社会問題研究所

社会の裏側に隠された真実を追求します。

第十二章 化学兵器禁止条約

2011年08月09日 | 国際・政治

第十二章 化学兵器禁止条約

 毒ガス戦の始まりから、各種化学兵器の出現とそれに続く国際的な禁止条約の駆け引きを振り返る。条約に対する各国特に大国の利害の対立から、自己規制相互規制に一定の進展はあったが抜け道も含むものとなっている。実際、大国の毒ガス保持は今も続いており、秘密のヴェールに隠された使用が続いている。
 オウム真理教事件真相究明の鍵の一つは、この化学兵器禁止条約である。その根拠は国際条約であるから、アメリカは勿論、これと安保条約を結んで軍事的に従属状態にある日本もその制約を受けるからである。日本は毒ガスを作らないし持たないと宣言している。政府機関は勿論のこと民間の会社も宗教団体も、いかなる形にせよこれに違反して製造することはできない。違反を監視する義務も負わされている。また毒ガスなどの化学兵器は原料としては平和目的の化学製品の原料にもなりうるので、その流通には監視が義務付けられている。「オウム教団がサリンを作った」というお話は、この二つの事項を日本政府が条約に違反して履行を怠ったことになる。

毒ガスなど化学兵器の出現
 原始の昔から山野に自生する動植物の毒を、殺し合いの場に使用することは行われてきた。しかし近代化学工業を基盤として大規模な毒ガス戦が行われたのは一九一四年に始まった第一次世界大戦である。ドイツが塩素ガスを使用したのが初めとされている。しかし、これはいつもながらドイツが敗戦国としてその罪を一身に着せられたためなのであった。実は最初に毒ガスを使用したのはフランスであった。
 空中窒素からアンモニアを作る発明でノーベル賞を受けることになったオットウ・ハーンがドイツ化学界の大立て者でもある枢密顧問官フリッツ・ハーバーから、西部戦線の膠着状態を変化させるための塩素を毒ガスとして使う計画に協力してくれないかと依頼された。ハーンは「それはハーグ条約に違反するのではないか」と反論すると、ハーバーは「やり始めたのはフランス軍の方が先なのだ」と答えたという(註1)。   
 ハーグ条約については後に述べるが、一九一四年八月のシャンパーニュの戦いでフランス軍が催涙ガスのブロモ酢酸エステルを詰め込んだ手榴弾を投げ、榴散弾を撃ち込んだとある(註2)。 
 多くの死傷者を出し、戦局に影響を与える毒ガス戦が始まったのは一九一五年二月のドイツ軍による塩素散布にある。塩素は塩化ビニールなどの原料として大量に使用される。しかし当時は食塩を電気分解して苛性ソーダを作る際に多量に出る無用の副産物であった。
 毒ガス戦はエスカレートし、次々と新しいガスが投入されていった。そして一九一五年七月、東部戦線でドイツ軍によって強力な窒息性ガスであるフォスゲンが使用された。このガスはイギリスの化学者デーヴィが一酸化炭素に塩素を混ぜ日光に当てるとできることを発見していた。フランスもフォスゲンの大量製造法を開発し塩素ガスの報復として準備していたのであるが、あまりに猛毒なために躊躇しているうちドイツ軍が先に使い始めたといわれている(註3)。 
一九一七年七月には糜爛(びらん)性毒ガスであるイぺリットがドイツ軍により使用された。これは辛子のような匂いがするのでマスタードガスともいわれる。このガスは成分に塩素と硫黄を含み、また遅効性で、時間が経つと皮膚が爛れ皮膚に接触するだけで被害が出て、ガスマスクの効果が無くなる。アメリカはマスタードガスより強力な糜爛性毒ガスが作られ、ルイサイトと呼ばれた。そして、この爆弾十二個を投下すればベルリンは全滅するとも豪語した。このガスは塩素と砒素を含み既にドイツで合成されていたが、なぜか実用化されなかったことがあとで分かったという(註4)。 このように次々と新しい毒ガスが開発されて、大戦終結までにはアメリカで四千種の物質が集められ研究されたという。
 ドイツは八百八十五万人という空前の犠牲者を出して第一次世界大戦は終わった。毒ガスによる死傷者はドイツ軍が八万人、連合国側が百万人、そのうち装備の悪かったロシア軍が約半分を占めたという。

