もうだいぶ前のことになりますが、「ドミノ倒し」 の番組を見たことがあります。
かなりの日数と人手をかけて 会場一杯に さまざまな仕掛けや工夫を凝らしたドミノのコマを並べてゆく、その過程と 本番のドミノ倒しの様子が描かれていました。
準備の様子が大変そうであればあるほど、本番の見事さに 爽快なカタルシスを覚えるわけですが、暑い季節に ちょっとした微風でもコマが倒れるからと 送風も止めて 汗だくで作業を進めるなど、よくまあ皆さんここまで頑張れるものだと感心するやら驚くやら。
で本番、動き出したドミノは 渦を巻いたりくねったり枝分かれしたりながら、見事な模様を描いたり 奇抜な仕掛けを作動させたりと、まるで生き物のように さまざまなことをやってのけつつ 進んでゆきますが、その一番最初はというと、たったひとつのコマが倒れて 次のコマにぶつかって倒すところからなんですね。
もしも 一番目と二番目の間が開き過ぎていたり、一番目の倒れかかる重みや勢いが足りなかったりして、二番目のが倒れなかったら ハイそれまでよ、長時間の綿密で辛抱強い準備も すべて水の泡、というわけです。
私たちは、ある出来事と そこから派生する感情が 直接つながっていると思いがちです。
が 実際には、出来事と 湧き起こる感情との間に、スイッチとなる ある種のからだの感覚が挟まっていると知り、数年がかりであれこれ試してみて、このからだの感覚が、ドミノ倒しの一個目のコマのようなものだと思うようになりました。
これが 感情のスイッチをぽんと押す前に止めてしまえば、起きたことについて 感情が揺れ動くことはないわけです。
盛大に用意された 怒りや愚痴や恨み言の物語も、倒れずに終ったドミノの仕掛けのように 展開されることなく、存在しないも同然となります。
よく 「誰それが私を怒らせた」 とか 「誰それに心を傷つけられた」 などと言いますが、実のところ 怒りも痛みも 他者は関係なく、すべて自作自演のようです。
相手はたまたま うっかり刺激して 一連の回路を目覚めさせてしまっただけであり、負の物語の展開につながる一番目のドミノのコマは 自身の中にあって、倒すか倒さないかは自分次第。
自分でコントロールできるのですから、他者から傷つけられるのどうのこうのということは、実は起こっていないし、起こりえないことなのです。
さらに 観察を重ねた結果、スイッチとなるからだの感覚は、実は 初めてそれを体験したときの記憶の再現だとわかりました。
幼いころ なんらかの出来事から感じた怒りや怖れや痛みが、幼さゆえに消化し切れないまま残っていて、当時を思い出させる出来事が起こると その時のからだの感覚がよみがえり、続いて 怒りや怖れや痛みがそっくりそのまま再現されるのです。
たった今感じていると思っていた怒りや怖れや痛みは、実は遠い遠い昔のこだまに過ぎなかったわけです。
そして、あのとき受け止め切れなかったつらい思いが まだここに残っているよ、そろそろどうにかしたほうがいいよ、と知らせてくれるのです。
からだの感覚を 言葉を介さず感じることで 感情に発展させることなく収めるという話は、これまでさんざん書いてきたので、ここでは省略。
今とにかくお伝えしたいのは、否定的な感情は (準備や練習はいりそうですが) コントロール可能、ということ。
ネガティブなことが起これば ネガティブな氣持ちになるのは当然のこととずっと思い込んでいましたが、出来事と感情をつなぐ ドミノの最初の1コマを倒さずにいられれば、状況いかんに関わらず、平静で前向きな氣持ちを保つことができると知りました。
前例のないことがやたらと起こる エキサイティングでスリリングなこの時代、この最初のコマの扱いに長けることは、大きな力となるような氣がします。
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