ドラッグストアで「鼻セレブ」なるティッシュペーパーを見つけた。
風邪引きの身にはたいへんありがたいことに、「ダブル保湿でしっとりやわらかな鼻ざわり」(能書きより抜粋)なのである。
なんでも「ソルビットと天然グリセリンの2つの保湿成分がうるおいをキープ」するのだそうで、文系の僕には「グリセリンって爆発するやつ?」というリスキーな言葉の響きとともに、「なんかすごそう」な先端技術のイメージとあいまって思わず買って早速お世話になっている。こういう細かい工夫に、本当に細かいところまで配慮が行き届いている和の精神を感じる。まさにイノベーション。
ところで「イノベーション」という言葉には、企業や研究室が行うものだというイメージがつきまとっているが、必ずしも正確ではない、と僕は思う。
「イノベーション」とは「インベンション(発明)」が社会に価値を生み出してこそはじめてそう呼ばれるので、企業や研究室が行うのは「インベンション」、もしくはせいぜい「イノベーションの提案・教育」であって、あくまで実際に「イノベーション」を行うのは消費者であるわれわれだ。
企業や研究室で生まれたアイデアが商品やサービスの形をとり、そのような商品やサービスが利用されることで初めて社会にバリューが生み出されるというプロセスをとっている以上、消費者が「イノベーション」の主体であると言える。
言い換えると、企業が提供する新たな「インベンション」を利用して消費者が自らの生活に新たなバリューを生み出すという「イノベーション」を行っているのである。またそのような消費者群がいるからこそ「イノベーション」の種である「インベンション」を生み出すインセンティブが発生する。
そう考えると、イノベーションが進展するかどうかはまさに消費者(群)のスケールとレベルに大きく依存するという考え方にたどりつくこととなる。
「日本のモノづくり」を支えて育ててきたのは、作り手側の努力だけではなく、目が肥えてカネ払いのいい世界一のイノベーション・パトロンかつイノベーター集団である日本の消費者にある。
一方、どんな「インベンション(発明)」であっても消費者に受け入れられなければバリューを生み出さないし、バリューを生み出すようなものでなければ消費者には受け入れられない。
これを改めて感じたのは、昨夜、1年半ぶりにあの名物番組「世界ふしぎ発見」を観たとき。
「世界ふしぎ発見」は、黒柳徹子の「世界をまたにかけた不老長寿なので答えを事前に見たことがある」風なスゴさと、坂東英二の「マンネリだが人徳がある姑息さ」と、野々村誠の「全問正解しなさそうだけどする瞬間を全国民が待ちわびている」感が、互いの掛け合いによって絶妙にブレンドされていて光り続けた番組だし、それが長寿番組の原動力だったはずだ。
しかし昨日見て失望したのは、番組の大幅なリニューアルによってそういった「強み」が全く殺されており、「視聴者参加型番組」なる「インベンション」によって骨抜きにされた同番組の姿だった。番組に参加できることと引き換えに番組が本来持っていた魅力を失うことを視聴者は望んでいるのだろうか。
具体的には、視聴者を携帯電話を通してクイズに参加させるために複雑でぎこちない番組運びになったうえ、ゲスト解答者を3人、司会を2人に増員したため、上記3人がしゃべる時間が減っている。問題は著しく簡単になったうえ、3問と減少(もうクイズ番組じゃない)。首振りが魅力の「(スーパー)仁君人形」も姿を消し、中途半端にハイテクで生命を抜かれた「仁君人形にインスパイアされた」装置に取って代わられた。
中でも極めつけなのは、風のうわさで聞いたところ野々村誠がついにパーフェクトを達成して記念パーティを開いたという点である。あまりにひどすぎる。
この「視聴者参加型への転換」を発端とした「インベンション(発明)」は以前存在したバリューを消し去り破壊したというネガティブな意味で「カウンター・イノベーション」とでも言うべきだろうか。
とにかく僕は残念だ。もういちどスーパー仁君が次々とボッシュートされる雄姿を毎週土曜日の茶の間で見てみたいぞ。
