※ タイトル注 : 蟻のことではありません(笑)
私、この「あり」って言葉、よく使うんですが。
「何でもあり」の「あり」。
ひらがなたった二文字の中に 豊かなニュアンスを含む、とても使い勝手のいい言葉なのです。
何かについて「あり」とするのは、その見方・解釈を選ぶ、ということ。
たくさんの可能性の中から、自分の観念・信念にいちばんぴったりくるそれを 意識して選ぶと。
同時に自分が選ばなかった それ以外の解釈がたくさんあることもわかっているし、それらすべての存在、さらに 自分と違う意見を選ぶ人の存在をも受け入れますよ、ということ。
さらに、この「あり」は あくまでも現時点での「あり」であって、自分の選択がこの先変化することも もちろんOKしますよ、ということ。
弾力的・流動的な意味合いを含んだ 奥行きの深い言葉なんですね。
小さいころの私は、他人と一緒にいるときは、自分が何を感じ 何を考えているか じっくり耳を澄ますなんていう余裕はまったくといっていいほど持てなくて、まわりにどう見られているかだけが氣がかりでした。
何かを自分の意見として選ぶときは、それが自分の心にほんとうにしっくりくるかどうかよりも、まわりの賛同をどれだけたくさん得られるかの方が重要だった。
だから、いったん握り締めた意見は強くこだわって譲らず、違う意見を聞くゆとりがまるでありませんでした。
自分と違う意見を持つ相手が「敵」としか見えなくて、学級会などの話し合いの場は、私にとってはいつも“戦場” (^_^;)
勝つことがすべてで、その意見が通ることが ほんとうにその場のみんなにとって一番いいことなのか 冷静に振り返るなんていう発想は、まったくといっていいほど持ち合わせていなかった。
成長して視野が広まるに従って、そこまで狭い意識で話し合いに臨むことはなくなりましたが、それでも自分の意見や提案が受け入れられないとき 心のどこかにしこりが残るクセは なかなか抜けませんでした。
自分の選択と違う世界があることを どうしても認められなかったんですね。
そして、今。
長い時間をかけて、自分のあり方や意識を少しずつ変えてゆく中で、それまで怖れからカチカチに固まっていた心が じわじわとほぐれてゆくようでした。
小さく分けられた「自分」よりも はるかに大きな「自分」があって、世界は思っていたよりもずぅっと広くて定まらないもので、正誤、白黒と 計ったようにきっちり線引きできるようなものではないんだとわかってきました。
そうわかるにつれて、どんどん楽に息をついて生きられるようになっていきました(^^)
「あり」が自分の表現としてなじむにつれて、自分のことが好きになり、生きていることが楽しく感じられるようになってきました
「あり」という言葉を使うとき、よく小さいころの自分を思い出します。
息詰まるような緊張の中、自分の視点以外の世界を想像することもできなかった、ちっちゃな私。
自分の世界を必死に守ろうとしていた、ちっちゃな世界のちっちゃな私。
そして、よくがんばったねぇ、よくここまで来られたね、としみじみつぶやく 大人になった自分に続いて、ふむふむ、そうやって外れてまた戻るように仕組んでおいたのね、とニンマリ現れる より広い視野を持つ自分
ほんと、世界がぐぅーっと広がって、肩の力が抜けました
「あり」という言葉。。。長い紆余曲折・試行錯誤の末に獲得した、眼差しの変化と自由の象徴。
これからも愛用させてもらうことと思います
私、この「あり」って言葉、よく使うんですが。
「何でもあり」の「あり」。
ひらがなたった二文字の中に 豊かなニュアンスを含む、とても使い勝手のいい言葉なのです。
何かについて「あり」とするのは、その見方・解釈を選ぶ、ということ。
たくさんの可能性の中から、自分の観念・信念にいちばんぴったりくるそれを 意識して選ぶと。
同時に自分が選ばなかった それ以外の解釈がたくさんあることもわかっているし、それらすべての存在、さらに 自分と違う意見を選ぶ人の存在をも受け入れますよ、ということ。
さらに、この「あり」は あくまでも現時点での「あり」であって、自分の選択がこの先変化することも もちろんOKしますよ、ということ。
弾力的・流動的な意味合いを含んだ 奥行きの深い言葉なんですね。
小さいころの私は、他人と一緒にいるときは、自分が何を感じ 何を考えているか じっくり耳を澄ますなんていう余裕はまったくといっていいほど持てなくて、まわりにどう見られているかだけが氣がかりでした。
何かを自分の意見として選ぶときは、それが自分の心にほんとうにしっくりくるかどうかよりも、まわりの賛同をどれだけたくさん得られるかの方が重要だった。
だから、いったん握り締めた意見は強くこだわって譲らず、違う意見を聞くゆとりがまるでありませんでした。
自分と違う意見を持つ相手が「敵」としか見えなくて、学級会などの話し合いの場は、私にとってはいつも“戦場” (^_^;)
勝つことがすべてで、その意見が通ることが ほんとうにその場のみんなにとって一番いいことなのか 冷静に振り返るなんていう発想は、まったくといっていいほど持ち合わせていなかった。
成長して視野が広まるに従って、そこまで狭い意識で話し合いに臨むことはなくなりましたが、それでも自分の意見や提案が受け入れられないとき 心のどこかにしこりが残るクセは なかなか抜けませんでした。
自分の選択と違う世界があることを どうしても認められなかったんですね。
そして、今。
長い時間をかけて、自分のあり方や意識を少しずつ変えてゆく中で、それまで怖れからカチカチに固まっていた心が じわじわとほぐれてゆくようでした。
小さく分けられた「自分」よりも はるかに大きな「自分」があって、世界は思っていたよりもずぅっと広くて定まらないもので、正誤、白黒と 計ったようにきっちり線引きできるようなものではないんだとわかってきました。
そうわかるにつれて、どんどん楽に息をついて生きられるようになっていきました(^^)
「あり」が自分の表現としてなじむにつれて、自分のことが好きになり、生きていることが楽しく感じられるようになってきました
「あり」という言葉を使うとき、よく小さいころの自分を思い出します。
息詰まるような緊張の中、自分の視点以外の世界を想像することもできなかった、ちっちゃな私。
自分の世界を必死に守ろうとしていた、ちっちゃな世界のちっちゃな私。
そして、よくがんばったねぇ、よくここまで来られたね、としみじみつぶやく 大人になった自分に続いて、ふむふむ、そうやって外れてまた戻るように仕組んでおいたのね、とニンマリ現れる より広い視野を持つ自分
ほんと、世界がぐぅーっと広がって、肩の力が抜けました
「あり」という言葉。。。長い紆余曲折・試行錯誤の末に獲得した、眼差しの変化と自由の象徴。
これからも愛用させてもらうことと思います