毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

続 ・ 「聴く」 ということ

2018年11月09日 09時53分03秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


  ※「 『聴く』 ということ」 はこちら



アメリカ中間選挙がらみで 人種や思想の違いから生じる摩擦や分断についての情報に触れることが多かった、ここ数日。

政治家はもとより 組織の長、学者、労働者、学生、難民など さまざまな国 ・ さまざまな立場の人の声を耳にしましたが、意見が異なる者どうしの対立が深まっているといわれれば たしかにそうかもしれません。

そして痛感したのが、「聴く」 ということの大切さ。

対立が激化する裏には、「自分の言うことを十分聞いてもらえない、思いを汲み取ってもらえない」 という不満が渦巻いているように思えてならないのです。

めいめいの主張がどんどん声高に激しくなる一方で、それにじっくり耳を傾ける人はどれほどいるのか。

語る人ばかりで聴く人のいない世界、溜まり溜まった思いを受け止めてもらえない苛立ちは増すばかり。

そんな不満が 一部ではヘイトスピーチのような極端な形で噴き出している氣がします。




肉体という形を持つ私たちは、言葉や行動を通じてなにかを 「分け出す」 ことで 一瞬一瞬自分というものを創造しています。

自分なりの線引きで選択を重ねることで、「これが私」 というものを表現し続けています。

「自分を受け止めてもらえない」 という不満は、その表現を頑なな意固地なものにしてしまう。

自分と異なる思いを持つ者が、単に違うというだけでなく 自分を攻撃し脅かす存在のように思えてしまうのですね。




が、周囲に映し出される景色は 自身の内側の投影、まわりに受け止めてもらえないと感じるとき、実はまず自分自身が自分の思いを受け止めていないのです。

自分で自分をわかっているという安心感があれば、まわりがどうだろうとたいして氣にはなりません。

自分と異なる意見は異なる意見として聞き、それが自分をないがしろにするとか認めてくれないなどとは思わずにいられるのです。




対立する意見を壁のように感じたとき、憤怒が突き上げて叫び出したいような衝動に駆られたとき、それを外に向けて吐き出す前に 意識の向きをくるりと変えて そんな自身の内を照らしてみる。

岩にぶち当たったような痛み、圧迫される苦しさ、乱れ飛ぶざわめき、そういったものを言葉を使わずじっと感じてみる。

なんでこんなに熱くなるのか、なにに怒っているのか、ほんとうはどうなりたいのか、答えはそういった感覚の中にあるのですから。




この三年ほどそうやって集中的に自分の思いに意識を向けてきて見えてきたのが、まさにこの 「聴く」 ということの大切さ。

それも 自分の思いを聴くことから他者の思いを聴くことへと 意識の焦点が移ってきたのです。




ミヒャエル ・ エンデ作 「モモ」 の主人公モモは、独特なやり方で人の話を聴くことができる女の子。

彼女がただ静かに耳を傾けるだけで、ケンカしていた人が仲直りし、鳴かなかった鳥がさえずり始め、たくらみを秘めた悪人さえ思わず本音を漏らしてしまう。

このモモの 「聴く」 とは、他者と意識を共有しての感覚フォーカスみたいなものなんじゃないかと 最近思えてきました。

怒っている人や落ち込んでいる人と一緒にいるとき、自分の内に伝わってくる思いや感覚を 言葉で解釈するのではなく、言葉にならないもののほうに焦点を合わせてじっと感じている。

臨床心理学者の故 ・ 河合隼雄さんも、患者さんの言葉を解釈抜きで 氣をそらすことなくひたすら聴き続けたとご著書に書いておられます。

フォーカスする相手が自分であろうが他者であろうが、そうやって聴き遂げられた思いは 役目を終えて消えてゆくことができるのでしょう。




アメリカの中間選挙関係の集会で、対立政党の支持者の声に耳を傾け始めた人たちがいるそうです。

相手方の支持者どうしの話を外から黙って聴くという試みで、結果互いにかつてなかった理解が生まれ始めたと。

カウンセリングや集会などでなくてもいい、ちょっとした茶飲み話や立ち話でも、長年溜まり続けた不満や怒りで自分の心が見えなくなっている人に少しでも寄り添える人が増えていけば、世界のあちこちで起きている分断への流れが向きを変えるのも夢ではない、そんな氣がしています。