毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

征するのではなく越えてゆく

2021年07月12日 11時04分31秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見

1月も下旬になってやっと初ブログをアップし、さあこれからというところで 意識が内に転じ、そのまま半年経ってしまいました。

続きを待っていてくださった方がおられたら、ほんとうに申し訳ありません。

この内観期はいつになく厳しいものとなりましたが、それだけの値打ちはあったと思います。




いま思うと 今回の内観で求められたのは、長年溜め込んだ怒りの残りと徹底的に向き合い、ことごとく手放すことだったようです。

もうたいがい手放したかと思っていたのに こちらの怒りのツボを刺激する出来事が次から次へと起こり、そのたびにひどく消耗させられましたが、おかげで望む世界を実現するのに なぜ怒りを手放す必要があるのかがよくわかった氣がします。

怒りを覚える対象は 本来なくなってほしいもののはずですが、怒っている間中その対象に意識が貼りつき、エネルギーを注ぎ続けることになります。

「抵抗すれば、相手はますます強くなる」 で 消えてほしいものほどかえって強大になり、こちらは望む世界の想像 ・ 創造につぎ込む時間やエネルギーが残りません。

それどころか、ヘタをすればこちらが負けて ねじ伏せられてしまいます。

もし勝てたとしても、二極間の振り子はそこで止まってはくれません。

禍福はあざなえる縄の如し、勝ちの次に負けがくるのは二極世界に必定の運命、いずれまた訪れる戦いに備え いつまで経っても氣を抜くことができません。

否定したい相手に意識を集中したまま、真の平和や豊かさを実現することはできない。。。このことをとことん刻み付けられた先に、「ではどうすれば?」 の答がありました。




私たちの世界は 二項対立の原理で成り立っており、何を選んでも その真逆の要素がついてまわります。

望む世界を実現したい私たちは、その真逆のものについつい怒りや反感を覚えてしまいますが、その感情を相手に叩きつけ 相手を変えることで望みを叶えようとすると、上のようなジレンマに追い込まれます。

貴秋も 意識の中にこの昔ながらの怒りが残っているうちは ここから抜けようもないと身に沁みたので、とにかくフォーカスフォーカスで火の手を消し続けたわけですが、そのうち次第に 「そもそも両者の間でどのようなことが起きているのか」 というからくりが見えてき出したのです。

自身にフォーカスするということは、例えれば 壁にかかった絵に鼻をくっつけるようにして立っていたのが、少しずつ後ずさっていくようなもの。

最初はなにも見えなかったのが、色が分かり形が分かり、やがて描かれている全体像が捉えられるようになって、さらには額縁の外にもまた絵とは別の世界があるのが見えてきます。

自分と相手の間でどれほど不毛なエネルギーの奪い合いが生じていたのかが 十分理解できたうえで、その世界がすべてではない、選択肢は他にもたくさんあると氣づかされるのです。




ものごころつく前に潜在意識に刷り込まれてしまった身近な大人の世界観を、私たちは自身のものとして受け入れ、どうしてそうなるのかわからないまま 望まない要素を自分の世界に持ち込んできました。

それも 「本来の自分でないものも含め あらゆる体験をしたい」 という魂の望みの内ですから ちゃんと意味があったわけですが、そんな体験は一度で十分なはず。

負の体験はもうおしまいにして もっといいものを選びなおそうという氣持ちが湧いたなら、まずは自身の負の感情を受け止め味わうことで 潜在意識の “バグ” を消去することです。

電卓だって、前の計算をいったんゼロに戻して初めて 次の計算にとりかかれるのですから。

ゼロにするとは、対立する二極の果てしない戦いを抜けて、望むものに焦点を合わせられる意識を取り戻すこと。

戦いを征するのではなく、戦いを越えてゆくのです。




いまこの瞬間も、世界中で大小さまざまな反対運動や抵抗運動が展開されています。

そうせずにいられない弱者側の怒りも痛みもよくわかる、わかるのですが、ならばなおのこと、どうか怒りを手放し 望む世界のほうに意識を向けてくれますようにと願わずにはいられません。

もちろん戦いを体験したくてやってきた魂も、今生では引きの視点には立たないと決めている魂もあるのですから、個人々々の選択はまったくの自由ですが、このブログをお読みくださる方々は よりよい世界の実現を目指しておられる方がほとんどでしょうから、貴秋のささやかな体験が ヒントのひとかけらにでもなれば幸いという氣持ちで 再び少しずつでも書き続けていければと思います。