社会問題研究所

社会の裏側に隠された真実を追求します。

何者が毒ガスを提供したのか

2011年02月12日 | 国際・政治

題名:「何者が毒ガスを提供したのか」
定価:1800円
オウム真理教事件の真相を暴く弾圧の謎
小平市立図書館在庫
国立国会図書館在庫 全国書誌番号 20999335

第一章 坂本弁護士一家殺害事件

 オウム真理教が犯人とされる事件は、坂本弁護士一家殺害事件に始まり、松本サリン事件を経て、地下鉄サリン事件で頂点に達した。この一連の事件の原点は、この坂本弁護士一家殺害事件である。事件は既に十年以上を経過しているが、裁判は最終判決には至っていない。
 しかし現実には、これらの事件は、オウム真理教の犯罪として定着しているかにみえる。これには警察や裁判所などの国家権力を利用し、新聞やテレビなどのマスコミを動員した宣伝の結果である。一般国民には信じられないようなことではあるが、事実は驚くべきことに、冤罪なのである。そして、これらの事件の真相が明らかになるつれて、我が国の国際的な従属性が明らかになるであろう。
 この章では、初めにオウム真理教は坂本弁護士を敵視してはいないこと、従って殺害する理由がまったくないことを記録を辿って明らかにする。次に裁判の冒頭陳述に述べられたようなドタバタ殺人は不可能であったこと、従って裁判そのものが疑わしいことを示す。
 続いて最初から遺留品としてオウム真理教のバッジ(プルシャ)が部屋に残されていたことから、計画的な宗教弾圧を意図した権力による犯行であり、本当の犯人は殺人を請け負う専門の殺し屋の仕業と推定している。

時代背景とオウム真理教 
 オウム真理教は一九八四年二月、麻原彰晃氏を教祖とする「オウム神仙の会」として発足した。その後八七年八月、「オウム真理教」と改名し、八九年八月、東京都から宗教法人法の認証を受けている。
 新興仏教教団とみられ、出家信者を中心に活動する形態は、原始仏教に傾倒しているようにみられ、ダライラマのチベット仏教とも同じく出家信者中心主義の点で共鳴しているようである。現代は合理主義の思想が広く行き渡ったために、宗教を信ずる人が少なくなり、人生の拠を失って、悩みが深刻化している。この現代社会の矛盾に悩み、救いを求める人々の心をつかみ、急速に信徒を増やしてきた。
 資本主義市場経済社会は武士階級の支配する封建社会に取って代わって、商人を中心とした市民社会として誕生した。しかし最近の傾向にみられる利益追求の極端な結果は、社会に大きな歪みをもたらしている。生産力の発達は省力化を進め、多くの働く人が失業に追い込まれている。その一部は浮浪者となり、社会の落伍者として誰にも省みられない存在になっている。さらに国際的な国益本位の経済収奪が始まり、米国に従属している我が国もバブル経済の崩壊の過程でヘッジファンドの収奪を経験させられた。
 マルクス主義ではこうした浮浪者はルンペン・プロレタリアートと蔑まれ、票にならない階層として切り捨てられている。宗教では信ずる人々にはすべて救いの手を差し伸べるのである。宗教に救いを求める人でも、浮浪者であった人のように経済的に困窮している人々に対しては、まず衣食住の世話から始めなければならない。出家信者のような先進的な人々が農場を開いて食料の自給を図ったり、パソコンショップやラーメン屋を開いて現金収入を図り信者の生活を守る必要がある。現代はこのような宗教の出現が求められている。
 オウム真理教の実体が必ずしも明らかではない。葬式仏教と批判されるような現代人の精神生活に影響力を失った仏教に代わって、出家信者を持つオウム真理教がこの役割を果たそうとしたのかもしれない。
 共産党中国の圧迫を逃れてインド北部に亡命したダライラマは、出家信者を中心にして亡命政府をつくり、チベット民族解放のために闘っている。麻原氏はこのダライラマとも会って親交を深めていた。仏教を通じての中国からのチベット民族の独立を求めるダライラマと同様に,アメリカにとってオウム真理教はアメリカに従属している日本人の従属を打ち破る独立運動と映っても不思議ではなく、早くから危険な存在として認識されていたことは想像に難くない。
一九四九年七月五日、下山定則国鉄総裁殺害事件が起きた。時あたかも国鉄十二万人もの人員整理が予定されていて、国鉄労組は激しい闘争を開始しようとしていた。しかし、この反対運動は下山国鉄総裁の殺人は国鉄関係者の仕業だとする国家権力と手先のマスコミの宣伝に押されて、不発に終わった。
 最近、下山氏の線路に横たわる全裸の死体写真が、アメリカ公文書館から発見されたとして写真週刊誌『フライデー』に発表された。事件直後は、東大法医学教室による「死後轢断」なる鑑定と、慶大法医学教室による「生体轢断」なる鑑定を巡って激しい論争が繰り広げられた。この写真を見れば「死後轢断」は明らかであり、撮影後アメリカに持ち去られ今日まで隠匿されていたのである。
 この時期には、三鷹事件や松川事件も起きていて、犯人は共産党や労組関係者とされたが、いずれも無罪判決が下った。実際には事件が起きて死者も出ているのに、真犯人は追求されず仕舞いなのである。国際的な権力集団の策動を疑わせる黒い手による犯罪の手口は、反対する相手を陥れるために殺人などの事件を起こし、それを口実に弾圧を加えるというものである。また世論を操作する報道機関の責任も重大である。
 坂本弁護士も、出家信者の親たちが、子供を取り戻してくれといった相談を取り上げた「被害者の会」の活動をしていたことに着目し、坂本を殺せばオウムの仕業だと短絡的に考えるだろうことを狙った世論操作で、オウム真理教を犯人に仕立てたものである。これは一連の謀略集団の常套手段といえるであろう。

