社会問題研究所

社会の裏側に隠された真実を追求します。

平田信

2012年01月07日 | 国際・政治

「何者が毒ガスを提供したのか」

第十章 公安調査庁幹部の不法捜査

 平成十五年十月二十七日、朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮と略記)から日本政府に対して「不法入国し、亡命を申請した日本女性がいる」との連絡が入った。これを契機に公安調査庁幹部の不法捜査と、汚れた女性関係をめぐる行動が明らかになった。

事件の経過
 この二十九歳の女性は北川和美といい、大阪市内のマンションに中国人の夫と暮らしていた。外務省などによると、和美はこの八月に中国丹東市を観光中に中朝国境を流れる鴨緑江を航行する観光遊覧船から飛び込み、泳いで北朝鮮側に渡ったという。彼女は突然衣服を脱ぎだし、水着姿で川に飛び込み周りの客が唖然と見守るなか朝鮮側に上陸してしまった。どのような情報源であるかは分からないが、テレビの報道によると、上陸直後は朝鮮人男性と結婚したいと言っていたともいう。
 和美の父親は「娘は以前から北朝鮮に興味があったようで、ここ二年で三回は北朝鮮に観光旅行に行っていました。だから今回も前と同じように考えとったんですが、まさか、亡命なんて」と話しているという(註1)。ところが、その翌日、和美は以前オウム真理教の信者だったことが発覚したとある。一体誰が公表したのであろうか。

荒木浩アーレフ広報部長の説明
 オウム真理教は現在アーレフと改称しているが、和美がオウム信者であったという報道を受けて、二十七日「北朝鮮に亡命申請したとされる女性について」という文書をマスコミに配布した。その中で、九五年に入信し、その後入脱会を繰り返しながら最終的には〇一年十月に脱会した女性に同じ名前の在家信徒の女性がいるとしている。そして「女性については、京都公安調査事務所に所属していたA調査官(文書では実名)から教団情報収集などのスパイ行為を強要されていた」「〇一年十月十五日付けで提出されたこの女性の脱会届には、京都公安調査庁のスパイをしていた。京都公安調査庁のAに奴隷的労働をさせられ、セクハラを受けました」と記されており、スパイ行為を強要されたことが脱会理由だったことがうかがえるという(註2)。

公安調査庁の実体
 公安調査庁関係者が初めて和美に接触したのは、九七年だったがスパイとして使用するまでには至らなかったという。その後の二〇〇〇年九月、和美がマンションから出てきたところを近畿公安調査局のBという男に声を掛けられオウムの情報収集するよう依頼された。当時和美は道場にも通っておらず事実上脱会状態だったが、公調はオウムの内情を探る目的で脱会していた彼女を再入会させたのだという。
 法務省は、自らの政策について一般に公開している「政策評価」で、公調の「オウム真理教対策」の中で、「社会復帰を希望する教団信者および元信者が円滑に社会復帰し教団に戻ることのないようにサポートする環境を整備することも極めて重要」と述べている。脱会した人を再び入会させようとは、この公調なるものが「嘘つき」であることは明瞭である。
 道場に再び通い始めた彼女はオウムが一般信徒に配布している文書だけでなくビデオなども公調に流し、その度に数万円の報償費を受け取っていた。公調はさらに朝鮮総連に出入りして、情報収集することも依頼していたと公調関係者は述べていたという。

公調幹部による色仕掛けの爛れた関係
 和美の「運営者」はBから元上司で公調京都事務所の統括調査官を務めていたAに替わったのだが、このAが和美と肉体関係を持つに至った。
Aは京都事務所に所属する四十八歳のベテラン統括調査官で、B調査員を使って大阪府内の調査にも手を伸ばしていた。Aが和美と初めて関係を持ったのは、公調が彼女と再接触を図ってから八カ月後、〇一年八月中旬のことであった。
 その日和美はAから「大切な用事があるから京都まで来てくれ」と呼び出され、市内の飲食店で食事をしたあと、Aが彼女を送って行くと言い出し、京阪電車で大阪に戻った。タクシーで心斎橋に戻りシティホテルのバーで飲み直したあと帰ろうとしたときに、Aが「大切な話がしたい」と言ってラブホテルに連れ込み関係を持った。Aはその後も十数回にわたって彼女と関係を持ち、時には有給休暇まで使って密会を重ね二カ月以上も続いたという。
 