毒ガスなど化学兵器の開発競争
 第一次世界大戦における毒ガスの大量使用によりもたらされた悲惨な結果を反省して、一九二五年ジュネーブ議定書が誕生し、二八年発効した。一九八九年の時点で百数十カ国が加盟している。しかし、この条約は毒ガスの使用は禁止しているが保有と研究開発は禁止していないのである。アメリカを初めとする戦勝国は競って毒ガス開発に狂奔した。ベルサイユ条約で禁止されたドイツも第二次世界大戦の切迫とともに化学兵器の開発を再開した。
 毒性物質の研究は、また農薬という平和目的の応用も加速させた。一九三八年にはシラミ退治で有名になったDDTが合成され、一九四一年にはBHCが合成された。これらの有機リン系化合物の生理作用は神経細胞間の信号伝達を阻害することにより毒性が現れることも知られるようになった。この結果有名なパラチオンという殺虫剤が生まれた。
 一九三六年ドイツのシュラーダーは有機リン化合物の中から猛毒の神経ガス第一号であるタブンを作りだした。四二年には多量生産が開始された。第二次世界大戦が始まった三九年にはタブンの二倍の毒性があるサリンが開発された。この毒性はフォスゲンの三十二倍で都市に投下すれば数分間で死の町と化することができる。大戦末期にはさらに強力なソマンが開発されている。しかしドイツはこれら毒ガスを使用しなかった。その研究は極秘に付されたが、敗戦後連合国に発見されて、彼らをアッと言わせたのである(註5)。アメリカやソ連など連合国側は資料とともに毒ガス類を鹵獲(ろかく)し本国に送った。ドイツが使用しなかったのは、アメリカが大量の毒ガスを備蓄しているのを知っており、その報復を恐れたためであった。 
 日本は列強に遅れること久しい一九二五年(大正十四年)毒ガスの開発製造が開始された。二七年には広島県の大九野島に製造工場が造られることになった。一九三一年(昭和六年)満州事変が勃発すると、それまであった陸軍科学研究所を拡充する必要に迫られ、陸軍習志野学校が創立された。これは化学戦の教育訓練を目的としたものであったが、名前として地名が付けられたのは目的を秘匿するためであったという(註6)。この習志野学校は日米太平洋戦争の後も存在を知られていなかったが、地下鉄サリン事件の前日に、この学校で訓練を受けた看護婦が聖路加国際病院に派遣されてきたことが明るみに出て注目されるようになった。大九野島で毒ガスが製造されたのは太平洋戦争が始まった前後が最盛期で、一九四三年には化学兵器の製造研究は全く行われなくなった。また第二次大戦においては日本軍は毒ガスを全く使用しなかった。これはアメリカによる報復攻撃を恐れていたためと考えられる。
 第二次世界大戦後も化学兵器の開発はより大規模に進められた。一九五〇年代にはG剤より毒性の強いV剤すなわちVXガスが開発された。毒ガスは一般に活性が高いので、長期保存には向かない。これを避けるために八〇年代にはアメリカは二種類の薬品を発射と同時に混合させて猛毒化するバイナリー技術も開発した。