『サンデー毎日』による教団中傷
 坂本弁護士一家殺害事件が起きた一九八九年十一月四日の丁度一ヵ月前の十月二日から、『サンデー毎日』の五回にわたる反オウム真理教のキャンペーンが始まった。(註1)これを契機にマスコミが動き出した。これらは間もなく起きた殺人事件を考えると、黒い手の謀略を思わせるあまりにも良いタイミングといわなければならない。
『サンデー毎日』の十月二日発行の第一弾には、「子供の出家と親子の断絶」、続く週の第二弾は「麻原代表のニセ薬販売」、第三弾は「信者の子供の長期欠席」などである。これに対して麻原代表は素早く対応し、十月二日の午後には、毎日新聞社を訪れ抗議の申し入れをしている。しかし出版社側が改める姿勢がみえないので、十月二十五日、オウム真理教から東京地検に名誉棄損で告訴された。
 麻原代表は一九八四年五月、「株式会社オウム」を設立した。これは同年二月に設立した「オウム神仙の会」なる宗教団体に必要な社会活動をする組織で、初めは出版物の刊行やヨガ道場の運営が主な仕事だった。その後、事業内容が拡充されて、健康食品の製造販売、洋服の製造販売、旅行代理業、建築土木業、料理店業、美容サロンと拡大していった。後にはパソコンショップも加わった。信者が増えるにつれて、信者の子供を含めて経済的弱者の生活を守ってゆかなければならず、出家信者の献身的な奉仕活動がなされたものと思われる。
 しかるに『サンデー毎日』は第五弾で、「食肉拒否の尊師がビフテキ弁当を売る欺瞞」なる記事を掲載した。仏教信者が肉や魚を摂らず、菜食主義者であったとしても、一般の人を相手にした食堂で肉や魚を売るなという主張は非常識で、食堂として経営が成り立つはずがない。一方で「布施を強要している」と言いながら、布施に頼らない自立的な経済活動を否定するとは、目的のためなら手段を選ばない宣伝活動というほかはない。
 この『サンデー毎日』の報道に遅れることわずか四日の六日に、フジテレビは朝の「おはよう!ナイスデー」で反オウム真理教キャンペーンに参加して、オウムの異様さを強調する内容を放映した。さらにテレビ朝日も「こんにちは2時」でオウム問題を取り上げた。これは生放送で、自分の長男がオウム真理教に取られたと主張する永岡弘行が麻原教祖と共に現れた長男に反論される場面もあった。ラジオの文化放送も続く九日と十六日に「梶原茂の本気でドンドン」なる番組で、反オウム真理教の放送をした。この番組には弁護士坂本堤も電話で生出演した。
 これは、さらに世間を騒がせたTBSのオウム関係ビデオの放映中止問題と、オウム元信者・早川紀代秀との折衝へと発展して行った。

坂本堤弁護士と横浜法律事務所
 横浜法律事務所は、坂本弁護士の妻都子の実父大山友之氏に、警察が「共産党系であるから近づくな」と言われたとある(註2)。 現に神奈川県警の公安担当による共産党緒方靖夫国際部長宅の盗聴事件にはこの法律事務所がかかわっていた。この事件のため前任者は自殺したといわれる。後任者として、オウム真理教と関係を持つ責任者となったのが古賀光彦刑事部長であった。古賀刑事部長は間もなく、一九九〇年四月、高知県警の本部長に栄転してしまった。現在はさらに警察庁人事課長とエリートコースを歩んでいる。後任の栗本英雄刑事部長は警察庁から転任してきた人で、事件の全貌をつかんでいたのかもしれない。栗本は同月二十六日の記者会見で、坂本事件の原因を彼の弁護活動に絞っていることと、「宗教団体」の捜査を口にしている(註3)。横浜法律事務所との関係については、一転して良好となる。この法律事務所に所属する武井共夫弁護士は、栗本に代わってから神奈川県警は「我々のところにも情報交換に来られる」と述べている(註4)。
 坂本堤は、弁護士になってから初めての就職先にこの法律事務所を選んだ。坂本の関与した弁護活動のなかに、「オウム真理教被害者の会」の活動があった。子供が出家した親たちが、子供をオウムに取られたと騒いでいる背景があり、この連中を代弁するというものである。
 坂本堤が共産党員であることは、前回の参議院選挙の際、西武線玉川上水駅前で演説していた婦人党員から聞かされた。坂本の夫人都子もロシア語を勉強していたというから(註5)、共産主義に傾斜していたかもしれない。マルクスの言葉に「宗教は阿片なり」の言葉があるといわれているが、宗教弾圧にのめり込んで行ったのには、このような思想的な背景があってのことであろう。 
 当初、坂本が学生時代に過激派の活動に加わっており、セクト同士の内ゲバに巻き込まれ殺されたのだという説が流布された。出所は県警の幹部クラスであったとある(註6)。学生時代からの同僚はこれを否定している。事実、共産党系の民青(民主青年同盟)は過激派セクトに批判的であったのであるが、学生運動にかかわった最大の勢力であり、警察はそれを承知の上で、民青を革マルや中核のようなセクトと言い代えてこのような情報を流していたのかもしれない。

