毎日がしあわせ日和

ほんとうの自分に戻れば戻るほど 毎日がしあわせ日和

ほんとうにあった 自己否定 続き

2016年06月28日 15時58分21秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


前の続き。




あの温泉の母娘から氣づいた 責め立てる者への怒りと 責め立てられる者への怒り、その一方は、もともと私のものではなかったのでした。




わが母の 幼い私へのいら立ちは、今思うと 自身の日ごろのフラストレーションを 多分に上乗せした、しつけというよりも 不当な八つ当たり感が強いものでした。

そして それはそっくりそのまま、私自身の 不当で的外れな自己否定にすり替わりました。

この無自覚な自己否定が 知らず知らずのうちに さまざまな形で人生にトラブルを呼び込んでいたのです。

「こんなヤツは 生きている値打ちがない」 「ダメになってしまえばいい」 腹立ち紛れの 激しい否定の言葉が、意識せぬまま 心の奥底で湧き起こり、その言葉通りに さまざまな厄介ごとを引き起こしていたのです。

自分がトラブったパソコンに吐きかけたくなる決まり文句から それに氣づいたときの驚きといったら。

そんなからくりを抱え込んだままでは、穏やかな暮らしや心持ちが なかなか実現しないのも もっともなことでした。




さらに見えてきたことがあります。

思い起こせば、他者を責めるとき いつも胸のうちに 瞬時の快と共に かすかな痛みがありました。

相手に腹を立て こちらからも派手に切りつけてやりたいと思えば思うほど、その痛みは大きくなっていきました。

母のわがままに振り回されていたころ、よく仕返しの場面を思い描いたものですが、リアルに想像すればするほど 意地悪い満足感と共に うずくような痛みや悲しみが膨れ上がるのが、不思議で心地悪くてなりませんでした。

あれは、相手と自分を重ね合わせてのことだったのです。

他者が 自己の受け入れられない部分が投影された姿でもあるならば、自他は くっきり線引きし切れない、別だけれど一体という あいまいなつながりとなります。

そう見れば、他者を傷つければ 自分に痛みが走るというのも なんとなくうなずけること。

嫌いなはずの相手に哀しみを覚えるのも、大切に守っているはずの自分を 無意識に傷つけてしまうのも、この別々であり またひとつでもあるという 相反する視点が同時に成立する この世界ならではでしょう。

そして この他者とは、人以外の動物 ・ 植物 ・ 物などについても同じこと、自分以外の何を傷つけても 負のエネルギーは 必ず自分に返ってくるのです。




幼いわが子を 年老いた親を 虐待した、殺してしまった、などというニュースに触れるたびに、その加害者被害者双方が感じたであろう痛みが 身の内にフラッシュバックします。

昔受けた理不尽な仕打ちに仕返ししようと どれだけ暴力を振るっても、満足する瞬間は決してやってこず、むしろ痛みや悲しみがどんどん大きくなるばかり。

相手 = 自分であり ほんとうは大切にしたいのに、仲良く一体感を感じていたいのに、分裂した意識のまま傷つけ合わずにいられない辛さです。

虐待がどんどんエスカレートするのも、怒りを抱えた人の数や 怒りの度合いが増す一方なのも、そうと氣づかないまま 外に向かって怒りを叩きつけ続けるから、そうするしか思いつけないから、なのでしょうが、暴力を振るうほうも 振るわれるほうも、そのままどこまでいっても 救われることはありません。

自他一体という理屈を超えたありようが成立することが 得心できて初めて、他者への暴力が すっかり鳴りを潜める日がやってくるのでしょう。

内なるせめぎ合いや子どものケンカから 国家間の争いまで あらゆるもめごとや暴力沙汰を解消するカギは、まず自身の中の否定や葛藤が幻であると氣づくこと、そして 自分と他者は 別々でひとつだと腑に落ちることにあるとの確信を深めた貴秋です。




