題名:「何者が毒ガスを提供したのか」
定価:1800円
オウム真理教事件の真相を暴く
小平市立図書館在庫
国立国会図書館在庫 全国書誌番号 20999335
第十一章 オウム裁判の怪
オウム真理教に対する裁判は初めから間違っていた。一九九六年一月三十一日に下された最高裁判所の判決で、オウム真理教はサリンを作ったと断定したからである。下級裁判所で、何の実地検分もなされないまま下された判決を鵜呑みにした裁定であったのである。「初めにサリン犯罪ありき」では、以後の裁判は各方面で色々なされようとも結論は決まっているようなものである。
裁判は事件の真実を明らかにする任務があるはずである。本来は個々人の犯罪ではないので集団裁判の形態をとってこそ、これが実現されるべきものであった。しかし、この裁判の性格はオウム教団の破壊を狙ったもので、犯人とされる人物について各個撃破的にバラバラの裁判が行われた。この結果互いに矛盾した被告人発言が飛び出し、何が本当か疑わせる場面が続いた。
坂本弁護士一家殺害事件から始まり、松本サリン事件、地下鉄サリン事件の裁判そして麻原教祖に至る裁判を検証する。
坂本弁護士一家殺害事件の裁判
坂本弁護士一家が行方不明になった直後、岡崎一明が長男竜彦の殺害と埋められた場所を神奈川県警ならびに坂本氏が所属していた横浜法律事務所に通知していたのである。警察は埋められた場所を調査もしている。しかし肝心の岡崎を調査に同行させていないのである。そして地下鉄サリン事件が起きてからの五年もの間真相を隠蔽していたのである。
もともと、この坂本弁護士一家殺害事件はオウム真理教弾圧を目的に企まれたものであったのである。すでに麻原教祖は宗教学者中沢新一氏との対談で述べているように、「坂本一家殺人事件に関しては、オウム真理教は全く関係がない」と述べていたのである。第六十九回麻原公判でも弁護士であった青山吉伸被告は安田好弘主任弁護人の「坂本さんは教団にとって障害だったとは思わなかったか」との質問に対して「全然ちがう」と答えている。さらに「冒頭陳述は間違いか」との質問にも「初めて聞いたので、私の記憶ではあり得ない」と検察側の証言を否定している(註1)。
こうした法廷の証言にもかかわらず、一九九八年十月二十二日東京地裁は岡崎一明に対して、死刑の判決を下した。それに続いて早川紀代秀、新美智光、中川智正らに死刑の判決を下した。判決の理由はいずれも共通している。第一点は麻原教祖が坂本弁護士の活動に脅威を感じ殺害を指示したという。第二点は麻原教祖の指示に従ってやったことで、教祖には逆らえなかったという。第三点は共同で暴力的な一家殺害を働いたというものである。予め設定された検察側の主張に沿ったものであり、真実を明らかにするという裁判の義務は完全に抹殺されてしまった。
すでに述べたように坂本弁護士夫人都子の父親大山友之氏が犯人とされた六人に対して起こした民事裁判の法廷で、岡崎は「鍵の確認に行ったのは一回だけだった」と検察と裁判所の認定と異なる証言をしている。この偽証も一向に取り上げられてはいない。
検察が初めから二度と決めていることは、犯行が二段階で行われたことを知っていてのシナリオであろう。第一日目は午後八時過ぎドアを少し開けてサリンに類する毒ガスを流し込み坂本一家を殺害し、二日目は毒ガスが分解して無毒になったころを見計らって、午前三時ごろ改めて侵入し遺体を運び出したのであろう。サリンは作用が非常に速く、残留時間が数時間と短い時間で毒性が消える。フォスゲンなど窒息性ガスは残留時間が数分と極めて短いが作用時間がサリンより長いので、苦しんで騒ぎ出す恐れがある(註2)。 プレハブ住宅に住む階下の住民は二階で起きたといわれるドタバタ殺人騒動を全く聞き覚えていないという。プレハブ住宅の住民には厳重な箝口令が敷かれているという。
娘や孫が殺害された大山氏は、その著書の中で「中川を除く坂本一家殺害の実行メンバーは逮捕されるまで、家族三人は中川の注射によって抹殺されたものだと思い込んでいたというのです。呆れてものを言う気にもなれませんでした」という記述がある(註3)。中川が注射したということ自体が出鱈目な話であるが、犯人とされる人たちが実際にドタバタ殺人にかかわったのか疑問を持たせる記述である。大山氏は早川紀代秀に死刑が下された裁判を傍聴した感想として、事実が一向に明らかにされていい、二度と傍聴はしないとの感想を述べたという。