検察が描く「坂本一家殺害の概要」
 江川紹子の著書によると、坂本一家殺害の様子は裁判の冒頭陳述の中で述べられている筋書きは次のようなものであった(註7)。要旨以下のごとくである。
 一九八九年十一月至日午前三時、坂本宅の鍵が開いているのを確かめて、岡崎一明がドアを開けた。早川紀代秀が先ず入り込み、続いて村井秀夫、新実智光、中川智正と端本悟の六人が室内に入った。端本が堤に馬乗りになり、上半身を起こそうとする堤の後ろに岡崎が回り込み、パジャマで首を絞めた。早川は足を抑えた。堤は激しく抵抗し、思いきり蹴られた早川は、後ろに吹っ飛び、激しい勢いで鏡台にぶつかった。その反動で、後ろの襖が外れた。 
 新実は都子に馬乗りになった。端本、早川、続いて村井が加勢した。都子は村井の指に噛みついた。龍彦の鼻と口を中川がタオルケットで抑えた。中川は塩化カリウムを腕だか尻だかも分からず注射した。中川に代わった新実が龍彦の鼻と口を手で押え続けて死亡させた。
 このようにドタバタ騒ぎが起きたことになっている。しかし、これらは後で見るように事実とは符合しないものである。

公安警察のスパイ岡崎一明
 戦前の公安警察は共産党破壊のために多くのスパイを使ったのはよく知られていることである。共産党は対抗策として、入党に際して複数の党員の推薦を必要とするほかに、党員の査問を行い、しばしば除名を行なってきた。
 しかし宗教団体では、親鸞の「善人成仏す、まして悪人をや」のように、信仰を求める人を広く受け入れるばかりでなく、例え悪事を犯しても悔い改めれば再び受け入れる寛容さを備えているものである。教団に公安警察のスパイが潜り込むことは容易であるばかりでなく、岡崎のように古参の信者でもスパイにされる者が多くいたものと推察される。
 岡崎は九〇年二月、教団の金二億二千万円を持ち逃げした。教団はこの盗難事件を警察に通報している。ただし、この金を教団は独自に取り返した。この盗難事件は、岡崎は公安警察のスパイになったことを明らかに示すものであった。
 岡崎は龍彦の遺体を埋めた場所を示す地図入りの手紙を、磯子警察署と横浜法律事務所に送り付けた。消印の日付は九〇年二月十六日であった。警察も横浜法律事務所も坂本一家がこの時点で殺害されていたことを知っていながら五年も隠し続けたのである。
 即ち警察は二月二十一日、長野県警の協力を得て四十五人体制で半日かけて現場を調べたが、何の手がかりも得られなかったという。これについて麻原弁護団長の渡辺斉氏は「岡崎の地図はきわめて正確に書かれていて、龍彦の遺体を発見できなかったのは作意的なものを感ずる」と述べている(註8)。報道陣が同行したかは明らかにされていないが、地元の人はこの捜査を見ていたにもかかわらず、この捜査が行われたこと自体五年ものあいだ報道管制が敷かれたのである。
 横浜法律事務所も岡崎の手紙をもらっていながら、この法律事務所に勤めていた坂本の母親さちよに、坂本一家が死亡している可能性が高いことを伝えていなかったのではないかとの疑問が残る。さちよさんは全国各地を回り、五年にわたり街頭に立って龍彦を捜して下さいと署名活動を熱心に行なっていたのである。警察主導で、「殺人事件」であることが伏せられてしまい「拉致事件」にすり代えられてしまったのである。九五年春、龍彦が学齢に達したのに合わせて、神奈川県警の警察官は「ランドセルを買って待っていてくれ」などと述べていた。
 神奈川県警は、この岡崎の動静を早くからつかんでおきながら、持ち逃げ事件と投書の一件から七カ月も過ぎた九月まで接触していなかったといっている。九月、神奈川県警は、山口県で学習塾を経営していた岡崎を数日間も取り調べて、手紙を書いた事実を認めたという(註9)。また、この際に、ポリグラフにかけられたが、「暴力団という言葉に激しく反応した」とあり、また追求の矛先は暴力団に向けられ、かなり突っ込んだ訊問が出たり、問題が核心部分に触れると、岡崎は次第に目を逸らすようになった、とある(註10)。
 どうして警察は岡崎に狙いをつけたのか、また山口県に潜伏していることを知っていたのか不思議である。龍彦を埋めた場所を知っていたのなら、犯行にかかわった犯人の一味に違いないのである。龍彦を埋めた場所の現場検証には岡崎を同行させるべきだったのである。
江川の著書には次の記述がある(註11)。
「後日、横浜法律事務所の弁護士岡田尚は、県警関係者からこんな話を聞いた。例の手紙ですがね、差出人が分かりましたよ。悪質ないたずらだと、厳しく説教しておきましたからと」警察は坂本一家殺害の犯人の一人から犯行の事実をつかんでおきながら、時期がくるまでひたすら隠蔽していたことになる。
 警察はその後も岡崎と接触を続けていた。大山氏の著書によると、九〇年九月以降、次のような事実があることがその後の法廷で語られている。法廷における弁護人とのやり取りでは、弁護人からの山口県小野田警察署の取り調べの質問に対して答えている。その中で、投書について、警察から「お前が(手紙を)出したのはわかっている」との尋問に、それを認めたとある。その後の警察の取り調べに対して、「三日ぐらいかかって終わって、あとの九、十日は、オウムの内情、組織関係、サティアンビルの構造などを話して、これからも協力すると、協力者のふりをした」と述べている。岡崎は警察の完全なスパイだったのである(註12)。
 地下鉄サリン事件が起きた後も、警察と岡崎の奇妙な関係は続く。地下鉄サリン事件が発生した直後の三月二十四日に、岡崎は中国に渡って見合いをし、五月の挙式の約束をして帰国している。しかも四月二十八日、岡崎は挙式のために再度福建省に渡航している。警察に連絡を取ったら、「気を付けて行って来いよ」と言われたという。