化学兵器禁止条約の歩み
 毒ガス禁止条約の最初の動きは一八七四年のブラッセル宣言に始まる。これには十五ヵ国が調印したが、イギリスが批准しなかったために成立しなかった。一八九九年オランダのハーグで再び毒ガス禁止の会議が開かれ欧米の主要大国のほか日本も加わって、初めて「使用禁止」条約が締結された。これにはアメリカが実効性が薄いとして調印しなかった。しかし一九〇七年に再びハーグに四十四カ国が集まり、「ハーグ条約」が締結された。
 この条約は毒ガスの定義がはっきりしないことや、使用の禁止だけで開発、製造そして保管に制限条文が無いという抜け道があったため守られることが無いものとなった。しかしオットー・ハーンが「ハーグ条約」を楯にして一時は毒ガス開発に反対したように理念的には大きな進歩の役を果たした。
 第一次世界大戦の毒ガスの大量使用によってもたらされる悲惨な結果を反省して、一九二五年ジュネーブ議定書が誕生した。現在まで百数十カ国が加盟している。しかしこの議定書にも化学兵器の使用だけを禁止しているだけである。開発保有に関する検証規定も存在していないのである。
 第一次大戦のときと異なり第二次大戦で化学兵器の使用が抑制されたのは、戦争に関する国際条約において報復権が認められているからである。この報復権自体は大国による小国の圧殺を認める不当な性質のものであるが、化学兵器戦には一定の歯止めがかかることになった。
 しかしこの協定の精神を踏みにじったのは加盟国のアメリカであった。毒ガスの定義の曖昧さを利用したものであった。一九六五年、AP通信社はアメリカが南ベトナムで毒ガスを使ったと報じたのである。米軍はこれは催涙ガスであると強弁した。さらに「枯葉作戦」と称する除草剤と猛毒のダイオキシンの大量散布が行われた。この結果広大な農地が耕作不能となり、奇形児の出産も相次いだ。一九六六年一月サイゴン西北部で、ゲリラを掃討するために地下トンネルに催涙ガスと称する毒ガスを送り込んだ。このためにガスマスクを付けているにも拘わらずオーストラリア兵が死亡するという事件が発生している(註7)。  
 こうした状況を背景に一九六九年に開かれた国連総会において、ジュネーブ議定書の不備を改め化学兵器を全面的に禁止する国際条約の締結が提案された。これに基づき一九七三年一月十三日に、開発、貯蔵とその査察を含む「化学兵器の開発、生産、貯蔵および使用の禁止ならびに廃棄に関する条約」が我が国を含む各国によって署名された。この条約を一九九五年四月五日に我が国は批准した(註8)。 そして条約の規定に従って一九九八年四月二十九日に発効した。但しこの時点においてはアメリカは議会の反対を理由に批准していない(註9)。
 この全面禁止廃棄条約が締結された背景には、新興開発途上国に化学兵器を持たせないという企みが隠されている。毒ガスの製法は文献に発表されて公知である上に、農薬の専門家および製造の技術と設備があれば作ることが可能で、同じ大量破壊兵器である核兵器に比べて遥かに容易である。それで「貧者の核兵器」とも呼ばれている。このため化学兵器製造用原材料の輸出規制が査察の重要な柱となっている。この実効性を高めるために一九八五年に品目について合意が得られ、主要物質八品目をコア・リストして、付帯の四十一品目とともに警告表ウォーニング・リストとして定められた(註10)。このコア・リストの中には上九一色村で発見されたと報道された三塩化燐も含まれている。
 特に重要なコア・リストの品目は輸出規制措置がなされ我が国においては「輸出貿易管理令」で施行されている。これには国内の流通にも目を光らせなければならない。国内法には「化学物質の審査および製造などの規制に関する法律」がある。この第十四条に「(指定された薬物を)使用しようとするものは、事業所ごとにあらかじめ主管大臣に届けなければならない」とある(註11)。コア・リストにある三塩化燐は製造者がどこに売ったかを届けなければならない。主管大臣は通商産業大臣または厚生大臣である。政府は三塩化燐の流通経路を知っていたはずであるし、オウム真理教は三塩化燐の使用目的を届けていたはずである。届けていなかったとすれば、その違法を追求できるはずであり、それをしなかったとすれば政府の怠慢である。オウム真理教はサリンを作らなかったのである。
 実は一九九五年一月二十日から始まった第百三十二回通常国会は化学兵器禁止条約の批准が予定されていたのであった。しかし朝日、読売、毎日などの新聞は地下鉄にサリンが撒かれたあとの三月二十三日までは一切これを報道しなかった。唯一事前に報道したのは、『日本経済新聞』三月十日の記事であった。五面の下部に小さく「化学兵器禁止法を国会に提出することを閣議決定した」とある(註12)。さらに百五十九ヵ国が署名した「化学兵器禁止条約が年末に発効することを受けた措置である」としている。この条約を批准すれば戦時中海外に送られ、そのまま廃棄された毒ガスの処分を義務付けられ、その費用に相当の金額を要し論議の対象になる。さらにアメリカが批准していないことも問題にされるであろう。地下鉄にサリンを撒いた目的は、アメリカの様子を見て批准をためらっていた日本政府の尻を叩くことを狙ったものであったかもしれない。
 三月二十三日新聞各紙は地下鉄サリン事件のあとを受けて、審議中の化学兵器禁止条約の批准と関連した国内法とは別に特別立法の制定が必要との政府見解を五十嵐広三官房長官が述べたと報じた(註13)。 さらに五十嵐官房長官は、米国のクリストファー国務長官から地下鉄サリン事件に関して支援の申し入れがあったことを明らかにし、「どういう協力が適当か関係各省で検討中だ」などと述べたという。アメリカの犯罪を隠蔽するずうずうしい発言といわなければならない。批准に合わせた国内法に続いて屋上屋を重ねる特別立法とは、何の必要があってのことかと疑問が持たれたが後の国会審議でオウム真理教弾圧の世論形成に十分に利用された。
 我が国がこの条約を批准した一九九五年四月五日は、地下鉄にサリンが撒かれてから僅かに半月足らずのことであったことは注目に値する。内閣法制局による法案の作成には時間がかかるので、地下鉄にサリンが撒かれる大分以前から秘密裏に文案の作成が行われていたのである。なお、ご丁寧にも四月二十一日には「サリンなどによる人身被害の防止に関する法律」なる特別立法が成立公布された(註14)。これは法律の文言では一言も触れていないがオウム真理教を狙った国家権力を総動員した弾圧であった。国会審議においては自民党から共産党まで全会一致で賛成された。カナリヤ籠をぶら下げた警官隊が上九一色村に進軍したのはこれを契機としてであった。

