夕方、図書館に本を借りに ひとっ走りドライブ。
どっちを向いても、杉の緑の中に 朱色や黄色、ベージュ、たまに真紅、などが入り混じって、なんともいえない美しさ
どの季節も素晴らしいけれど、一年でもっとも豊かさを感じるのは やっぱり秋だなぁ(^^)
ずいぶん日が短くなって、5時前に すでに山際の雲が 薄赤く染まっていました。
秋の夕焼けは 華やかなうちにも どこか切ないものが感じられて、ことさら胸に響きます。
他のどんな言葉にも増して強く憧れ 自分の内に見いだしたいと願った言葉、それが 「愛」。
そして、心の中をいくら探っても その片鱗も見つけることができなかったころ、「愛」とは 実に厄介な言葉でした。
中でもお手上げだったのが、「愛する」「愛してる」という表現。
この上なく大切だと思う、それを「愛してる」と言い表したいのだけれど、ひそかに心の中で思い浮かべるだけでも たちまち「ウソばっかり」と冷ややかな声がかぶさり、後ろめたさを覚えるありさま。
さらに違和感あったのが、そもそも「愛」って動詞なの? “する” ことなの? という点。
愛は 私たちの本質そのものである、という言葉を信じて、そういうイメージを絶えず思い描いていたからだったのでしょうね。
そして、今。
長年 自分の負と取り組み続けた甲斐あってか、平穏な時間がかつてないほど長くなり、ときおり わけもなく なんともあたたかい何か(エネルギー?)が 胸のあたりからこんこんとこみ上げて、泣きたいほどの幸福感に浸されるとき、もしかして これが愛というものなのかも。。。と思うようになりました。
まだまだ曇りもいっぱい残っているから、今は ときたまふっと現れては またじきに消えてしまうけれど、ほんとうは 私たちみんな、このエネルギー?の海に四六時中浸されて、至福に包まれ続ける存在なんじゃないかな、という氣がします。
「ただ 在る」とき、私たちは 愛そのものなのだ、と。
私たちの、「大いなるひとつ」としての面を思い出したときのありようなのでしょうね、きっと。
一方で、私たちは、この三次元世界に 個別化して分け出された存在でもあります。
この小さな自分がすべてだと思うときは、源である愛から切り離されたように感じるのかもしれない。
でも、小さな自分でありながら、同時に もっと大きな存在の一部であるとも感じられるときは、制約の多いこのからだにあっても、愛を感じ、みなぎらせていられるんですね。
そして、そのとき。
制約されているからこそ、私たちは その愛を 動詞と言う形、「愛する」という言葉や意志でもって、特定の方向に 意図して向けることができるのかもしれません。
見えなくても、形がなくても、存在を感じられるものは たくさんある。
それを 神と思おうと 宇宙と思おうと 彼岸にいった大切な人たちと思おうと。
でも、形がないものは、あたり一面に立ち込めてはいても、意図して方向を定めるようなことはできない。
それができるのは、良くも悪くも「分け出さずにいられない」という性質を持ち、形ある存在として 意思を持って自由に行動できる 私たち人間。
愛が欠けているところに、光を見いだせず苦しんでいる人たちに、私たちは 意図的に愛を送る・贈ることができる。
こんなひらめきを受け取ってから、「愛する」「愛してる」という言葉を 以前ほど落ち着きの悪い 使いにくい言葉と思わなくなりました。
まだ、心からこれらを使える時間はほんのわずかしかないけれど、魂磨きを続けてゆく中で、確信を持って 愛のエネルギーを乗せて 送り出し続けられる日も、そう遠くはないのかもしれません。