毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

いっときの刺激ではなく 心満たされることを 

2021年07月21日 14時36分19秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見
きのうも書いたスポーツについてですが、選手があそこまで大変な努力を強いられるのは、ひとつには 観客がそれだけ華麗でダイナミックなパフォーマンスを求めるからだという話があります。

スポーツ観戦は 選手の努力の結果だけを一時的に自分に引き寄せて楽しむもので、プロセスのすべてを味わってきた本人のような深い手応えや満足は得られませんが、興奮の渦に巻き込まれているあいだは 他のすべてを忘れて熱中できますものね。

そんな熱狂的なスポーツファンを見ていると、理由のひとつとして、自身の人生が満たされなかったり不安不満が多かったりするのを忘れるためにのめり込むという面があるんじゃないかという氣がします。

これはスポーツ観戦に限ったことではなく、あらゆる娯楽施設や物欲を満たす場に その要素を見てとることができます。

大がかりなショッピングモールや 広大な面積を誇る遊園地、趣向を凝らしたカラオケボックスや流行の食べ物飲み物を取り揃えたおしゃれな店舗など、華やかな刺激に満ちた場所のなんて多いことか。

そして、それらを取り上げられた私たちのストレスがどれほど大きいかを思い知らせてくれているのが、今回のコロナ騒動ですね。




二項対立の世界での身の処し方しか教えられてこなかった私たちは、「いい」 と思うものを選び取り 「悪い」 と思うものを払いのける慣わしが 身についています。

そうやって否定的要素を忌み嫌う意識が かえってそれを引き寄せてしまうのですが、そんなからくりが働いているとは知りませんから、つきまとうネガ要素からなるべく意識を遠ざけようと懸命になります。

そこに登場するのが、日ごろの憂さを晴らすべく思いっきり楽しみましょうと誘いをかけてくる、さまざまな娯楽産業。

人の意識には 「慣れ」 というものがあり、ある程度経つと いまと同程度の楽しみでは飽き足らなくなりますから、提供する刺激もどんどんエスカレートします。

もっとおいしくて珍しい食べ物を、もっとスリリングでワクワクできる絶叫マシーンを、もっとユニークで見栄えのする服や装身具を、もっと感動的で時を忘れさせてくれるドラマや映画を。。。。

で、いったいどこまでいけば、私たちは満足して幸せになれるのでしょう?




私たちの本質は、見て聞いて触れて確かめることのできる容姿や性格や行動や言葉ではなく、五感で触れることのできない意識の領域にあります。

私たちがほんとうに求めているのは お氣に入りの物でも娯楽でもなく、それに触れたときに湧き起こる喜びや充足のほうなんですね。

物や娯楽はそれを引き出すきっかけに過ぎず、またそういうきっかけがなければ 満ち足りた氣持ちを味わうことができないわけでもありません。

私たちは本来、愛、自由、豊かさ、安らぎといった無限のエネルギーそのものであり、ほんとうの自分を見えなくするバグの雲に覆われてさえいなければ、外から教えられなくとも そんな自分の素晴らしさを内から感じて、喜びに浸りながら毎日を過ごせるのです。

形ある自分が真の自分だと思い込んでいると、どうしても形のほうを追いかけてしまいますが、現代の娯楽産業は 富の偏在を拡大する一方の現行の経済システムの上に成り立っており、私たちには一時の刺激や興奮しか与えてくれませんから、満足させてくれるものを外に求め続けてキリがなくなり、その結果が欲求不満から無氣力だったり攻撃的だったりする民衆であり、資源の枯渇であり、 ゴミの山なわけです。

お金のシステムに搾取される側の人間は、不満や不安を紛らわすために 自分たちのエネルギーや時間を切り売りして得たお金をせっせと娯楽産業につぎ込んで、結果的に自分たちから奪い取ってばかりのシステムを それと氣づかず支え続けているんですね。




私たちがバグを手放しほんとうの自分に目覚めたら、内から感じるものはどのように変わり、世界は 暮らしはどんなふうに変わるのでしょう。

これはもうやってみなければわからないことですが、新世界の一端をちらっと垣間見た貴秋としては、簡単ではないかもしれないけれど トライする値打ちは十二分にあると申し上げたいです。

遊び興じる機会を奪われ ストレスが溜まっているいまこそ、そのネガ感情を手がかりに 過去のわだかまりを解き放つ絶好の機会。

そして 体験の世界に生きる私たちにとっては、手にする成果はもちろんのこと、変化のプロセスすべてが 目減りすることも奪われることもない一生ものの財産であることに、きっと氣づかれることでしょう。