松本サリン事件の裁判
松本サリン事件は麻原彰晃教祖とオウム真理教の犯行であるとの前提に立った裁判は地下鉄サリン事件後にまとめて開始された。一九九六年五月二十三日の麻原裁判第三回公判で松本サリン事件についての冒頭陳述が行われた。しかし、実質審議に入ったのはさらに二年近く経った一九九八年二月十二日である。
一九九八年二月十三日の麻原被告の第六十五回裁判で、松本サリン事件の審理が始まった。裁判で上九一色村の捜査に当たった警察官天野真一が証言した。その中で「松本サリン事件にかかわった元信者の供述に基づく九五年六月十四日夕からの捜査で、上九一色村のオウム教団第六サティアン横のゴミ捨て場にあったサリンの銅製加熱容器三個、ステンレス容器十一個、ステンレス板一枚を押収している。これらは松本サリン事件でサリンの噴霧に使われたとされるもの」とある(註4)。地下鉄サリン事件以来、上九一色村に多数の警察官が動員されて、サリン製造にかかわる物件を探し尽くしてきたにもかかわらず、農薬の原料として購入した三塩化燐のほかは目立った物も発見されていなかったので、この新たな証拠品も警察が用意したものである疑いがある。
元信者なる人物の名前は出ていないが、この男の供述という形ですでにできている「オウム教団の犯罪」というシナリオを国民の前に示したものである。それまで誰がやった事件かは全く公表されてこなかったのに、事件後三年もたってから突然新美智光、中川智正、富田隆らが犯人とされたのである。
それにしても地下鉄にサリンが撒かれる以前の一九九五年元旦の『読売新聞』一面に「上九一色村で九四年七月、悪臭発生源とみられる一帯の草木や土壌からサリンの残留物質が検出された」との山梨県警発表の記事がすでに現れていたのである。なぜ時間が経ってから改めて発見されたのか不可思議なことである。しかも地下鉄のサリンが撒かれる以前も例えば九五年一月にはサリンによる四十人もの重症患者が上九一色村のオウム教団施設で発生しているのである。真相を隠蔽する工作が行われてきたことは明らかである。
冒頭陳述によると、一九九四年六月二十日麻原教祖は第六サティアンの自室に村井秀夫、新実智光、中川智正、遠藤誠一を集め「オウムの裁判をやっている長野地裁松本支部にサリンを撒いて、実際に効くかどうかを試してみろ」と指示したという。サリン散布の実行に当たった者は、村井秀夫、遠藤誠一、中川智正、新美智光の幹部と中村昇、富田隆、端本悟の計七名とされた。土谷正美の作ったサリンを、中川が三個の貯蔵用のタンクに約四リットルずつ計十二リットル準備したという。噴霧車でこのサリンを午後十時三十分ごろ河野氏宅横の駐車場から噴霧したという。しかし撒いたサリンはいつの間にかサリン混合液になってしまっている。
このシナリオを既に松本サリン事件から間もなく事件の解明を試みた磯貝陽悟氏の結果と比べて被害者が出ていることや、河野氏のように全く臭いを感じなかった被害者がいることなどは、実状に合っていない。さらにサリンを撒いて多数の人を殺傷するという凶暴な犯罪の動機の発見に苦しんで「サリンの効果を試す目的」とはいかにも説得力がない。
だいたい殺された村井氏が犯人とされていることは「死人に口なし」の卑劣な言いがかりである。遠藤誠一らが検察側の意向に添った供述をしているほかは、中川、新美両被告は控訴事実を否認または黙秘を続けている。またサリンを作ったとされる土谷被告も否認しているし、サリン噴霧車を製造したとされる渡辺和美被告も黙秘している。この渡辺を含めて、その後の裁判の経過は全く国民に知らされていないのが実状である。