青山弁護士は坂本一家殺害を知らなかった
 坂本弁護士一家の所在が分からなくなったとき、麻原代表をはじめオウム教団は関連を一切否定している。江川紹子はその著書(註13)のなかで次のように述べている。
 青山弁護士が坂本と会ったのは、十月三十一日夜であった。坂本が問題にしていたのは、入信した子供を取り戻したいという親の訴えによるものであった。議論は子供にも信教の自由があると主張するオウム側と、親の言い分を主張する坂本側とで平行線を辿るものであった。坂本は法的処置を執ると主張し対立は続いたが、話し合いの余地を残してこの日は別れた。
 十一月七日の昼前、青山弁護士から横浜法律事務所に坂本宛の電話が入った。女性事務員が応対した。青山が「坂本先生おられますか」と尋ねると、事務員は「坂本は休んでいて、連絡が取れませんが」と答えた。青山が「明日にでも伺ってお話がしたいのですが、何時頃なら空いていますか」と尋ねると、事務員が坂本の予定表を見て、「六時過ぎなら大丈夫だと思いますが」と答えたとある。
翌八日に、再び青山弁護士が横浜法律事務所に訪ねてきた。弁護士たちは青山訪問の直前に、どう対応するか警察の捜査幹部と相談したとある。オウム真理教のバッジが落ちていたことを知らされていたので、青山の来るのを手ぐすね引いて待っていたのである。弁護士たちが来訪の趣旨を尋ねると、青山は「オウム真理教被害者の会が教団に送ってきた文章に対する回答書と信者が書いた陳情書を持ってきたので坂本に渡したい」と答えた。在席の弁護士小野毅が「率直な話、今日こんなに多人数で会っているのは大問題があるわけで、それは坂本弁護士の行方が分からず、一切連絡がないからですよ」。これに対して「えっ、坂本弁護士がですか」と青山は心底驚いた風で聞き返したとある。同僚弁護士の小島らが「とにかく、今日中にでも返してもらいたいんですよ。青山さんは坂本の行方について、本当に聞いたことはないんですか」という問いに、青山は「それはもう、まったく」と呆然としていたとある。
 さらに弁護士たちから「あなたの方から確認の電話を教団の方に入れてくれませんか」と言ったのに答えて、オウム真理教東京本部の上祐史浩に電話をかけた。上祐からの「全然分からない」という返事を受けて、その旨を伝えたという。事実、当時上祐と同じ部屋にいた信者も、青山から坂本の行方不明を聞かされたとき非常に驚いていたという。
 オウム真理教の最高幹部二人は、このように坂本殺害の事実を全く知らなかったのである。オウムのバッジを現場に残すなど、初めから謀略であったことを示している。青山弁護士は当時在家信者であったが、坂本事件を契機にして出家信者になっている。そして九〇年十月に出版した彼の著書(註14)で、オウム真理教は、人々の悩みの根元を明らかにして救いを求めることに力を尽くしている。仏教徒として人殺しをすることはあり得ないとして、さらに警察は坂本一家殺人事件でオウム真理教を一度も調査していないと指摘している。