風邪引きの身にはたいへんありがたいことに、「ダブル保湿でしっとりやわらかな鼻ざわり」(能書きより抜粋)なのである。
なんでも「ソルビットと天然グリセリンの2つの保湿成分がうるおいをキープ」するのだそうで、文系の僕には「グリセリンって爆発するやつ?」というリスキーな言葉の響きとともに、「なんかすごそう」な先端技術のイメージとあいまって思わず買って早速お世話になっている。こういう細かい工夫に、本当に細かいところまで配慮が行き届いている和の精神を感じる。まさにイノベーション。
ところで「イノベーション」という言葉には、企業や研究室が行うものだというイメージがつきまとっているが、必ずしも正確ではない、と僕は思う。
「イノベーション」とは「インベンション(発明)」が社会に価値を生み出してこそはじめてそう呼ばれるので、企業や研究室が行うのは「インベンション」、もしくはせいぜい「イノベーションの提案・教育」であって、あくまで実際に「イノベーション」を行うのは消費者であるわれわれだ。
企業や研究室で生まれたアイデアが商品やサービスの形をとり、そのような商品やサービスが利用されることで初めて社会にバリューが生み出されるというプロセスをとっている以上、消費者が「イノベーション」の主体であると言える。
言い換えると、企業が提供する新たな「インベンション」を利用して消費者が自らの生活に新たなバリューを生み出すという「イノベーション」を行っているのである。またそのような消費者群がいるからこそ「イノベーション」の種である「インベンション」を生み出すインセンティブが発生する。
そう考えると、イノベーションが進展するかどうかはまさに消費者(群)のスケールとレベルに大きく依存するという考え方にたどりつくこととなる。
「日本のモノづくり」を支えて育ててきたのは、作り手側の努力だけではなく、目が肥えてカネ払いのいい世界一のイノベーション・パトロンかつイノベーター集団である日本の消費者にある。
一方、どんな「インベンション(発明)」であっても消費者に受け入れられなければバリューを生み出さないし、バリューを生み出すようなものでなければ消費者には受け入れられない。
これを改めて感じたのは、昨夜、1年半ぶりにあの名物番組「世界ふしぎ発見」を観たとき。
「世界ふしぎ発見」は、黒柳徹子の「世界をまたにかけた不老長寿なので答えを事前に見たことがある」風なスゴさと、坂東英二の「マンネリだが人徳がある姑息さ」と、野々村誠の「全問正解しなさそうだけどする瞬間を全国民が待ちわびている」感が、互いの掛け合いによって絶妙にブレンドされていて光り続けた番組だし、それが長寿番組の原動力だったはずだ。
しかし昨日見て失望したのは、番組の大幅なリニューアルによってそういった「強み」が全く殺されており、「視聴者参加型番組」なる「インベンション」によって骨抜きにされた同番組の姿だった。番組に参加できることと引き換えに番組が本来持っていた魅力を失うことを視聴者は望んでいるのだろうか。
具体的には、視聴者を携帯電話を通してクイズに参加させるために複雑でぎこちない番組運びになったうえ、ゲスト解答者を3人、司会を2人に増員したため、上記3人がしゃべる時間が減っている。問題は著しく簡単になったうえ、3問と減少(もうクイズ番組じゃない)。首振りが魅力の「(スーパー)仁君人形」も姿を消し、中途半端にハイテクで生命を抜かれた「仁君人形にインスパイアされた」装置に取って代わられた。
中でも極めつけなのは、風のうわさで聞いたところ野々村誠がついにパーフェクトを達成して記念パーティを開いたという点である。あまりにひどすぎる。
この「視聴者参加型への転換」を発端とした「インベンション(発明)」は以前存在したバリューを消し去り破壊したというネガティブな意味で「カウンター・イノベーション」とでも言うべきだろうか。
とにかく僕は残念だ。もういちどスーパー仁君が次々とボッシュートされる雄姿を毎週土曜日の茶の間で見てみたいぞ。