真相の隠蔽は事件直後犯人とされた河野義行氏の扱いに端的に現れている。河野氏は庭先でサリンを合成したとして、マスコミに大々的に報道された。しかし河野氏宅から押収された薬品類は公表されなかったのである(註5)。河野氏は疑いを晴らすため良心的なマスメディアと協力することを考え努力した。河野氏は言う、「化学の専門家に依頼して、私の家で、警察に押収された薬品からサリンが作られるかどうかを科学的に検証する番組も作られた。もちろん、結果はできないというもので、サリンとはそんなに簡単に作れるものではないのだ」と(註6)。松本サリン事件も権力と結び付いた黒い犯罪者集団の犯行であったのだが、このようにして真実を隠蔽して、その後半年を経て起きた地下鉄サリン事件まで隠蔽し、一気にオウム教団の犯罪に仕立てたのである。
犯人にされたのは押収された有機燐系農薬スミチオンの僅か八十グラムのためであった。実際の数百メートルの広範囲に及ぶ被害がこれで生ずるとは常識的にみても考えられないことである(註7)。 さらに宇宙服のようなものを着た数人の男が目撃されたという目撃証人もあった。それにもかかわらず、河野単独犯とされ続けた。この間九五年十二月にはすでにアメリカの生物化学兵器研究所の副所長、カイル・オルソンが河野氏宅を訪問している。何の目的で来たのかははっきりしないが「より大規模テロ発生の可能性を指摘していた」という(註8)。何の根拠もない発言としか言いようもないように見えるのだが、カイル・オルソンの言ったとおりに三月二十日地下鉄にサリンが撒かれたのである。
地下鉄サリン事件の裁判
一九九八年五月二十六日、地下鉄サリン事件の実行犯とされている林郁夫の裁判で、東京地裁は自首を認めて無期懲役の判決を下した。林は控訴せず、刑は確定した。
林は井上嘉浩に唆されて、假谷氏拉致事件の犯人とされる松本剛の指紋を消す手術を行うという医師法違反の行為を行なった。これが教団を裏切るきっかけとなり、さらに教団に留まっていた妻リエも手術に関与したと警察に述べて妻を逮捕させている。林が地下鉄サリン事件に関与したかどうかは疑わしいが、警察は林の自白に感謝して死刑を求めなかったのだろう。
スパイ井上嘉浩も死刑ではなく無期懲役が一審で言い渡された。検察側冒頭陳述の中で、「井上、林泰男、広瀬、横山、豊田、林郁夫、新美、北村、外崎、杉本および高橋の十一名は本件犯行計画を実行するため、九五年三月十九日午後九時ごろまでに、東京都渋谷区宇田川町のマンションに集合した上、井上主導の下で、それぞれの実行者が担当する地下鉄の路線を決めるとともに、井上は林泰男らに対し、村井が決めた実行者と運転者の組み合わせを伝え、さらに、犯行の実行に当たっての細かい注意事項を指示した」とある(註9)。
他の実行犯四人は死刑が求刑されていることを考えると、警察と井上の間には、警察の筋書きに沿った供述をする代償に死刑は求刑しないという密約が取り交わされていたことであろう。
地下鉄サリン事件に付随して、丸の内線本郷三丁目駅や井の頭線駒場東大前駅において、発煙筒によるとみられる事件が報道されていた。また地下鉄に仕掛けられた物は骨壺大とかガラス容器などと報じられている。それにもかかわらずこれらは全く無視されてしまった。
坂本弁護士一家殺害事件、松本および地下鉄サリン事件のいずれも村井秀夫氏が直接指示したとされている。死人に口なしの卑劣な言いがかりである。特にサリンについては、以下の記述がある。
九五年一月第十サティアンで毒ガス騒ぎがあった。これに関し「二階にいた約五十人の子どもたちがバタバタ倒れる。『毒ガスがまかれたぞ』と怒号が飛ぶ。三階にいた男性信者は救助に向かって気を失った。『サリンがどれだけ恐ろしいか分かったろう』 と退院した信者は村井に声をかけられ、毒ガスがサリンと知った。今も『敵の正体は分からない』」とある(註10)。
また「村井は東京都港区の東京総本部ビル地下の応接室で、事件前日の二十二日夜、朝日新聞社の取材に応じ、サリン製造疑惑について『決して作っていない』と改めて否定した」とある(註11)。
村井氏はサリンに関する教団の関与を一貫して否定していた。
オウム弁護団の弁護士に対する圧迫
帝銀事件や狭山事件に関係した人権派弁護士として知られる遠藤誠弁護士はオウム教団の青山吉伸弁護士が名誉棄損の疑いで逮捕されたとき、その弁護を買って出た。これに対して何通もの脅迫状が送りつけられたという。その中にはかみそりが同封されたものもあり、身の危険を感じさせられるものもあったという。圧迫は家族にも及び、娘は怯えて父に弁護を思いとどまるように迫ったという。このような経過から、遠藤氏は弁護を取り下げてしまった。