出鱈目な上申書
 坂本事件のほころびの最たるものは逮捕された教団幹部の供述なるものの内容が大きく食い違っていたことである。一橋文哉氏の著書にはさらに多くの例が述べられている。(註15)
 例えば、岡崎が当初、神奈川県警に提出した上申書では、坂本を襲撃したメンバーとして、青山の名前が挙げられており、次のように述べられている。「午後十一時半ごろ、青山が坂本宅の呼び鈴を押し、応対に出た夫人に『弁護士の青山です。この前の件でご相談したいのですが」と言ってドアを開けさせようとした、とある。既に示したように青山は坂本一家殺人は全く知らなかったのである。さらにドアが開いていなかったことを示し、裁判の冒頭陳述の経過とも異なる。
 犯行時間についてもこの「三日午後十一時半」のほかに、「四日午前三時」や「四日明け方」と人により供述書の内容が違っていたという。
 殺害方法についても「夫人に麻酔薬を注射した後、坂本、長男の順で注射し眠らせた」、「長男に麻酔薬を嗅がせ、夫人、坂本の順に注射した」、「薬品は麻酔ではなく、毒物注射で殺害した」、さらに「三人とも絞殺し、薬品は使わなかった」と根本的な違いがあったという。
 そもそも、麻原教祖が「その場で殺せ」と指示したのか、「富士山総本部に連れて来い」と命令したのかが曖昧であり、中には、当時建設されていなかった上九一色村の教団施設に連行した、と供述する者さえいたという。
 坂本宅にプルシャを落とした人物も、上申書の違いで中川、早川、村井の三人の名前が出てきているという。岡崎は「坂本夫婦ともみ合った際、村井が身につけていたプルシャを落とした」と述べれば、中川は「現場にプルシャを二個つけて行き、一個を落とした」などと供述しているという。
 こうした供述の根本的な食い違いは他でもかなり見られるとして、「上祐が死体を埋める穴掘りを手伝った」とか、「事前謀議には上祐や石井久子、松本知子等も参加した」などがあり、一橋氏の感想では、自供というより仲間の刺し合いであろうと述べている。また、もっと酷いのは死体は三体しかないのに、埋められた場所が長野、富山、新潟、石川の各県の山中と四カ所も挙げられていたという(註16)。
 坂本宅の鍵が開いていたかについて、坂本夫人都子の父親大山友之氏は著書(註17)にあるように堤が被害者の会に所属する母親たちに施錠の注意をしていたこともあり、「都子は鍵のかけ忘れをするような人間でないことは、私の体験からしても断言できる」と述べている。ところが岡崎は法廷では第一日目は夜の十時三十分ごろ、第二回目は十二時すぎに堤宅の鍵が開いていたと証言している。
 ところが大山氏は岡崎証言の重大な矛盾を明らかにしている(註18)。大山氏がオウム真理教と実行犯六人を相手取って横浜地方裁判所に起こした民事訴訟の場に証人として出廷した岡崎は、私の代理人弁護士の尋問に対して、「鍵の確認に行ったのは、一回だけだった」と述べたという。弁護士の「一回だけなんですか」の質問に「一回だけなんです、本当は」と答えている。さらに弁護士の「あなたの供述や裁判所の認定だと、二回になっているが」の問いに対して「十二時ごろというのはないです。それは、絶対にないです。私は本当は一回なんです。それは、四年前の取り調べのときには、そういうふうに言っているんです、ずっと。それでK検事と大分討論したんですよ。要するに一回十時前後に見に行って、鍵が開いていると分かったとグルに報告したら、グルからもう中に入れと言われたというと、(K検事から)『それ以降は、またもう一回見たんじゃないか』と言われましたけれども、本当は見ていないんです、私。そしたら、(K検事が)『そんなことがあるわけないじゃないか。夜十二時とか一時頃とか行って、開いているから、だから三時に入れるんじゃないか』と、そういうふうに言われたんですよ。そうでなければ、おまえたちが入れるわけがないじゃないかというけれども、そうじゃないんですよ」と述べたという。
 これは警察が、三時に犯行が起きたことを知った上での時間合わせを迫ったものであるといえる。このことは、弁護士の更なる追求に答えて、「私は一番最初、初めての反対尋問で、早川法廷に出ましたよね。その時でも違うところはたくさんあるんですよ。記憶のとおり言ってくださいと初めて言われたんですよ。で、記憶のとおりとなると、大分違うところがありますと言ったんですよ。そしたら検事の書いた調書だから、検事の書いた調書のとおりじゃないと困りますね、というのはあったわけです」。続いて弁護士から「検事からですか」の質問に「言われました。それならもう調書を丸覚えするしかないのかなと、そういう気持ちになるわけですよ」と。また、「私は検事の言われることは正しいと、ずっと思っていましたから」とも述べている。
 この証言は、九九年四月十四日に東京地方裁判所で行われた主張尋問によるものであり、法廷そのものは非公開で行われたため、報道関係者はおろか傍聴人も存在しなかったので、この事実はどこにも報道されなかったという。大山氏は「一回か二回か」の食い違いを、偽証罪に問われる重大な証言と指摘しています。しかし偽証罪に問われた事実はこの文章からはないものと想像される。また、例え傍聴人がいなくて一般に知られなかった偽証であったとしても、裁判所同士は情報交換がなされ「公正な裁判」が行われるはずだから、これが取り上げられなかったのは裁判の公正さを疑わせるものである。

オウム真理教は坂本弁護士を問題にしてはいなかった
 八九年十一月二十一日、麻原教祖は成田を発って、西ドイツのボンに向かった(註19)。出国前夜、麻原教祖は宗教学者中沢新一氏と成田市内のホテルで対談している。この内容は週刊誌『SPA』と『週刊ポスト』に掲載された。その中で、麻原教祖は、坂本事件について中沢と以下のような遣り取りをしている。
中沢 例の弁護士さん一家失踪という不可解な事件のことです。これについて、本当のところをお聞かせ願えませんか。
麻原 それについては、私たちのほうこそ狐につままれたような気分なのです。先日の記者会見で説明しましたように、あの事件についてはオウム真理教はまったく関係がないとしか言いようがないのですよ。それというのも、失踪された坂本弁護士は、確かに「被害者の会」の顧問弁護士ではある方なのですが、彼だけが特別の能力をもった弁護士というわけでもなく、ほかにも弁護士はたくさんおりますからね。例え、その人がいなくなったとしても「被害者の会」がなくなることもありません。だとすると、オウム真理教がそんな事件をやる意味は、まったく見当たらないのです。
 とある。
 『サンデー毎日』の記者広岩近広氏が、麻原一行を追って、ボンのオウムの支部を訪ね、麻原教祖にボンに来た理由を尋ねた。これに対して
麻原 ボン支部の建物は去年から借りていまして、ちょうど契約が切れる段階なので、その更新のために来ただけです。これは予定された行動です。
広岩 坂本一家行方不明事件はオウムの仕業ではないか。
麻原 関係ありません。私がやるとしたら、『サンデー毎日』編集長の牧さんですよ。
 そう言ってニヤリと笑ったという。

帰国後、麻原教祖はTBSの単独インタビューに応じた後、三十日に記者会見を開いた。ここでの発言は以下のようである。
「今回のマスコミ報道について言いたいことは、横浜法律事務所―これは共産党系の事務所だが、その方法論には非常に疑問があるということだ。弁護士の立場というものは、日本国民の個々の権利を守ることだと思うのだが、彼らのしたことは、自分たちの仲間の権利を主張するあまり、オウム真理教の権利を踏みにじる発言、行為が目立ったことを疑問に思う。例えば、弁護士でありながら、ここにいる総務部長の早川を犯人と決めつけるような発言をしたり、教義にないことを意図的にでっち上げたりして、オウム真理教が事件の背後にあるようなことをずいぶん捏造している。これは心外である」。
 オウム真理教は坂本個人は問題ではなく、マスコミや「被害者の会」と横浜法律事務所のような組織の役割に批判の目を向けていたのである。

