がどのように行われたかを確かめる手段が奪われているのである。それどころか戦病死兵士の遺骨はシベリアをはじめほとんどの外地で行われたにもかかわらず、硫黄島においては一万九千八百人の戦死者を出したのに、全く行われてこなかった。硫黄島戦は地下壕で上陸してくる米軍に抵抗したのであるが、この調査が行われれば遺骨の散乱状況からどんな状況で戦死したかは推定できる。毒ガス攻撃の実体を掴むことができたはずなのである。今はただ自然崩壊で証拠が隠滅されるのを待っている状況なのである。アメリカの毒ガス大量備蓄の圧力は日本軍に対しては毒ガスの使用を不可能にする一方、米軍は証拠を残さずに使用するという蛮行を働いたと推定される。
 これに類することはヨーロッパ戦線でも行われていた。一九四三年十二月二日、ドイツ爆撃機がイタリア半島先端にあるバリ島に集結していたアメリカの軍艦、輸送船、タンカーなどを爆撃した。このときイペリットを満載したリバティー型輸送船「ジョン・E・ハーヴェイ号」があったのである。このイペリットはアメリカから運んできたものであり、この被害者は六百十七人、うち死者は八十三人に達したという(註18)。
 戦後も米軍は沖縄知花爆薬貯蔵庫に毒ガスを貯蔵していた。一九六九年七月、この貯蔵庫から神経ガスが漏れ出し、民間人一人を含む二十四人が入院する事故が起きた。これに対する反対運動が高まり、米軍は南太平洋の英領ジョンストン島に移送した(註19)。

オウム真理教にかかわる毒ガス疑惑
 化学兵器禁止の国際条約の観点からも、オウム真理教が毒ガスを製造し散布したという宣伝に対する疑惑が浮かんでくる。
 まず核兵器拡散禁止条約や化学兵器禁止などの国際条約では特に開発途上国に対する関連物資の輸出が厳しく制限されている。特に毒ガスの原料となる物質は製造の段階から厳しく追跡されている。輸出は小さい商社によっても行われるからである。サリンの原料になる三塩化燐はコア・リストにある八種類の化学薬品の一つに挙げられている。上九一色村で見つかったと宣伝されたこの三塩化燐は当然政府が知っていたはずである。
 地下鉄サリン事件が起きた直後の三月二十五日の『東京新聞』の第一面に警視庁の発表として「薬品調達の三社確認」として、弗化ナトリウムや三塩化燐などサリンの原料になる物質を押収したと報じられた。三塩化燐はトン単位で購入されていたという(註20)。この三塩化燐の多さを説明するため二百五十キロのサリンを作り東京の空に撒こうとしたなどという出鱈目な理由付けがなされた。実は教団では農薬の原料として購入したとしている。千人を超す出家信者の自給自足による食料調達が目的だったのであろう。
 こうした事実が地下鉄サリン事件発生まで隠蔽されてきたこと自体重大な問題である。既に知られているように一九九五年元旦の『読売新聞』第一面に、上九一色村でサリンの残存物が発見されたと大々的に報道された。オウム教団側はこれに対抗するために同年一月、記者会見を開いて、「オウム教団がサリン攻撃を受けている」と反論している。またこの年の一月中旬子供二十人を含む多数の信者がサリン中毒にかかり、このうち四十人が重体となる事件が上九一色村で起きている。警察はこれらにまともに対応せず、マスコミに対しても報道管制を行なってきたと思われる。事実、国民は何も知らされていなかったために、地下鉄にサリンが撒かれたとき「一体誰がやったんだ」と一斉に叫んだのである。事件が発生してから初めて分かったようなマスコミ操作は、オウム教団がサリンを作っていたという宣伝をするためのものであり、まさに国家犯罪というべきものである。
 この新聞発表の物質の中にはVXガスを作るのに必要な硫黄化合物は含まれていない。オウム教団がVXガスを作ったという検察の主張も根拠がない。
一方、「第七サティアンに五塩化燐があった」と大々的に報じられた(註21)。これがサリン製造に研究されていたともされている。しかし、五塩化燐は化学兵器禁止条約のリストには載っていない。一般国民は科学的知識が乏しいことを良いことに嘘をついているのである。
 VXガスについては、井上嘉浩の手先で元自衛官と称する山形明により「オウム真理教被害者の会」の会長永岡弘行がかけられ意識不明の重体に陥ったとか、小平市を流れる玉川上水の土手で瓶に詰められたVXガスが発見されたという。しかし、これについては誰がどこで作ったのか判然としていない。サリンは燐と弗素を含む十九の原子からなる複雑な化合物であるが、VXガスは燐、硫黄、窒素を含む四十二の原子を含む遙かに複雑な化合物である。化学兵器禁止条約で禁止されている一塩化硫黄や、二塩化硫黄がオウム施設で発見されたという報告はない。オウム施設で作られたと考えることは困難である。
一九九四年九月二十日、オウムウォッチヤーである江川紹子宅に教団製造のフォスゲンが撒かれたという。これも誰がどこで作ったかいまだに不明である。また、これより先の九四年三月十一日、麻原教祖は仙台支部で「公安によりイペリットなどの毒ガス攻撃をされている」と述べたという(註22)。オウム真理教は教団の建物ばかりではなく自動車の中にまで空気清浄機を取り付けていた。それにしても各種の毒ガスがこの間、現れたことが知られる。
 製薬会社でない宗教団体オウム教団がこれら多数の毒ガスのほか、幻覚剤PCPとLSD、麻酔薬のチオペンタールナトリウムやメスカリン、生物兵器の炭疽菌、果ては都庁小包爆弾の高性能爆薬などを短期間の間に次々と作ることに成功したというが、本当なら手品師というべきである。