硫黄島戦での毒ガス攻撃
 アメリカは大東亜戦争が始まった後の一九四二年ごろから化学兵器の研究を強化した。このような状況を背景にして、一九四三年にトルーマン大統領は「アメリカは化学兵器を報復以外に使用しない」という声明を行なった(註15)。 これは裏を返せば条件付きで毒ガスを使うと明言したことになる。この情報をキャッチした日本政府は国際赤十字委員会などを通じて、「日本軍は中国で毒ガスを使用せず」と弁明したがアメリカは相手にせず、かえって化学戦の準備を進めた。一方米軍の中には日本軍は中国で使用したので報復の権利を放棄しているとの意見が持ち上がっていた。また対日戦で増大するアメリカ軍の犠牲を少なくするために、化学兵器の使用を是認する世論も高まっていた。
 南太平洋での米軍によるマキン・タラワ攻略戦では、わずか四日間の戦闘で九百九十人の戦死者と二千人余の戦傷者を出した。このとき、現地軍は化学兵器の使用許可を求める電報を打ったという。
 さらに、この後の硫黄島でも多大な死傷者の出ることを予想して、秘密裡に高性能砲弾をカムフラージュしながら毒ガス弾を発射することが計画された。さらに綿密にも、自軍の砲手にも分からないように毒ガスのマークを消し、しかもガスによる汚染が自然に除去、浄化されたときを見計らって上陸することまで検討された。ヨーロッパ戦線ではこのような提案は一切行われていなかった。
 これは提案段階ではルーズベルト大統領によって拒否されたという(註16)。しかし、実際には実行された可能性が高い。その理由はその後に引き続く沖縄戦で毒ガスが使われたからである。また硫黄島戦において米軍は戦死者は六千八百二十一人、負傷者は二万八千六百八十六人に及ぶ大量の犠牲者を出している(註17)。戦死者をできるだけ減らすことが現地米軍の最大の義務であり、出先司令官の責任で毒ガス攻撃が行われた可能性がある。
 戦後硫黄島の住民は島に帰還する事を許されず今日に至っている。これにより戦争がどのように行われたかを確かめる手段が奪われているのである。それどころか戦病死兵士の遺骨はシベリアをはじめほとんどの外地で行われたにもかかわらず、硫黄島においては一万九千八百人の戦死者を出したのに、全く行われてこなかった。硫黄島戦は地下壕で上陸してくる米軍に抵抗したのであるが、この調査が行われれば遺骨の散乱状況からどんな状況で戦死したかは推定できる。毒ガス攻撃の実体を掴むことができたはずなのである。今はただ自然崩壊で証拠が隠滅されるのを待っている状況なのである。アメリカの毒ガス大量備蓄の圧力は日本軍に対しては毒ガスの使用を不可能にする一方、米軍は証拠を残さずに使用するという蛮行を働いたと推定される。
 これに類することはヨーロッパ戦線でも行われていた。一九四三年十二月二日、ドイツ爆撃機がイタリア半島先端にあるバリ島に集結していたアメリカの軍艦、輸送船、タンカーなどを爆撃した。このときイペリットを満載したリバティー型輸送船「ジョン・E・ハーヴェイ号」があったのである。このイペリットはアメリカから運んできたものであり、この被害者は六百十七人、うち死者は八十三人に達したという(註18)。
 戦後も米軍は沖縄知花爆薬貯蔵庫に毒ガスを貯蔵していた。一九六九年七月、この貯蔵庫から神経ガスが漏れ出し、民間人一人を含む二十四人が入院する事故が起きた。これに対する反対運動が高まり、米軍は南太平洋の英領ジョンストン島に移送した(註19)。

