毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

人だからできること、人にしかできないこと

2016年11月21日 10時48分49秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の記事に続いて また人工知能のお話を。

人工知能が私たちにもたらすかもしれない危機のひとつとしてよく挙げられるのが、「ゆくゆくは われわれの仕事の大半が 人工知能に取って代わられるのではないか」というもの。

でも 貴秋は思うのですね、人工知能が簡単に代わりを務めてしまうような仕事を人間がやっいてることのほうが むしろ問題なんじゃないかなって。




この1~2月に行った印刷会社の印刷物の仕分けや検品なども かなり機械的な作業で、チャップリンの 「モダン ・ タイムス」 をふと連想したりしたものですが、同じ動作の繰り返しとか ひたすら早く正確にこなすとか 機械のほうが強そうな仕事は、それこそ人工知能の助けを借りて ロボットにでもなんにでもどんどんお任せすればいいのではないでしょうか。

一方 私たち人間は 誰もが生まれる前に 今生でぜひとも成し遂げたいことや追求したいテーマをあらかじめ決めているはずで、それは間違っても 機械に代わりが務まるようなことじゃないと思うのです。

だから人でなくてもいいところは 機械に肩代わりしてもらい、ぜひともやりたいこと、人ならではのこと、人にしかできないことに思いっきり打ち込むのがベストだという氣がします。

あくまでもそんな従の立場での人工知能の発達発展なら 賛同もできるのですが。




先日 ロボットをテーマにした番組で、動物を精巧に模した 動いたりまばたきしたり鳴いたりするロボットや 人型で 人の言葉に受け答えしたり 人そっくりの動きを見せたりするロボットなどが登場し、感嘆の声がさかんに上がっていました。

そういう生き物と見まごうようなロボットに 癒される人も多いそうです。

たしかに こちらの声がけに反応したり表情があったりする相手なら、自分の思いに応えてもらったようで うれしくなることもあるでしょうね。

でもそれは、胸に届いた相手の思いを受け止めたのでも 共感したのでもない、「こういうときはこう反応する」 と教え込まれたパターンが格段に増えて複雑になったがために 命あるように見えているに過ぎない。

最初の珍しさが薄れるにつれて、やっぱりなんか違うという気持ちが湧いてくるのではないかしら。

人なら 何も言わず 黙ってそばにいるだけでも 伝わるものがあって慰められるなんてこともあるけれど、しゃべりも動きもしないロボットがかたわらにあっても それはただ物が置いてあるだけ、いずれはその違いを感じることになるでしょう。

目には見えない 魂 ・ いのちのエネルギーを感じ合えるのは、生き物ならではの力。

人にあって物にはない 五感では捉えきれない “なにか” の存在は、案外そんな体験から感知されることもあるのかもしれませんね。




機械に仕事を奪われたからといって 嘆くことはありません。

むしろ人にしかできないことに打ち込むチャンスと思えばいい。

そしていざ 実際にそんな時代が来たときに苦しいのは、人でありながら 内なる声に耳をふさぐことに慣れ マインド肥大の機械的反応ばかりで生きてきた人ではないかしら。

前記事アップのあと こんな記事を見つけて ぎょっとしました。

なんてこった、未来を担う子どもたちに すでにこんなことが。。。。。

そしてそれ以上にぞっとしたのは、肝心の問題提起したはずの大人たちが なぜ 「読めない」 のか、「読める」 ようになるためには何が必要なのか 現時点では 「わからない」 とあっさり述べているくだり。

幼いころに 全身で感じる、遊ぶ、体験することを十分味わわせず、計算ができるとか漢字が読めるとか 左脳偏重の詰め込みばかり施してきた結果だってことが どうしてピンとこないんだろう。

大人がすでにマインドに呑み込まれ 感じ取る力を失っていませんか?




人が人らしい意識や情緒を忘れ ロボット化する先に 幸せな未来はありえない。

マインド主導からハート主導へ、人ならではのあり方を取り戻すことが 最重要課題である時代に 今まさにさしかかっている氣がします。
























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