被告人が選任する私設弁護士が国選弁護士に優先する。オウム教団を誹謗する嵐の中で麻原教祖の弁護に名のりをあげたのは大阪弁護士会所属の五人で横山昭二弁護士はその一人であった。麻原教祖逮捕拘束の初期段階の警察による取り調べが拷問であることを訴えた「獄中ノート」を横山弁護士に送ったが、この段階では麻原教祖と横山弁護士の間には一定の信頼関係があったとみられる。ただし、十三の罪状を着せられた麻原教祖の弁護を少数の弁護士でこなすのは無理があった。その上、横山氏は週刊誌などで一々行動があげつらわれていた。最終的には、横山弁護士自身が不正な活動をしたとかの理由で警察の告訴を受けることになり、弁護を続けることができなくなった。横山氏の不正事件はその後どのようになったかは不明である。
人権派弁護士として活動してきて、小野悦男氏の冤罪事件でも無罪を勝ち取るために闘ってきた野崎研二弁護士も、オウム信者の遠藤誠一被告の弁護人となったときに起きた小野悦男氏によるとされた「首なし殺人事件」の発生で、かつて小野氏を弁護したことがマスコミにたたかれ、弁護を取りやめた。
私設弁護人がいなくなったあとを嗣いだのが国選弁護人である。その団長である渡辺脩は、国選弁護人を引き受けるに至った経緯を和多田進氏との対談で「特に私の場合は十数年前の『弁護士抜き裁判特例法案』というものが出てきたときに、弁護士連合会の反対運動に責任を持つ立場にありました」「ほんとに誰も弁護人として付こうとする人がいないケースが出てきて、弁護士会が弁護人を誰か選ばなきゃならないという場面に至ったときは、そしてもし、その話が自分に回ってきたら、それは自分で引き受けざるを得ないというふうな覚悟は、そういう提案をしたときに自分自身で決めていたんです」とある(註12)。
渡辺は共産党員であったが、共産党はオウム裁判の弁護を引き受けることに反対したために党籍を離脱したという。殺された坂本堤弁護士も共産党員であった。この点についての和多田進氏の質問に対して「坂本さんは、ぼくが前にいた事務所にもしばしば出入りしていた人で、そういう意味では仕事の仲間でした。ですから、彼と、彼の一家の事件は、ぼくらにとってはまことに痛恨の極みであって、その限りでは許しがたい事件だということになります。けれども、いったん弁護人として仕事を始めるとなればね、それは、裁判に臨む態度はほかの普通の事件とまったく同じです。結局、検察の主張や立証を厳密にチェックして、その限りでは被告人の利益のために仕事をするというしかないわけです。坂本さんやその一家に対する自分自身の気持ちは、別の次元の問題で、おのずと区切りがついているような気がします」と言っている(註13)。
確かに渡辺弁護人は『文芸春秋』一九九八年二月特別号に「麻原裁判これだけの問題点」を投稿し、「このままでいくと『麻原無罪』もありうる」と述べている。更に引用した「麻原裁判の法廷から」では、多くの検察の矛盾を突いている。しかし、彼の態度は検察と被告の間の中間的立場をとるという立場をくずさず、検察に対して受動的立場に陥った。そのため、真実を明らかにする点で限界があった。麻原被告は裁判の初期段階では、一貫して罪状を否認し続けてはいたが裁判そのものについては協力的であった。特に警察がオウム教団に破防法を適用しようとした法廷では、適用が不当であることを力説し、この企みを挫折させたのである。しかるに渡辺脩弁護士が国選弁護士になってからは、被告である麻原教祖と弁護士との間の意志疎通が悪くなってしまった。
一九九六年十一月二十二日の第十七回公判で、検察側証人として出廷したスパイ井上嘉浩の発言に対して、麻原教祖は「『サリンなどなかった』、『現実と違う話で意味がない』などと発言を繰り返し、井上には『なぜ嘘をつくのか』と言い放った。裁判長の阿部文洋が『証人に圧力をかけるのか』と注意し何度も制したが、被告が発言を止めないため、退廷を命じた」「弁護人の尋問内容も納得できない様子で、弁護士はもともと『この裁判は黙秘しろ。私たちが防御する』と言っていたのに真相が明らかにならない、と批判。『馬鹿な裁判やってもしようがない』と述べた」という(註14)。麻原裁判の初めから「罪状の認否を保留した」といった報道がなされていたが、弁護士が黙秘しろと言って、正当な反論や罪状の否認を妨害してきた疑いがある。裁判長の退廷命令と併せて、弁護士のこの態度は国民の前に真実が知れ渡るのを阻止しようとしたものである。