オウム真理教にかかわる毒ガス疑惑
 化学兵器禁止の国際条約の観点からも、オウム真理教が毒ガスを製造し散布したという宣伝に対する疑惑が浮かんでくる。
 まず核兵器拡散禁止条約や化学兵器禁止などの国際条約では特に開発途上国に対する関連物資の輸出が厳しく制限されている。特に毒ガスの原料となる物質は製造の段階から厳しく追跡されている。輸出は小さい商社によっても行われるからである。サリンの原料になる三塩化燐はコア・リストにある八種類の化学薬品の一つに挙げられている。上九一色村で見つかったと宣伝されたこの三塩化燐は当然政府が知っていたはずである。
 地下鉄サリン事件が起きた直後の三月二十五日の『東京新聞』の第一面に警視庁の発表として「薬品調達の三社確認」として、弗化ナトリウムや三塩化燐などサリンの原料になる物質を押収したと報じられた。三塩化燐はトン単位で購入されていたという(註20)。この三塩化燐の多さを説明するため二百五十キロのサリンを作り東京の空に撒こうとしたなどという出鱈目な理由付けがなされた。実は教団では農薬の原料として購入したとしている。千人を超す出家信者の自給自足による食料調達が目的だったのであろう。
 こうした事実が地下鉄サリン事件発生まで隠蔽されてきたこと自体重大な問題である。既に知られているように一九九五年元旦の『読売新聞』第一面に、上九一色村でサリンの残存物が発見されたと大々的に報道された。オウム教団側はこれに対抗するために同年一月、記者会見を開いて、「オウム教団がサリン攻撃を受けている」と反論している。またこの年の一月中旬子供二十人を含む多数の信者がサリン中毒にかかり、このうち四十人が重体となる事件が上九一色村で起きている。警察はこれらにまともに対応せず、マスコミに対しても報道管制を行なってきたと思われる。事実、国民は何も知らされていなかったために、地下鉄にサリンが撒かれたとき「一体誰がやったんだ」と一斉に叫んだのである。事件が発生してから初めて分かったようなマスコミ操作は、オウム教団がサリンを作っていたという宣伝をするためのものであり、まさに国家犯罪というべきものである。
 この新聞発表の物質の中にはVXガスを作るのに必要な硫黄化合物は含まれていない。オウム教団がVXガスを作ったという検察の主張も根拠がない。
一方、「第七サティアンに五塩化燐があった」と大々的に報じられた(註21)。これがサリン製造に研究されていたともされている。しかし、五塩化燐は化学兵器禁止条約のリストには載っていない。一般国民は科学的知識が乏しいことを良いことに嘘をついているのである。
 VXガスについては、井上嘉浩の手先で元自衛官と称する山形明により「オウム真理教被害者の会」の会長永岡弘行がかけられ意識不明の重体に陥ったとか、小平市を流れる玉川上水の土手で瓶に詰められたVXガスが発見されたという。しかし、これについては誰がどこで作ったのか判然としていない。サリンは燐と弗素を含む十九の原子からなる複雑な化合物であるが、VXガスは燐、硫黄、窒素を含む四十二の原子を含む遙かに複雑な化合物である。化学兵器禁止条約で禁止されている一塩化硫黄や、二塩化硫黄がオウム施設で発見されたという報告はない。オウム施設で作られたと考えることは困難である。
一九九四年九月二十日、オウムウォッチヤーである江川紹子宅に教団製造のフォスゲンが撒かれたという。これも誰がどこで作ったかいまだに不明である。また、これより先の九四年三月十一日、麻原教祖は仙台支部で「公安によりイペリットなどの毒ガス攻撃をされている」と述べたという(註22)。オウム真理教は教団の建物ばかりではなく自動車の中にまで空気清浄機を取り付けていた。それにしても各種の毒ガスがこの間、現れたことが知られる。
 製薬会社でない宗教団体オウム教団がこれら多数の毒ガスのほか、幻覚剤PCPとLSD、麻酔薬のチオペンタールナトリウムやメスカリン、生物兵器の炭疽菌、果ては都庁小包爆弾の高性能爆薬などを短期間の間に次々と作ることに成功したというが、本当なら手品師というべきである。