青山吉伸被告の証言
 麻原被告の第六十九回公判で、殺害される直前まで坂本と接触していた青山証人は次のように述べている(註20)。
 主任弁護人は「平成元年十月二日、『サンデー毎日』のオウムたたきが始まったが、麻原さんはどう考えていたのか」と尋問。青山証人は「そういう外的なことに心を動かすのは意味がない、カルマ(業)を落としてもらって有り難い、と説法で麻原被告から聞いた」と淡々と語った。麻原被告は『サンデー毎日』の記事に動じていなかったような証言。弁護人は「そういう説法はあったと確認しているのか」と質問すると、青山証人は「間違いありません。記憶しています。私が直接聞いています」ときっぱりと答えた。主任弁護人は「坂本さんは被害者の会の実質的リーダーで教団にとって非常な障害だったとは思わないか」と畳みかけたが、証人は「全然違う」と否定した。
 続いて主任弁護人が冒頭陳述を読み上げる。教団側の殺人動機として、坂本弁護士にインタビューの訂正、謝罪を求めたが、拒否されたことを指摘した部分である。これに対して青山証人は「私には全く考えられない。坂本弁護士に会ったとき訂正も謝罪も全く出ていない。間違いない」。続いて主任弁護人が「では冒頭陳述は間違いか」と質問すると、青山証人は「私の記憶では、あり得ない」と、検察側の主張を否定する証言をした。
 被告人麻原、早川、それに岡崎の人物像を尋ねられると、青山証人は「簡単に人のことを評価すべきではない」と拒否した。
 主任弁護人は早川被告らが殺害を認めていることを指摘し、「なぜ、坂本さんを殺害したと思うか」と問うが、青山の淡々とした口調は変わらず、「分かりません」。「あなたが動機を理解しようとしないのでは」と主任弁護人。「そう言われても困る」と証人。「動機は見つからないのか」と主任弁護人は再度尋ねるが、「私の体験した事実からは分からない。理解できない」と述べて、坂本一家殺人事件へのオウム真理教の関与を否定している。

やったんは極道や
 一橋文哉氏はその著書の中で、坂本弁護士一家殺人事件に暴力団がかかわっていたことを、しばしば指摘している。
一橋氏は九一年九月、東京、港区のシティホテルで暴力団組幹部と会っている。その際、坂本殺害事件に関して「あの事件は実は、極道がやったことなんや」と言われたという。男はそう言いながら急に、犯行に加わったと見られる組員だと二人の実名を挙げた。男はまるで、彼らのことをよく知っているような口振りで話し出した。「確か、極道二人は莫大な借金を抱え、困っていたんやなかったかな。組にも迷惑をかけていたとかで、カネのためなら何でもするっちゅう話やった」とある(註21)。
一橋氏は、事件が起きて間もない頃の暴力団関係者の話を半信半疑で聞いていたのであるが、岡崎が上申書のなかで、「襲撃メンバーの中に顔の分からない奴が数人いた」とか、「死体を捨てに行くとき、実行犯以外に何人か穴掘り要員が入っていた」と述べているのを知って、暴力団の介在を考えざるを得なかったという。
一橋氏は、この暴力団の一人に面会するために、九五年九月二十四日に中伊豆を訪ねている。その男は坂本弁護士事件の実行犯の一人として、捜査当局によって密かにマークされていた人物で、中伊豆のどこかの病院で病気療養中ということだった。この訪問はある暴力団関係の情報提供に基づくものであった。それによると、「坂本事件にかかわった暴力団員は三人いるんだ。すべて山口組系の有力組織メンバーで、一人は東海地方のある都市で会社勤めをするなど、一般市民の中に巧く紛れ込んで生活している。あとの二人のうち、一人は行方不明、一人は精神を病んで、中伊豆で療養中と聞いている」というのが、その主な内容であったという。事実、岡崎の供述にも当初、「現場には名前も顔も知らない人間がいて、指揮をとっていた」というくだりがあり、神奈川県警は既に犯行に加わった暴力団員三人を特定し、うち一人は所在をつかんでいるといわれた。 
 県警の捜査員は「いよいよ、念願の坂本事件の摘発ができると張り切っていた矢先、お盆ごろを境に、それまで暴力団関与説を唱えていた幹部や捜査員が急に発言を封じられ黙り込んだり、人事異動で捜査から外されるなど、おかしなムードになってきたんだ。一カ月たたないうちに、内部で暴力団の話をすると、何を夢みたいな話をしているんだ。あれはオウムに決まっているだろうと一喝され、きつい仕事ばかり押しつけられる羽目に陥ったんだよ」と話しているという。事実なら、誠に不可解なことではある(註22)。一橋氏は入院中の男と面会はできたが、重症の薬物中毒患者で、事件にかかわることは聞き出せなかったという。