行方不明なはずのスパイ菊地直子との接触
 Aはラブホテルのベットの中で「お前以外にも大阪道場には二ないし三人のエス(スパイ)がおる」と話し、その中で和美が最も驚いた話が「走る爆弾娘」と呼ばれている逃走中の元信者菊地直子に関するものであった。Aは寝物語で「俺は、菊地とも京都の嵐山で接触に成功しているんや。あいつには携帯電話も渡しており、必要に応じて情報を取っている」と話していて、その番号まで教えたという(註3)。 
 地下鉄サリン事件後、一部の元幹部信者は地下に潜行したといわれていた。共産党のような革命政党は非合法地下闘争を行うが、宗教団体は政治権力を取るといった目的も無いので、そのような行動をとる必要がない。事実オウム教団は初めから地下に潜っていると称される信者に出頭するように、さもなければ除籍すると何回も呼びかけてきた。黒い権力集団の目的は、「信者の地下潜伏」を作り上げて、オウム教団に破防法を適用する企みの謀略と推定される。
 事実、破防法の適用に失敗すると、地下に潜っていた信者の一部はぞろぞろと姿を現した。沖縄の石垣島で逮捕された林泰男の如きは、警察の筋書きに沿った発言を繰り返し教団を攻撃し、何のために地下に潜ったのかを疑わせる行動に終始した。
 一方なお地下潜行を続けているという平田信、高橋克也および菊地直子の顔写真は交番をはじめ人目のつくところに張り出され続けている。特に9・11事件以来は六百万円の懸賞金まで掛けられて捜査協力の宣伝まで行われた。
 Aの和美に話した菊地直子の消息は、黒い謀略集団の醜い企みを白日の下に曝すものであった。

公安調査庁組織ぐるみの「くち封じ」
 その後、〇一年七月、Aと和美の間で痴話喧嘩が持ち上がり、和美は大阪府警にAとの関係を暴露した。大阪府警はこの爛れた関係を公調に連絡した。ところが公調はAを処分するどころか組織ぐるみで和美の「口封じ」に動いた。公調は和美を「我々はプロだからどんなことでもできる。殺しはしないが ::: 」と脅したという。これに怯えた和美は別の公安調査関係者Cのところに助けを求めてきたのが彼女と接触するきっかけだったという(註4)。このCがマスコミに公調幹部BならびにAの爛れた関係の情報を提供したのである。
 公安調査庁は和美のくち封じを策動したほか、Aを長年の地盤であった近畿局から東北局に左遷し一件落着と考えていた。ところが〇三年十月二十七日に外務省から、「キタガワ・カズミなる女性が北朝鮮に亡命を申請している」という情報が入り大騒ぎになった。
『週刊文春』の記者がAに話を聞くべく仙台市内の官舎や枚方市内の自宅を訪ねたが、いずれも不在だった。アーレフがAのスパイ工作を暴露した直後から、公調はAを関係施設に匿ったのである。公安調査庁に質したところ「一般論としては、調査官が相手方を脅迫したり組織ぐるみで不祥事を隠蔽したり、口止めをしたりするようなことはない。調査官が相手方と不適切な関係を持つなど、信用失墜が認められた場合には、適正な処分を行うことは当然のこと」とうそぶいていたという。

むすび
 北川和美はアーレフの荒木浩広報部長によると、九五年に入信したとある。この年の三月に地下鉄サリン事件が起き、オウム教団の大弾圧が始まった。教団内に潜入していた自衛官や警察官を含むスパイ共、その一員は菊地直子でもあったが、警察の筋書きに踊らされてそれぞれに教団破壊に狂奔した。公安警察はこれを契機としてスパイ共を使い果たし、空白を埋める新たなスパイを教団に送り込む必要に迫られたに違いない。和美は初めからスパイとして教団に潜入させられたと想像される。何しろ九五年当時は一般の人はオウム教団を恐れるように仕向けられた時代であり、二十一歳の若い女性が自発的に入信するとは考えにくいことである。
 前に述べたように、和美の父親が話すところでは、和美はここ二年で三回北朝鮮に観光旅行に行っていたという。最後には観光旅行で平壌に行こうとしたが、事前チェックで入国が拒否された(註5)。 このため今回の非合法渡航となったのである。和美はそのほかにも朝鮮総連の人間と接触し、主体思想の勉強会にも出入りするようになった。
 公安調査庁はもともと共産党対策として設置されたものであったが、その後は新左翼、右翼暴力団それに新興宗教の内部調査と手を広げているが、今は世界支配を企む闇将軍の手先となっている。現に地下鉄サリン事件直後の国松警察庁長官射殺未遂事件に際しては、現場に北朝鮮人民軍のバッジが落ちていた。オウム教団弾圧と北朝鮮誹謗とが同時並行して行われている。オウム教団のスパイ和美が北朝鮮にスパイとして潜入したことは不思議なことではない。
 殺されたか隠遁させられているかは分からないが、お尋ね者とされている菊地直子らは公安警察の手の内にあることは今回の事件で明るみに曝された。

  文献
 註1 『週刊文春』 〇三年十一月三日号 30頁
 註2  同
 註3 『週刊新潮』 〇三年十一月三日号 50頁
 註4 『週刊文春』 同号 32頁
 註5 『週刊新潮』 同号 51頁


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