 今の国際条約は「報復権」を認めている。一九七三年に署名された包括的化学兵器禁止条約も、アメリカはいまだに批准を拒否しているし、ロシアと中国は加盟していない。この結果、核兵器を含む大量破壊兵器は、報復を恐れる小国は使えないものである。むしろ「大量破壊兵器を所有している」という口実を使った大国による干渉の道具にされている。アメリカのイラク侵略がよい例である。一面、化学兵器は大国にも潜在的な脅威でもある。拡散を防止するための検証も条約には厳しく規定されている。

むすび
 毒ガスの原料が厳しく監視されている現状では毒ガスを製造することは不可能なことなのである。条約では製造を禁止しているので、オウム真理教が毒ガスを作ったとすれば日本政府が条約を守らなかったことになる。それどころか、毒ガスの研究や訓練を行なっている防衛庁の習志野学校が地下鉄にサリンが撒かれる二日前から看護婦の訓練を始めており、日本政府自身が犯罪に加担した疑いが持たれている。
 地下鉄にサリンが撒かれたあと、ジュネーブの化学兵器国際監視委員会から外務省に、「日本で毒ガスが散布されたという報道があるが、真相を報告するように」との要請があった。これに対して外務省は「検察庁と相談して返答をする」と答えていた。しかし、どのような返答がなされたかは全く報道されなかった。またジュネーブからもその後何の音沙汰もない。国際監視委員会もアメリカの犯罪と知っていて追求を怠っているのであろう。
 新しい全面的化学兵器禁止条約にアメリカ、ロシア、中国などの大国が批准しないので、我が国もこれらの国の動向を見ていたものと推察される。地下鉄サリン事件発生後、慌てて立法措置を執るに至った経過を見ると、米軍のサリンによると推定される一連のサリン事件は、アメリカが危険視するオウム真理教の弾圧が表面的には目的とされるものの、実は化学兵器禁止国際条約の早期締結を迫った芝居であったと結論されるのである。

