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おフランス留学記~パリやのに

おフランスはパリ近郊のHECなるビジネススクールに留学し、MBAをこころざす筆者の日記。

スーパー仁君と鼻セレブ

2006年02月19日 14時50分04秒 | エピローグ(帰国後)
ドラッグストアで「鼻セレブ」なるティッシュペーパーを見つけた。
風邪引きの身にはたいへんありがたいことに、「ダブル保湿でしっとりやわらかな鼻ざわり」(能書きより抜粋)なのである。
なんでも「ソルビットと天然グリセリンの2つの保湿成分がうるおいをキープ」するのだそうで、文系の僕には「グリセリンって爆発するやつ?」というリスキーな言葉の響きとともに、「なんかすごそう」な先端技術のイメージとあいまって思わず買って早速お世話になっている。こういう細かい工夫に、本当に細かいところまで配慮が行き届いている和の精神を感じる。まさにイノベーション。

ところで「イノベーション」という言葉には、企業や研究室が行うものだというイメージがつきまとっているが、必ずしも正確ではない、と僕は思う。
「イノベーション」とは「インベンション(発明)」が社会に価値を生み出してこそはじめてそう呼ばれるので、企業や研究室が行うのは「インベンション」、もしくはせいぜい「イノベーションの提案・教育」であって、あくまで実際に「イノベーション」を行うのは消費者であるわれわれだ。
企業や研究室で生まれたアイデアが商品やサービスの形をとり、そのような商品やサービスが利用されることで初めて社会にバリューが生み出されるというプロセスをとっている以上、消費者が「イノベーション」の主体であると言える。
言い換えると、企業が提供する新たな「インベンション」を利用して消費者が自らの生活に新たなバリューを生み出すという「イノベーション」を行っているのである。またそのような消費者群がいるからこそ「イノベーション」の種である「インベンション」を生み出すインセンティブが発生する。

そう考えると、イノベーションが進展するかどうかはまさに消費者(群)のスケールとレベルに大きく依存するという考え方にたどりつくこととなる。
「日本のモノづくり」を支えて育ててきたのは、作り手側の努力だけではなく、目が肥えてカネ払いのいい世界一のイノベーション・パトロンかつイノベーター集団である日本の消費者にある。

一方、どんな「インベンション(発明)」であっても消費者に受け入れられなければバリューを生み出さないし、バリューを生み出すようなものでなければ消費者には受け入れられない。
これを改めて感じたのは、昨夜、1年半ぶりにあの名物番組「世界ふしぎ発見」を観たとき。

「世界ふしぎ発見」は、黒柳徹子の「世界をまたにかけた不老長寿なので答えを事前に見たことがある」風なスゴさと、坂東英二の「マンネリだが人徳がある姑息さ」と、野々村誠の「全問正解しなさそうだけどする瞬間を全国民が待ちわびている」感が、互いの掛け合いによって絶妙にブレンドされていて光り続けた番組だし、それが長寿番組の原動力だったはずだ。

しかし昨日見て失望したのは、番組の大幅なリニューアルによってそういった「強み」が全く殺されており、「視聴者参加型番組」なる「インベンション」によって骨抜きにされた同番組の姿だった。番組に参加できることと引き換えに番組が本来持っていた魅力を失うことを視聴者は望んでいるのだろうか。
具体的には、視聴者を携帯電話を通してクイズに参加させるために複雑でぎこちない番組運びになったうえ、ゲスト解答者を3人、司会を2人に増員したため、上記3人がしゃべる時間が減っている。問題は著しく簡単になったうえ、3問と減少(もうクイズ番組じゃない)。首振りが魅力の「(スーパー)仁君人形」も姿を消し、中途半端にハイテクで生命を抜かれた「仁君人形にインスパイアされた」装置に取って代わられた。
中でも極めつけなのは、風のうわさで聞いたところ野々村誠がついにパーフェクトを達成して記念パーティを開いたという点である。あまりにひどすぎる。

この「視聴者参加型への転換」を発端とした「インベンション(発明)」は以前存在したバリューを消し去り破壊したというネガティブな意味で「カウンター・イノベーション」とでも言うべきだろうか。

とにかく僕は残念だ。もういちどスーパー仁君が次々とボッシュートされる雄姿を毎週土曜日の茶の間で見てみたいぞ。

日本の風邪

2006年02月18日 09時26分14秒 | エピローグ(帰国後)
昨日から急に9度5分もの高熱が出て自宅療養している。僕は高熱でもあまり倒れこんだりしない体質なので家で日常生活を送る分には支障はないけれど、引越しや賃貸マンションの手続きが遅れそうなのが気にかかる。