この日の退廷直前には「再三再四の警告を無視して(井上に対する)審問を遮る被告に対し、裁判長が激しい言葉を浴びせた。『証人にしゃべられると困ることでもあるんですか』、『それは言い過ぎでしょう』と(安田)主任弁護人。(麻原教祖が反論して)『もともと都会にサリンを撒くという現象で、教団にどういう利益があるんでしょう。私たちは人殺しの集団ではありません』と自説をまくし立てる被告」(註15)。弁護人は黙秘を主張して、出鱈目な証人に対する反論を抑え、裁判長は退廷で反論を封じてしまう。こうしたことから麻原教祖の法廷無視の態度が始まったのである。また弁護士の接見も拒否を貫いている。これでは渡辺脩弁護団長の「弁護人抜き裁判反対」の主張を自ら破っているとしか言いようがない。
小野悦男氏が疑われた首なし女性殺害事件
小野悦男氏は一九七四年七月に松戸市で起きたOL殺人事件の犯人とされ、一審では無期懲役が言い渡されたが、一九九一年四月無罪を勝ち取った。十七年の裁判闘争を弁護したのは野崎研二弁護士であった。しかるに一九九六年四月二十四日、小野氏は再び幼児誘拐の疑いで逮捕された。新聞紙面には同時に小野容疑者と関連付けて、「足立の首なし死体遺棄 血の付いた布団に残されていた体液のDNAは小野氏のものと一致」、「布団は九二年九月、警視庁が窃盗未遂事件で家宅捜査をした際、室内にあったものと同じ柄だった」などと報じている(註16)。同年一月に足立区で首のない女性の焼死体が発見されたのだという。この事件が起きたのは野崎弁護士がオウム裁判の弁護にかかわろうとしていた矢先であった。
この事件にもまた奇怪な事実がある。すでに述べたように、小野氏は幼児誘拐の疑いで逮捕されたのに同時に首なし事件と関連付けられていた。女性の身元が判明したのは五月十日に至ってのことだという(註17)。四十一歳の独身女性であったようで、体液がついた布団が発見されたというが、小野氏が愛人関係にあったこの女性を殺害するとは考えられず、殺害の動機は不明なのである。血と体液の付いた布団が誰でも気が付くゴミ捨て場にあったのも不自然である。さらに不自然なことには、切り取られた首が、どうして分かったのか小野氏の住んでいた集合住宅の敷地内から発見されたことである。
異常なことは以前から小野氏のOL殺人事件にかかわってきた野崎弁護士が五月八日夜、首なし殺人事件を小野氏が認めたという「異例の記者会見」をしたことである。会見を開いた理由について野崎弁護士は「逮捕直後の『関与を否認』との発言をもとに、いろいろ報道されるのは、真実を知る立場から放置できなかった」と説明したという(註18)。真実は裁判を通じて明らかにする努力をするのが弁護士の務めであるべきで、警察の主張を鵜呑みにするとは野崎の転落の始まりを示すものであった。
OL殺人事件でも「小野さん救援会」で活動してきた映画監督の山際永三氏は「安田さんへの弾圧とオウム問題」という論評の中で、「かの野崎研二弁護士に『オウム弁護』を持ちかけたのは私だった。野崎は、九五年十月の麻原氏の私選弁護人(当時の)とのゴタゴタの際には、それなりの役割も果たしてくれた。そのころ野崎が孤立してマスコミにとり囲まれる状況が放置されたことは残念だった。ひき続き野崎と私にとっては、小野悦男さんの新しい事件(九六年四月)が起こってしまい、野崎は小野さんの二十年前の冤罪の弁護人だった関係から、その冤罪は実は虚偽だったのではないかというマスコミの攻勢に屈服し、小野さんの新しい事件の弁護に懐疑的になり、結局私とは決定的にねじれてしまった。マスコミから『ころび人権派弁護士』として、便利に利用され、少年事件や冤罪事件などの人権問題について事実関係を無視した『反人権』的コメントまで取られて、いくら私が批判しても開き直ることしかしなくなってしまった。野崎弁と私の長い交流を省みて、慚愧にたえない。」と述べている(註19)。