 今の国際条約は「報復権」を認めている。一九七三年に署名された包括的化学兵器禁止条約も、アメリカはいまだに批准を拒否しているし、ロシアと中国は加盟していない。この結果、核兵器を含む大量破壊兵器は、報復を恐れる小国は使えないものである。むしろ「大量破壊兵器を所有している」という口実を使った大国による干渉の道具にされている。アメリカのイラク侵略がよい例である。一面、化学兵器は大国にも潜在的な脅威でもある。拡散を防止するための検証も条約には厳しく規定されている。

むすび
 毒ガスの原料が厳しく監視されている現状では毒ガスを製造することは不可能なことなのである。条約では製造を禁止しているので、オウム真理教が毒ガスを作ったとすれば日本政府が条約を守らなかったことになる。それどころか、毒ガスの研究や訓練を行なっている防衛庁の習志野学校が地下鉄にサリンが撒かれる二日前から看護婦の訓練を始めており、日本政府自身が犯罪に加担した疑いが持たれている。
 地下鉄にサリンが撒かれたあと、ジュネーブの化学兵器国際監視委員会から外務省に、「日本で毒ガスが散布されたという報道があるが、真相を報告するように」との要請があった。これに対して外務省は「検察庁と相談して返答をする」と答えていた。しかし、どのような返答がなされたかは全く報道されなかった。またジュネーブからもその後何の音沙汰もない。国際監視委員会もアメリカの犯罪と知っていて追求を怠っているのであろう。
 新しい全面的化学兵器禁止条約にアメリカ、ロシア、中国などの大国が批准しないので、我が国もこれらの国の動向を見ていたものと推察される。地下鉄サリン事件発生後、慌てて立法措置を執るに至った経過を見ると、米軍のサリンによると推定される一連のサリン事件は、アメリカが危険視するオウム真理教の弾圧が表面的には目的とされるものの、実は化学兵器禁止国際条約の早期締結を迫った芝居であったと結論されるのである。

  文献
  註1 宮田親平『毒ガスと科学者』一九九一年十一月十三日 光人社 24頁
  註2 宮田前掲 34頁
  註3 宮田前掲 53頁
  註4 宮田前掲 88頁
  註5 宮田前掲 146頁
  註6 宮田前掲 128頁
  註7 宮田前掲 167頁
  註8 官報号外第六四号 平成七年四月五日 18頁
  註9 日本法規九七 条約 6967頁
  註10 新井勉『化学軍縮と日本の産業』一九八九年一一月 並木書房 83頁
  註11 岩波大六法 平成五年版 1391頁
  註12 官報号外特第二一号 平成七年四月二十一日号 1頁
  註13 宮田前掲 p137頁
  註14 『日本経済新聞』一九九五年三月十日 5面
  註15 『毎日新聞』一九九五年三月二十三日 2面
  註16 宮田前掲 167頁 
  註17 松川雅好 本当の硫黄島玉砕 『正論』 二〇〇三年四月号 扶桑社 307
  註18 宮田前掲 150頁 
  註19 宮田前掲 176頁 
  註20 『東京新聞』一九九五年三月二十五日 1面
  註21 『東京新聞』一九九五年四月二十三日 
  註22 江川紹子『魂の虜囚』 二〇〇〇年八月 中央公論社 481頁