氣づきに伴い、私の心も人生も この先どんどん肯定的に変わっていくでしょう。

そんな変化が ちっちゃな個の私を超えて もっともっと大きくどこまでも広がりますように、やがては地球丸ごと穏やかに平和になりますようにと願わずにはいられません。

























ほんとうにあった 自己否定

2016年06月28日 01時32分05秒 | 貴秋の視点、すなわち偏見


“無条件幸福”に目を開かされるのと並行して、否定的な観念についても 大きな発見がありました。




子どものころ 人からされて辛かったことを 自分も他者に対して行うようになるとは、以前から言われていること。

幼少期に虐待を受けた人が 自身も子どもを虐待する親になる、などは その典型ですね。

この 「他者」 を 「投影された 自身の姿」 と見ると、自分がされて辛かった仕打ちを 自分で自分にするという、妙な構図になります。

自分で自分を責めさいなむ 自己否定というこの現象も 内的探究ではよく取り上げられていますが、自分がそういうことをしているという実感が なかなかつかめずにいたのですが。




もうかれこれ6~7年前のこと、バイトしていた旅館で 仕事の後温泉に入っていて、ちょうど居合わせた 若いお母さんが 小学生になるかならないかぐらいの娘をヒステリックに叱りつけているのを目にして、母と娘の双方にいら立ちを覚え、おや? と思ったことがありました。

お母さんはともかく なんで娘さんにまで? とわれながら不思議だったのですが、そのとき不意に、同じようにヒステリックな叱り方をすることの多かった 自分の母親のみならず、叱られてビクビクおどおどしていた当時の自分にまでも ずっと不快感を持ち続けていたらしいことに 氣がつきました。

自身を守り 反撃できなかった不甲斐なさに 怒っていたということ?

が、感覚フォーカスがまだ身についていなかったころのこととて 思い出すだけで苦しい記憶や感情を それ以上深追いする氣になれず、そこでストップしたまま棚上げになっていました。




自分が辛かったから、弱い立場の相手、とりわけ子どもに対して感情を荒げるのは 極力控えるようにしていましたが、我慢はしても 真の解決には至れぬまま。

そして、人にはぶつけられないいら立ちを 物にぶつける長年のクセがあり、それが パソコンに対して特に激しく出るのが ずっと氣になっていました。

パソコンの動作が遅くなったりおかしくなったりするたびに、異常なほどかんしゃくが募り、罵声を浴びせたい衝動が抑えられなくなるのです。

この 「スムーズに動かないパソコン」 を 自身の鏡と見立て、感覚フォーカスしながら掘り下げていったら、思いがけないものが見えてきました。




「動作が遅い」 と 「いら立ち」 この二つのキーワードから思い浮かぶのは、まさに幼いころの自分と母親。

生来のんびりやでアダージォ (音楽用語 ・ ゆるやかに の意) な私は、しょっちゅう早く早くとせき立てられ テンポに乗り遅れては 叱られていました。

感情の波立ちを抑えられなかった母は そんな私のクセに ことさら厳しく当たり、そのきつい叱り方に こちらも大きな怒りや反発を覚えるようになっていました。

そこまでは以前から自覚していたのですが、もうひとつ 母の私へのいら立ちが、幼い私の脳に いつのまにかそっくりそのまま刷り込まれている事実を、長いあいだ見落としていたのです。

「なにをぐずぐずしているの!」 という怒りに満ちた母の声が、「ぐずぐずしていたらまずい、また叱られる」 という 怯えを伴った緊張から 「ぐずぐずしていちゃダメ!」 という 自分への戒めに変わり、やがて 無意識のうちに 母そっくりに自身を責め立てる声になった。

あの温泉で 小学生の娘さんに覚えたいら立ち、そして 動かないパソコンによく感じていた激しい怒りは、私本来のものではなく、その昔 母からそっくりそのまま写し取られた 母のいら立ちや怒りのコピーであり、それをいつのまにか 自分自身のものと思い込んでしまっていたのです。




長くなりそうなので、続きは次に。