首なし殺人事件の裁判はどうなったことやら、今のところ全く知らされていない。結果として弁護士一人が転落したに止まらず、オウム弾圧のために無名の女性の命が奪われたのである。
安田好弘主任弁護士の逮捕
一九九八年十二月六日、麻原弁護団の主任弁護人安田好弘弁護士が強制執行妨害容疑で逮捕され、その後起訴された。安田氏の被疑事実は、顧問会社への業務上の助言という通常の弁護士活動であり、この逮捕は異常としか言いようがないものであった。また安田氏は既に三回に及ぶ任意の事情聴取に協力しており、逃亡したり、罪証を隠滅することなど全く考えられない状況にあるにもかかわらず、逮捕により身柄を拘束され警視庁の「代用監獄」に収容された。安田氏は無罪であることと、でっち上げ容疑で逮捕されたことを一貫して主張し続けている。一九九九年九月二十七日までの約十カ月間四度の保釈請求にもかかわらず拘留され続けた。
彼本人のみならず、多くの学者、法曹関係者ならびに人権運動家が、やはり不当逮捕、不当拘留だと指摘している。安田弁護士を助けるために弁護人となった弁護士の総人数は一二四〇名を超え、日本の刑事事件としては前代未聞の人数となった。
安田護士は麻原裁判に出席しないことを理由に国選弁護人を解任された。しかし本人を拘留し続けて出席できないようにしておいて「出席しなかったから」とはとんだ言いがかりというべきである。麻原弁護団は一九九八年九月、「この違法、不当な逮捕は、ひとえに麻原弁護団の活動に重大な支障を生じさせるものであり、その政治的意図を露骨に示したものである」との声明を出したのも当然である。
安田弁護士は死刑事件弁護の第一人者であり、死刑廃止運動の中心として活動してきた人物である。死刑求刑のなされた事件で無期懲役の判決を得たり、一審死刑事件を高裁で無期懲役に逆転したり、その活躍は人権活動、とりわけ死刑廃止運動にかかわる市民の広く知るところであった。
安田弁護士は一つ一つの事件弁護を決しておろそかにしない、徹底して誠実な事件処理で依頼者から深く信頼されていた。とりわけ、「オウム事件」の麻原被告人の主任弁護人として、刑事訴訟法の原則に忠実な弁護活動を繰り広げ、事件の真相が検察官の主張するシナリオ通りのものではないことを具体的に示してきた。しかし、検察は安田弁護士を中心とするこのような麻原弁護団の方針を、「些末なことにこだわり、裁判に時間をかけ過ぎる」などとして強く批判し、第百回公判をきっかけとしてマスコミを使ったキャンペーンを展開していた。
また、さる一九九八年十月末に行われた国連自由権規約人権委員会の政府報告書の審査において、日本の死刑制度、死刑確定者の処遇の問題は切実な関心事項となっていることが示され、死刑廃止に向けた具体的な措置と死刑確定者の処遇の改善が勧告された。しかし、そのわずか半月後に法務大臣は死刑を執行したのである。安田弁護士に対する今回の逮捕はこのような状況の中で行われたものであり、極めて政治的な意図に基づくものであることは明らかである(註20)。
教団アレフ代表岡村達子氏の声明
村岡達子氏は東京外国語大学出身で、オウム真理教においては麻原教祖が逮捕された後にアレフと改称した教団代表を務めた人である。教団は一連の刑事事件に一貫してかかわりを否認してきた。しかし二〇〇〇年六月二十二日、二十三日の麻原裁判で検察側証人として出廷した松本サリン事件の中川智正被告が、それまでの沈黙を破って麻原教祖と鋭く対立した。こうした状況から教団は何らかの情報を得たのであろう。村岡代表の以下のような声明が発表された。
松本サリン事件の被害者、ご遺族のみなさまへ
一九九四年六月二十七日の松本サリン事件から六年が経ち、わたしたちはようやく、事件がもたらした取り返しのつかない結果に向き合うことができるようになりました。いまだ癒えない被害者の方々の後遺症と遺族の方々の悲しみを、わたしたちはやっと、自分たちの問題として受け止めることができるようになりました。
事件はわたしたちの知らないところで起こったとはいえ、当時、事件の関与者と同じ団体に属していた者としての責任を免れることはできません。