誰も物音を聞いていない
 都子の父親、大山友之氏はその著書で、鍵の開いている可能性を強く否定している。岡崎も初期の段階では「犯行にかかわりたくなかったから、自宅近くまで下見に行ったものの、何もせず帰り、何食わぬ顔でドアの鍵はかかっていたと早川に報告した。早川が麻原にそう言うと、麻原は午前三時には鍵が開いていると答えた」と証言している(註23)。しかし、この興味ある供述は、捜査の後半から全く姿を消し、真相はうやむやにされたという。
 さらに一橋氏の著書には、(註24)岡崎が上申書の中で、「襲撃メンバーの中に、顔の分からない奴が数人いた」という重大な事実を述べている。古参の信者である岡崎が知らないとは殺人暴力団の関与を示すものである。さらに、「死体を捨てに行く時、実行犯以外に何人か穴掘り要員が入っていた」とも言っている。
 また冒頭陳述の内容と現場の状況に著しい矛盾が指摘されている。その第一は、犯行当日が祝日(文化の日)に当たっており、金曜日と重なっていて、五日の日曜日まで三連休だったことである。休みであるのに、帰りを待ち合わせる殺害計画は道理に合わない話である。
 その第二は、現に坂本一家は、この日から四国旅行に行く計画だったという。たまたま、坂本と龍彦が風気味だったので、旅行は直前にキャンセルされた。この日、港南台駅近くのスーパーに出かけて、石油ファンヒーターと電子ジャーを買ったが、これを六日後自宅に配達してもらうよう手続きをしている。坂本一家が失踪したのではないことが明らかなのである。「失踪事件」あるいは「拉致事件」として、警察は五年も殺人事件であるとの結論を引き延ばしたのである。
 その第三は最も重大なことであるが、午後七時過ぎ、坂本宅で浴室を使う水音を階下の住人が聞いているが、それ以降は、坂本一家の動静を確認した人はいない。坂本宅は、二階建てプレハブアパートの二階で、六畳、四畳半とキッチンの二Kタイプである。一階は同じ構造の二世帯住宅である。
 実行犯の供述に、「夫人が子供を守ろうとして、激しく抵抗した」とあり、検察の冒頭陳述にも激しい格闘の様子が述べられている。プレハブの階下に住む人にとっては、ドアの開閉や子供の走り回る音でさえ、うるさく感じるものである。ましてや夜中の三時に、狭い部屋に大人が被害者を含めて八人も集まり、早川に至っては坂本に蹴飛ばされ、鏡台にぶつかり、襖が外れる騒ぎまで起こしているのである。
 特に、階下に住む主婦は当時、三ヵ月の赤ん坊がいて、「あの日はウトウトとしただけで、午前三時ごろには起きてミルクを与えていたが、何の物音も聞こえなかった」と証言している。実際、騒ぎを聞きつけたら、その異常なことを警察に連絡していたはずである。
 普段から階段の昇降音や赤ん坊の泣き声はよく聞えると話している隣の主婦たちが、誰も物音一つ聞いていないのである。住人たちが口裏を合わせているわけでもあるまい。

殺害に使われた毒ガスはサリンか
 重大な事実は、捜査当局が事件後ずっと、坂本宅の階下に住んでいたこの家族を保護下に置いていたことである。捜査関係者の言うことには「捜査員を警護や監視のため派遣していたのは確かだ。極めて重要な証言者だからで、詳細は言えないが、三日午後八時過ぎ、坂本さんが自宅に訪ねてきた三人の男女と話をしているのを聞いていた。断片的に聞えただけだったが、会話の中身が事件に関係している可能性があったからね」とある(註25)。 もし、その証言どおりの時間帯に犯行が行われたとしたら、食器が洗わずに放置されていたなどの現場の状況と一致する。このときも室内から争うような音は聞えなかったという。
 この男女三人組の存在が事件の鍵を握っている。これらの人物は、部屋に招じ入れられた事を考えると坂本との面識がある者たちと考えられるからである。既に述べた岡崎の上申書の「青山弁護士が訪ねた」とする陳述は、あらためてその出鱈目さ加減を示唆するものである。事件を知らなかった青山弁護士の訪問は道理に合わないし、青山と上祐両氏は当日午後八時半までは金沢市に行っていたのが確認されているのである。
 他の面識ある人物として考えられるのは「被害者の会」のメンバーか、それと何らかのかかわりのある人たちと考えられる。話し合いの途中で、お茶に青酸カリのような毒物を入れて毒殺するという可能性も無いではないであろう。しかし坂本と面識ができたのは、何らかの事件の解決方法を坂本に依頼した間柄であるとすれば、その人たちがその席で殺害したとは考えにくい。男三人組に比べて男女三人組と女性が一人でも加われば、直ちに殺戮を働く殺し屋になる可能性は少ないと考えるのが常識である。毒殺にも失敗の危険はあるし、死に際では苦しむので音もなく殺すのは困難であろう。
 最も可能性のあるのは、情報機関が「被害者の会」に潜り込んでいて、男女三人が坂本邸を訪問することをつかんで行動を監視し、坂本の在宅を確認したということであろう。殺し屋一味は、この情報を知らされ、すぐさま行動に移ったにちがいない。
何の物音も出さず、人を殺す方法は毒ガスによるしか考えられない。坂本宅のドアは、多分閉まっていたのであろう。当時のシリンダー鍵は専門の鍵師の手に掛かれば、数分で簡単に開けられる。殺人請負集団は、専門の鍵師を用意しているはずである。毒ガスは地下鉄サリン事件の場合と同様、ナイロンポリエチレン袋に詰められたサリンを用いれば、簡単である。ドアを空けて、サリンの入った袋に穴をあけ、ドアの内側に置いて戸を閉めれば後は死ぬのを待つだけである。犯人は鍵師を別にすれば二人の小人数で足りる。
 犯行の時間は夕食の終わり、男女三人と話し合いをした後の早い時間の可能性がある。几帳面であるという都子が食器の後片付けをしていないからである。毒ガスが部屋に行き渡って一家が死亡するのにはそれほどの時間を必要としないが、ガスが空気中の湿気と反応したりして無害になるには数時間を必要とするであろう。
 死体運び出しは午前三時ごろまで待って行われたのであろう。死体は布団に包み、窓から釣り下ろせばほとんど音も立てずに済ませることができたであろう。岡崎は見知らぬ墓掘り人(註26)と共に、龍彦の死体を乗せた車で埋葬場所に行ったのであろう。
 早川紀代秀は坂本一家殺害に加担したことを法廷で認めている。しかし、実際にはこのようなドタバタ殺人はあり得ないことで自供自体が強制されたものであろう。あとで起きた国松長官射殺未遂事件で、犯人とされた本富士警察署の公安警察官小峰敏行が、日本テレビに出演して「自分がやった」と拳銃を構えた姿をして述べている。この放送は国松長官自身が捜査に妨害になるとして否定された。小峰は公安警察によりマインドコントロールされていたのである。現代の脳科学の進歩は、薬物を使って過去の記憶を消すことや幻想妄想を植え付ける技術が発達しているのである。現に実行メンバーは逮捕されるまで、家族三人は中川智正の注射によって抹殺されていたと思い込んでいたという(註27)。その中川も法廷では、一切の供述を拒否している。

