かれこれ十数年前の話になりますが、テレビアニメで「魔法騎士レイアース」っていうのがありまして。
いえ、私が見ていたわけじゃなく、家族が見ているのを台所仕事などしながら背中で聞いていただけ、だから 不思議な力を使うカワイイ女の子の戦士が三人いたことぐらいしか記憶になく、どんなお話かもさっぱり知らないんですが。
ただ、なぜかはっきりくっきり残ってるシーンが二つだけあるんです。
ウィキペディアで改めて登場人物を確認しつつ書きますと、ひとつは ヒロインの一人獅堂光に ノヴァという女の子が襲いかかるシーン。
このノヴァは 顔が光にそっくりで、敵対心むき出しなのです。
「獅堂光の血が見たい!」なんていうカゲキなセリフが今でも耳に残っています(^_^;)
で、もうひとつは、なぜか意気消沈してしょんぼりぐったりしたノヴァちゃんが、光の前にとぼとぼと歩み出て、なぜか二人が融合して(というかノヴァが吸収されるような感じで)ひとつになるシーン。
ウィキによると、ノヴァちゃんは アニメ版オリジナルキャラクターで もう1人の獅堂光という設定、あの二つ目のシーンは ずっと敵対していたノヴァちゃんを ヒロイン光が受け入れて融合した、というものだったらしいです。
放映日もまったく違うはずのこのふたつのシーンが、なぜかセットで長年頭の片隅に残っていたんですね。
で、いったいなぜ急にこんな話を始めたかと言いますと。
以前、「身体反応と感情を切り離すことで、負の感情をエスカレートさせずに客観視することができる」という話を書いた記憶がありますが、
実際これを何度も何度も繰り返すうちに、それまで自分自身に他ならないと思い込んでいたネガなキャラクターが、後づけでイメージを固められた作り物であり、本来の自分と切り離すことができる、着ぐるみのように着脱可能(笑)の存在に過ぎないことが、リアルに感じられるようになってきました。
もともとの私がネガティブなんじゃなく、私の中に後天的にネガ回路が作られただけで、別にその回路を使わなくたってかまわないんだ、むしろ ついついその回路を使ってしまう習慣を、新しいクセ付けによってなくすことができるんだ、と。
お日さまを隠す雲のように、本来の いのちにもっとも近い自分をさえぎって表に出にくくしているのが、「エゴ」とか「我」とか呼ばれる種類の意識。
この「エゴ」という呼び名が けっこうクセモノなんじゃないかという氣がするのです。
「エゴ」には 最初から否定的な意味合いがついて回るから(私的には 「我」のほうがまだしも中立的色合いを感じるので、必要があればこちらを使わせてもらってます)。
精神的なことを書いた本も多数読みましたが、この「エゴ」に厳しいものがけっこう多いという印象を受けます。
エゴは 本来の自分を妨げる存在であり、それに引きずられることなく乗り越えなければならない、エゴに捕らわれてはならない、というような。
それはまったくそのとおりだと思うのですが、「エゴ」に少しでも否定的な色がついた状態でこういう話を聞くと、ついつい自己実現を妨げるジャマモノみたいに思って、攻撃的に排除しようとしてしまうんじゃないかなぁと。
でも・・・敵視すればするほど、実はその存在が大きくなっちゃうんですね(T_T)
そもそも「敵視する」っていうこと自体、「敵がいる」ことが前提になってますから。
間違って生み出してしまったものを 生まれる前の状態・ゼロに戻そうとしてるのに、相手が大きくなってしまうのは困りものです
「レイアース」の光ちゃんは、自分の分身・「陰バージョン光」とでもいうべきノヴァちゃんを受け入れて 再び一人に戻ることで、自身の心の闇をクリアした。。。というストーリーに見えるんですね。
戦闘もののアニメで 敵を倒す場面は数あれど、こういうシーンは見たことがなかったので、強く印象付けられてたんじゃないかと思います。
私たちは、生まれた後、いや、もしかしたら生まれる前から、周囲の人を通じてさまざまな情報を受け取り、それに応じていくつもの反応パターンやキャラクターを作り上げます。
それをそのまま持ち続けたり 中には「売り」にして生きていく人もあって、そういうのもありだと思います。
ただ、そのキャラがもはや自分を幸せにはしないと感じたときは、あの手この手でお別れしようと努力することになりますが、そのときに相手と戦うのは逆効果だし、戦いたくなるような言葉も使わないほうがいいんじゃないかな?という話なんです。