被害者、ご遺族の方々に対して、ここに心よりお詫びさせていただきます。本当に申し訳ございませんでした。さらに、わたしたちが、この一言を申し上げるまでに六年もの歳月を要したことによって、被害者・ご遺族の方々の苦しみをさらに増すことになってしまいました。このことに対しても、心からお詫び申し上げます。
今日の日を迎えるに当たって、わたしたちは、六年前の事件をもう一度心に留め、わたしたちになし得る限りの償いの誠意と努力を、決意を新たに、重ねていく所存です。
破産管財人との補償に関する合意については、何よりも被害者の方々に受け入れられるような契約が早期に実現できるよう交渉を進めたいと思います。また、松本サリン事件被害者弁護団が作成された小冊子や、その他の手記など事件に関係する資料や書籍を信者に配布し、事件の真実を正面から見つめ、被害者やご遺族の方々の声に耳を傾け、過去の過ちについて反省を深めていきたいと思っております。信者からは、被害者、ご遺族の方々あてに書簡をお送りし、謝罪の意を伝える努力を重ねていきたいと思います。
最後に、一刻も早く、事件の真相が解明され、被害者・ご遺族の方々の苦しみが取り除かれますよう、信者一同、心よりお祈り申し上げます。
二〇〇〇年五月二十七日
宗教団体・アレフ代表 村岡達子 (註21)
この声明は一部のマスコミに取り上げられ、アレフと改名した旧オウム教団が初めて事件への関与を認めた文章として注目された。しかし一般の新聞では黙殺された。その理由は、声明の中にある「事件は、われわれの知らないところで起こった」という点や、「最後に一刻も早く事件の真相が解明され被害者・ご遺族の方々の苦しみが取り除かれますよう、信者一同、心よりお祈り申し上げます」の下りを広く知られることを恐れたからである。
この声明で注目されることは、松本サリン事件に限っていることで、かつて信者であったものが一部が関与していたとしている点である。この声明の出た月にはスパイ井上嘉浩に対する無期懲役の判決が東京地裁で出され、他の被告が死刑判決であったのに、主役が無期とはとの批判が起きていたときでもあった。教団は松本サリン事件に関して何らかの証拠を掴んだのかもしれない。
麻原教祖に対する裁判
麻原教祖に対する裁判は、初めは一九九五年十月から開始されるとされていたが、宗教法人法による認定取り消しの裁判という事実調査も行われない裁判のため延期された。一九九六年四月二十四日の初公判から丸六年を経て、二〇〇三年四月二十四日、東京地裁において死刑の求刑がなされた。裁判長は二〇〇一年まで勤めた後に宇都宮裁判所の所長に転出した阿部文洋に代わって小川正持であった。
麻原教祖は犯行を一切否定しているばかりか、米軍飛行機の毒ガスによる教団への攻撃さえも明らかにしている。また弁護人も「被告人は真摯で、継続的な修行と経典などの研究との相互検証を行い、自己の霊感によって宗教的確信を確立させ、これを他者に広めていったのであり、その目的はすべての衆生の救済にあった。しかし、弟子たちの一部は教義を誤解し、かつ切迫感に駆られ、救済のためには命を奪うことも許されると思い込んで一連の事件に走っていった」むね主張、十三件の控訴事実について無罪あるいは公訴棄却の主張をしたという(註22)。
弁護人は一部の信者が暴走したという言いふらされた主張をしているが、事実はオウム教団のスパイや変節分子が謀略集団に雇われた暴力団の犯行を手助けした犯行であることを隠蔽したものである。麻原教祖は坂本一家殺害事件を初めとして松本および地下鉄サリン事件を含む十三件の事件すべてに有罪とされたが、死者は二十七人に及んでいる。それに村井秀夫氏と幸い命を取り留めたが国松長官も殺されかかったし、小野悦男氏が殺害したとされる女性を含めると被害者は三十人に達するのである。オウム弾圧のために多数の人々を殺害するとは言語同断の事件ではあった。
安田被告に無罪判決