五年十一カ月も待たされた
 担当刑事は「龍彦の誕生日、八月二十五日までには、きっと探し出します」「ランドセルは必ず背負わせる」「もう一歩のところまできている」と言っていたのに、九五年九月六日、一家は死体で発見された。実に五年十一ヵ月ぶりである。殺人事件であるのに、拉致失踪事件としてそのままにされたのには理由がある。それは死因の隠蔽工作である。六年近く地中に放置されれば、完全に腐敗が進み死因の特定は困難になる。また胃の中の残存物を調べれば食後に犯行が行われたか否かの判定が可能であり、殺害時間の特定もできるはずであった。
 発掘された死体の法医学的鑑定は坂本堤についてのみ行われた。鑑定人は東邦大学医学部名誉教授伊藤順通であった。その結果は、死因は「頸部圧迫による窒息死と推定される」というものであった。本来であれば鑑定の経緯は詳細な鑑定書にまとめられるはずのものである。ところが、伊藤教授はわずか四枚の死体検案報告書を書いただけで済ませている。これは鑑定書より証拠価値は遙かに低いものである(註28)。
 法廷で伊藤教授は、「今回の場合は、解剖結果があまり複雑でなかったので、これで事足りると思った。それに定年退職を控え、執筆などの仕事に追われ、つい時間がたってしまった。検察庁からも催促されなかったので、そのままになった」と述べている。もっとも重要な死因の判定根拠については、ほとんど記載がなく、法廷では口頭で、「頸部の筋肉内に出血と思われる変色があった」としながらも、「その変色部分が出血であると断定する結果は得られなかった」とも述べた。これではどうして死因を「頸部圧迫による窒息死の疑い」としたのかは分からない。さらに県警から依頼された薬物検査も記載がなかった。
「解剖結果があまり複雑ではなかった」と言うとおり、死体の腐敗が進んでいて死因の鑑定に耐えられなかったとみるべきである。冒頭陳述の窒息死に合わせた作文であろう。

むすび
 坂本弁護士一家殺害事件は、初めからオウム真理教を陥れるために仕組まれた犯罪であった。坂本殺害の一カ月前から、急にマスコミを使った反オウムのキャンペーンが始まっていることが一つの証拠である。常に世論操作が先行するからである。殺害そのものについても、裁判で示されたドタバタ騒動は坂本邸のプレハブ住宅では不可能である。警察は階下に住む重要参考人の証言を隠蔽してきたが、殺人は十一月三日の夕食後に行われ、死体の搬送は翌四日早朝にと、分かれて行われたとみられる。
 遺留品として、唯一オウム真理教のバッジであるプルシャが落ちていた事は、初めから謀略事件であったことを示すものである。この事件でオウム真理教にかかわることは、謀略権力の手先になった元信者の岡本一明の存在である。警察は最大限にこの犯人を利用した。スパイや裏切りどもを利用した破壊活動は謀略権力の常套手段でオウム真理教はその被害者だったのである。また共産党であった坂本を殺害したことは、「宗教は阿片なり」と宗教弾圧に狂奔する共産党をしてオウムの犯罪と思い込ませ、オウム真理教弾圧の別働隊に仕上げるのに役立った。
 坂本弁護士一家殺害事件は、その五年後から始まった松本サリン事件や地下鉄サリン事件、そして国松長官射殺未遂事件など、一連のオウム真理教弾圧を目的とした事件の先駆けとなったものである。

  文献
  註1 江川紹子『全真相坂本弁護士一家拉致殺害事件』一九九七年四月二十日 文芸春秋社 93頁    
  註2 『週刊新潮』一九九五年十二月二十一日号 134頁 
  註3 江川前掲 66頁
  註4 『週刊新潮』一九九六年三月二十八日号 53頁 
  註5 江川前掲 76頁 
  註6 江川前掲 146頁
  註7 江川前掲 13頁
  註8 渡辺脩・和多田進『麻原裁判の法廷から』一九九八年四月十五日 晩声社 55頁
  註9 『週刊文春』一九九六年十月二十四日号 170頁
  註10 一橋文哉『オウム帝国の正体』二〇〇〇年七月三十日 新潮社 229頁
  註11 江川前掲 167頁
  註12 大山友之『都子聞こえますか』二〇〇〇年六月二十日、新潮社 163頁
  註13 江川前掲 124頁
  註14 青山吉伸『真理の弁護士がんばるぞ』一九九一年十月 オウム出版
  註15 一橋前掲 222頁
  註16 一橋前掲 224頁
  註17 大山前掲 181頁
  註18 大山前掲 184頁
  註19 江川前掲 137頁
  註20 『東京新聞』一九九八年三月十三日 十面
  註21 一橋前掲 206頁
  註22 一橋前掲 263頁
  註23 一橋前掲 249頁
  註24 一橋前掲 259頁
  註25 一橋前掲 251頁
  註26 大山前掲 216頁
  註27 大山前掲 216頁
  註28 江川紹子『魂の虜囚』二〇〇〇年八月十日 中央公論社 181頁


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