  文献
  註1 宮田親平『毒ガスと科学者』一九九一年十一月十三日 光人社 24頁
  註2 宮田前掲 34頁
  註3 宮田前掲 53頁
  註4 宮田前掲 88頁
  註5 宮田前掲 146頁
  註6 宮田前掲 128頁
  註7 宮田前掲 167頁
  註8 官報号外第六四号 平成七年四月五日 18頁
  註9 日本法規九七 条約 6967頁
  註10 新井勉『化学軍縮と日本の産業』一九八九年一一月 並木書房 83頁
  註11 岩波大六法 平成五年版 1391頁
  註12 官報号外特第二一号 平成七年四月二十一日号 1頁
  註13 宮田前掲 p137頁
  註14 『日本経済新聞』一九九五年三月十日 5面
  註15 『毎日新聞』一九九五年三月二十三日 2面
  註16 宮田前掲 167頁 
  註17 松川雅好 本当の硫黄島玉砕 『正論』 二〇〇三年四月号 扶桑社 307
  註18 宮田前掲 150頁 
  註19 宮田前掲 176頁 
  註20 『東京新聞』一九九五年三月二十五日 1面
  註21 『東京新聞』一九九五年四月二十三日 
  註22 江川紹子『魂の虜囚』 二〇〇〇年八月 中央公論社 481頁 


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第2次大戦末期 米軍は日本本土上陸作戦でサリン攻... (第2次大戦末期 米軍は日本本土上陸作戦でサリン攻撃準備)
2011-12-18 02:01:52
第2次大戦末期 米軍は日本本土上陸作戦でサリン攻撃準備

NEWS ポストセブン 12月11日(日)16時5分配信

今年で日米開戦70周年を迎えるが、第二次世界大戦末期の1945年5月、米統合参謀本部は
日本軍へのとどめの攻撃となる日本本土上陸侵攻作戦(ダウンフォール作戦)の実施を
決めた。まず同年11月に九州南部に上陸し、翌年3月には神奈川県相模湾、千葉県九十九
里浜に上陸、一気に首都東京を制圧するというもので、陸海軍合わせて180万人以上の兵
力を動員する米軍史上最大規模の作戦だった。

ところが発令から2か月後、米国は原爆実験に成功し、広島と長崎に投下。日本はポツダ
ム宣言を受諾して無条件降伏し、同作戦は幻に終わる。

もし日本が降伏せずに、米軍の侵攻作戦が実施されていれば、どんな事態になっていた
のか。実は米軍は「恐るべき兵器」を用意していた。オウム真理教事件で使われた、神
経ガス、サリンである。

当時の状況が、米軍化学戦部隊の極秘資料を入手した米ソルトレークシティ市の新聞『
デザレット・ニューズ』(1994年8月4日付)によって、明らかにされている。

同紙によると、米統合参謀本部は、神経ガス(サリン)を使用すれば、日本に侵攻して
もほとんど死者を出さずにすむと信じ、ドイツ崩壊後から米軍が太平洋で毒ガス戦を展
開できるよう、マスコミと協力して世論づくりをしていた。またジュネーブ協定で毒ガ
スの使用は禁止されていたが、日本軍が中国で使用したという事実が、米国側の罪悪感
を軽減したとも指摘する。

米軍は戦闘意欲を失わない日本軍はもとより、玉砕思想を叩き込まれた一般国民にもか
なりの脅威を感じていた。原爆にしろ、サリンにしろ、その作戦の底流には、日本の一
般市民を殺戮しても構わないという思想があったことは間違いない。

※SAPIO2011年12月28日号
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