東京地裁は、〇三年十二月二十五日麻原被告の主任弁護士だった安田好弘被告に無罪判決を言い渡した。判決の中で川口政明裁判長は取り調べ段階で「捜査官による不当な誘導があった。公判の態度もアンフェアだった」と指摘して、検察側の姿勢を非難したという。判決後、川口裁判長は「起訴されて五年。裁判長が交代して長引き迷惑をかけた。今後、法廷で会うときは違う形で会うことを希望する」など異例の言及をしたという(註23)。
安田弁護士の逮捕はオウム裁判の進行に邪魔になると排除されたのであるが、裁判長を交代させて五年もかけ、麻原裁判実質審議が終わり最終弁論も終わった段階で無罪判決が出たことは、裁判所も安田弁護士の排除に一役買ったものであった。また裁判長が「今後、法廷で違った形で会うことを希望する」と上告に否定的な発言をした。それにもかかわらず、上級審で敗訴することを承知の上で検察は控訴した。これもオウム裁判の今後の安田弁護士の関与を牽制する狙いが込められている。確かに安田弁護士は判決後の会見で「今日から弁護士として活動できるのはうれしい」としながらも、麻原被告の公判については「軽々に関与すべきでない」と述べたという。
むすび
オウム真理教に対する国家権力を動員した圧殺計画はすでに宗教法人認可当時に始まったとみられる。一九七〇年代は、アメリカでも多くの宗教団体が弾圧消滅させられた。人民の抵抗は最終的には宗教的信念に支えられることを、自国民ならびに世界侵略に際してしばしばアメリカ支配層は体験していたからである。最近のアフガンやイラクへの侵略がそのことを明白に示している。
宗教団体は信じたいと集まってくる人々を拒否できない。「悪者成仏」の考えが示しているように、例え犯罪者であった人も受け入れる。これを利用して権力は暴力団を送り込むこともできるし、警官や自衛隊のスパイ分子も送り込むことが可能である。警察官小杉敏行や自衛隊員山形明がそうである。初めからスパイとして活動する者もあれば、変質してスパイになる者もいる。岡崎一明や井上嘉浩がそのたぐいである。このほか権力の脅迫懐柔に屈服した信者もいる。林郁夫らがそのたぐいである。村岡達子氏の声明はこのような背景を物語っている。
麻原教祖に対する裁判は長く続くであろうが、国家権力はどのような無罪の証拠を示されようが死刑をもって望むことは疑いない。
アメリカに深く従属してしまった日本は、裁判所を含む国家権力を動員してサリンにかかわるアメリカの犯罪を隠蔽するのに今後も狂奔するであろう。
文献
註1 『東京新聞』 一九九八年三月十三日 10面
註2 新井勉『化学軍縮と日本の産業』一九八九年十月二十日 並木書房 209頁
註3 大山友之『都子聞こえますか』二〇〇〇年六月三十日 新潮社 216頁
註4 『東京新聞』 一九九八年二月十三日 2面
註5 河野義行『疑惑ははれようとも」一九九五年十一月三十日 文芸春秋社 72頁
註6 河野義行『妻よ!』一九九八年六月二十七日 潮出版社 148頁
註7 河野義行『疑惑ははれようとも』 前掲 235頁
註8 河野前掲 217頁
註9 地下鉄サリン事件の検察側冒頭陳述
註10 共同通信社社会部編『裁かれる教祖』一九九七年二月二十四日 共同通信社 208頁
註11 「日本を揺るがしたサリンとオウム」朝日新聞社出版企画室編 一九九五年五月 104頁
註12 渡辺脩・和多田進『麻原裁判の法廷から』一九九八年四月十五日 晩聲社 14頁
註13 渡辺・和多田 前掲 16頁
註14 『秋田さきがけ新聞』一九九六年十一月二十三日 21面
註15 『東京新聞』 一九九六年十一月二十三日 15面
註16 『朝日新聞』 一九九六年四月二十六日 35面
註17 『朝日新聞』 一九九六年五月十一日 1面
註18 『東京新聞』 一九九六年五月九日 社会面
註19 山際永三『安田さんへの弾圧とオウム問題』 支援する会ニュース十二号 二〇〇二年四月十七日
註20 監獄人権センター事務局「安田好弘弁護士に対する逮捕・拘留に抗議し、即時釈放を求める声明」
一九九八年十二月十四日
註21 インターネット 山下の個人ホームページ
註22 『産経新聞』 二〇〇三年四月二十五日 29面
註23 『産経新聞』 二〇〇三年十二月二十五日 30面
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