風邪をひいたのは暖かくなったり寒くなったりしたからっていうのと、日本の最近の風邪菌に免疫がなかったからかもしれない。

みなさんも気をつけてください。

Manipulation

2006年02月17日 09時52分09秒 | エピローグ(帰国後)
なかなかメダルが取れないトリノオリンピック。
素晴らしい素質を持った期待の日本選手たちも、一瞬のミスが命取りとなって次から次へとオリンピックの波に飲み込まれていく。

スポーツであればミスも出るので、選手たちを責めるわけにもいかないが(精神力や心構えが足りないという指摘はあるものの)、僕はやっぱしマスコミの報道姿勢が気に入らない。

「メダルの期待がかかる○○選手」
勝手に期待してるんじゃ・・・

「○○選手はターンでは世界一のレベル」
誰が言ったのか。ターンはその種目でどのくらいの重要性を占めるのか。総合的にはどうなのか。

「△△選手権ではチャンピオン」
その大会って世界トップレベルの選手が出場してないのでは・・・

「国内では無敵の」
何の意味がある発言なのか。

とにかく事前の期待を不当に膨らませることで視聴率を上げたいという魂胆が丸見えで、世界トップレベルとの差が歴然としたあとは本当にがっかりさせられる。それでも見ちゃうんだけど。
(日本選手が負けた後で、「金メダルのロシアの○○選手はやっぱりスゴイですね~、世界の壁を感じます。世界最高レベルの技をもう一度見てみましょう」と番組をあらぬ方向へ持っていくというのもいかがなものか)

やってることはホリエモン・ライブドアと同じ。

選手たちはこんなバカ騒ぎに惑わされず、アスリートらしく黙々とバンクーバー目指してがんばってください(トリノもね)。

ライオン(2)

2006年02月13日 13時55分48秒 | エピローグ(帰国後)
朝方アパートを出ると裏の美容院のところにいる番獅子がオリの中にいるのを発見。

囲われているのでライオンも襲ってこないだろうと思い、こないだよりも大胆に接近撮影に挑戦。

カシャッ

すると

ガシャッ

っと大きな音をたててドアが開いて中からほうきをもった美容院の方が出てきたのであわてて逃げました。
もう朝の散歩は止めにしようかと思います。

小隊長どの

2006年02月11日 16時36分34秒 | エピローグ(帰国後)
今日は建国記念日ということで(っていうか偶然)、日本のさらなる繁栄を祈願するために(というのと春うららの散歩がてら)靖国神社に参拝してきた。
私人としてか公人としてかと聞かれたら、まあギリギリ公人。

ずいぶん人が多くて、「愛国者のみなさん」の車が多いなあと思ったら、建国記念日だということに気がついた。ガイジン(いわゆる西洋人)も結構多かった。「鬼畜米英」なんてかつて呼ばれてたことを知ってるのだろうか。それともかつての戦いの相手に敬意を表しての訪問なのだろうか。

お参りをすませると、背後から進軍ラッパのメロディとともに20人くらいの旧日本軍の軍人さんたちが登場。たぶん実在の人間。
ガイジンは大喜びでビデオを回し、僕を含めた日本人参拝客はいっせいに携帯のカメラで撮影会に早変わり(写真)。
衣装って当時から保存していたものなのだろうか。

「小隊長どの!」という村上ショージの声が聞こえてきそうです。

ライオン

2006年02月10日 14時25分54秒 | エピローグ(帰国後)
うちのアパートの裏に美容室があるのだが、ライオンがいる。

番犬(番獅子)なのか、ずっと一日中美容室の前に座ってこちらをにらんでいる。

恐ろしいので遠巻きにして携帯電話のカメラで決死の撮影を試みた。

「カシャッ」

音大きすぎなんだよな。ライオンに追いかけられたらどうすんねん。こんなんじゃ携帯にカメラついてても気軽に撮影なんて出来ない。

帰ってきた気がしない

2006年02月09日 18時48分29秒 | エピローグ(帰国後)
東京に帰ってきて一週間がたち、ほとんど日本の生活にも慣れてきた。いままで生きてきた30年間のうち28年間が日本なのだから当然といえば当然だ。

慣れていないのは、エスカレーターでつい右側に立ってしまうことと、人にぶつかったりしたときに「Pardon(パルドン)」と言ってしまうことくらい。

でもまだ、「フランスに行く前に僕が暮らしていた東京」に帰って来た気がしない。
それだけ東京の街も僕自身も変わったからなのかもしれないけれど。
いつも行ってた店に行っても、いつも歩いてた道を歩いても、「はたしてこんなところだったかな?」としっくりこない。

今日、休職中の会社を1年半ぶりに訪問してみたら、オフィスも構成メンバーもほとんど変わっていてすっかり別の会社みたいに立派になっていた。
フランスに行く前は7人くらいでこじんまりやってたチームも、1年半のうちに35人くらいに拡大。

本当にもとの場所に帰ってきたのかな?パラレルワールドとかじゃなくて。
フランスにいたことも、日本に今いることも、どっちも夢の中のできごとのように現実感がない。