毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

目覚めつつあり

2014年07月31日 11時04分14秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


きょうも朝から薄曇り。

早朝など、涼しいのを通り越して いささか肌寒く、熱い紅茶がしみじみ美味しかったほど。

おかげで 本日もゆっくりパソコンに向かえるなぁ (*^^*)





エノラ・ゲイの最後の乗組員、セオドア・バンカークさんがお亡くなりになったようです。

CNNの記事はこちら

息子さんによれば、広島原爆投下について 「後悔の念はなかった」 とのこと。

それもありね.

心からそう思っていたにせよ、そう思い込ませていたにせよ、その人の思うこと・信じることが その人の真実。

ただ、余計なことながら ふと思う。。。。人に言うのとまったく同じことを、自分自身にも矛盾なく言えていただろうか? って。

またひとつの旅を終えて 彼岸に戻り、来し方を振り返って 何を思っておられるんだろう。。。

もしインタビューできるものなら そっちのほうを聞いてみたいなぁ.





以前の白黒きっちり判断つけずにおれなかった自分だったら、↑みたいな思いは まず湧いてこなかったと思います。

原爆投下は悪、それを正当化するアメリカ人はひどい人たち、しばらく前の私なら、躊躇なく言い切ったことでしょう。

でも今は。。。。





同意する・しないっていうのは もちろんあります。

自分はどうするか? なにを選択するか? っていうことなら、即決にせよ、迷った挙句のことにせよ、決められる。

でも、人について決めつけることは・・・・・・・・いや、できる部分もあるな。

昔ながらの思考回路は、今もちゃ~んと残っているもの。

ただ、そこにアクセスすると、なんだか居心地悪いんだなぁ。。。。





ニール・ドナルド・ウォルシュ著 「神との対話」 で、一番驚いたのは、


        「ヒトラーは天国へ行ったのだよ」


との 神のひと言。

当時は・・・って もうかれこれ10数年前のことだけれど、うっそ~、なにそれ!? Σ(゜Д゜;) って思いましたよ。

世間のあらかたがそうだろうように、ヒトラー = 悪、と考えることに いささかのためらいもなかった。

でも今は、「ヒトラー」 「悪」 のいずれも 私の中で存在が曖昧になっているので、賛成反対以前に、ヒトラー = 悪 の図式自体が成立しなくなっちゃってるんですね。






神ご自身の言葉については、ぜひ本をお読みいただきたいと思いますが、このひと言に出会って10数年後のいま、自分が思うのは、


             「(悪の象徴としての)ヒトラー」 も「悪」 も、自分の中に 後付けで取り込んだ 幻だった


っていうこと。

以前は、どちらも 自分の外に ありありと存在することに なんの疑問もなかったし、忌み嫌い憎んで当然と決めつけていました。

でもね・・・・

なぜ憎むの? って言われると、答えられないんだなぁ、これが





自分の外にあるものなら、本来どうとでもなるはず。

別にわざわざ憎まなくても、感情を交えず 他人事として眺めるだけでもいいし、心地よくないなら スルーすれば済むこと。

なのに、その単語を見聞きするたび、執拗に意識を貼り付け ワルモノ扱いせずにいられなかったのは、それが自分の中にあって、不快なのに手放せずにいたからなんだよね☆





赤ん坊の頃は、命を守るために 快・不快の区別はついたと思うけれど、それ以外の 善悪とか 正誤とか、そういう対立概念は、言葉がわかるようになってから 後付けで刷り込まれたもの。

そして その基準は、自分ではなく 外の世界にあったんですね。

世間的に受け入れられるものが善で正、受け入れられないものが悪で誤。

正しい人間なら 善や正を受け入れるべきで、それができなければ、つまはじきにされようと 制裁を受けようと 文句は言えない。

でもじゃあ、「世間」 ってなに?

答えられないよね、決まった形があるものじゃないんだもの。

その都度姿形を変えるものさしを、「これが世間」 と思い込んで 握り締めていた自分がいただけ。

そのものさしを振りかざして 「悪」 だの その象徴ともいえる 「ヒトラー」 だのを分け出し、外の世界に投影していたのも、他ならぬ自分。

これが腑に落ちたところから、そのジャッジも基準も 投影されたものも、私の中で 力を持たなくなったんだと思います (^^)





どうやってここまでたどりついたのかはわかりません。

最初は 本などを手がかりに 考えたり検証したり こつこつと、そして最近は、理屈抜きでからだが訴えるものを見つめるところから、意識せぬうちに少しずつ 揺らいでは剥がれ落ちていったものがあったのでしょう。

氣がついたら いつのまにか、「悪」 だの 「ヒトラー」 だの そういう言葉に力めなくなっている私がいた、と。





あれは幻だったんだ! という確たる認識があるわけではないのです。

夢から醒めるときって、リアルだったはずの夢が どんどん色あせて薄くなって、いつのまにか起床時の意識にとって代わられているっていうふうでしょう?

あんな感じ。

認識はないけれど、ジャッジしたり憎んだりできなくなっている自分に氣づいて、ああどうやら変わったらしいな、ってわかってきたんですね。





力めなくなった自分って、心安らかで 消耗しなくて ラクです

内に抱え込んでいた矛盾が、すっかりとは言えないまでも かなりのところ なくなったから、自分や人を責めることが 格段に減ったものね。

外の世界では、互いに責め合う揉め事も まだいくらも目につくけれど、このままさらに 自分の中の影を拭い続けていくうちに、そんな世界での自分の役割も見えてくるだろうし、時間はかかっても いずれはみな目覚めて 落ち着きどころを見いだすものと信じます。





きょうのブログのきっかけになってくれた セオドア・バンカークさんの魂が 安らかでありますように。

そして、もうすぐまた巡ってくる 8月6日・9日の原爆犠牲者の方々の魂に、彼らが身を挺して与えてくれた課題に、感謝の手を合わせつつ。























コメントを投稿