よく使わせてもらう例えだけど、「北風と太陽」の北風さんは、労多くて報われない役回りですものね。
私自身、ネガを排除しようとする誤りをなかなか手放せず(理屈でわかっていても ついやっちゃうんですね)、約十年経った今になって ようやっとこのことが身に沁みるところまでたどり着いたんですから。
どんな否定的な性格だって、そのときは意味があったんだもの。
ほかに手立ても思いつけないまま 身を守るために必要だったからこそ生み出されたんだもの。
成長して必要のなくなったそれは、春が来たときの冬用コートみたいなもの。
暖かくなったからって邪険にすることないよね、役に立ってくれたことに感謝して そっと手放すだけでいいよね。
今はあまり心地よく思えなくなった性格だって、かつて自分のために生まれてきて 自分を守ってくれたことに感謝しよう。
そして、状況が変り 自身が成長できたことにもう一度感謝して、“歩みを止めた子ども”状態のネガちゃんを 大人になった自分の中に呼び戻せばいい。
こうやって バラバラに散らばっていた自分をひとりひとり呼び戻しては、再びひとつになって歩いていくんだね
年明け以来、もうたいがい見つけ出したかなんてうぬぼれてたネガキャラが 再びぞろぞろと姿を現す機会が多くなって、ネガキャラ一掃セールみたいなありさまで かなりヘトヘトなんですが、ヘトヘトの原因がどこにあるのかが、昔々のレイアースの一場面とともに思い浮かんだ、というお話でございました
おかげでだいぶ氣が楽になりました(^^)
それにしても、毎回思うことですが、人生のどこにどんな伏線が張られているかわかりませんね♪
はるか昔に 台所でお茶碗洗ったりしながら聞いていた「レイアース」がこんなところに出てくるなんて、思いもよらなかったよ(笑)
今回も 長々とお付き合いくださり ありがとうございます m(__)m
いえ、私が見ていたわけじゃなく、家族が見ているのを台所仕事などしながら背中で聞いていただけ、だから 不思議な力を使うカワイイ女の子の戦士が三人いたことぐらいしか記憶になく、どんなお話かもさっぱり知らないんですが。
ただ、なぜかはっきりくっきり残ってるシーンが二つだけあるんです。
ウィキペディアで改めて登場人物を確認しつつ書きますと、ひとつは ヒロインの一人獅堂光に ノヴァという女の子が襲いかかるシーン。
このノヴァは 顔が光にそっくりで、敵対心むき出しなのです。
「獅堂光の血が見たい!」なんていうカゲキなセリフが今でも耳に残っています(^_^;)
で、もうひとつは、なぜか意気消沈してしょんぼりぐったりしたノヴァちゃんが、光の前にとぼとぼと歩み出て、なぜか二人が融合して(というかノヴァが吸収されるような感じで)ひとつになるシーン。
ウィキによると、ノヴァちゃんは アニメ版オリジナルキャラクターで もう1人の獅堂光という設定、あの二つ目のシーンは ずっと敵対していたノヴァちゃんを ヒロイン光が受け入れて融合した、というものだったらしいです。
放映日もまったく違うはずのこのふたつのシーンが、なぜかセットで長年頭の片隅に残っていたんですね。
で、いったいなぜ急にこんな話を始めたかと言いますと。
以前、「身体反応と感情を切り離すことで、負の感情をエスカレートさせずに客観視することができる」という話を書いた記憶がありますが、
実際これを何度も何度も繰り返すうちに、それまで自分自身に他ならないと思い込んでいたネガなキャラクターが、後づけでイメージを固められた作り物であり、本来の自分と切り離すことができる、着ぐるみのように着脱可能(笑)の存在に過ぎないことが、リアルに感じられるようになってきました。
もともとの私がネガティブなんじゃなく、私の中に後天的にネガ回路が作られただけで、別にその回路を使わなくたってかまわないんだ、むしろ ついついその回路を使ってしまう習慣を、新しいクセ付けによってなくすことができるんだ、と。
お日さまを隠す雲のように、本来の いのちにもっとも近い自分をさえぎって表に出にくくしているのが、「エゴ」とか「我」とか呼ばれる種類の意識。
この「エゴ」という呼び名が けっこうクセモノなんじゃないかという氣がするのです。
「エゴ」には 最初から否定的な意味合いがついて回るから(私的には 「我」のほうがまだしも中立的色合いを感じるので、必要があればこちらを使わせてもらってます)。
精神的なことを書いた本も多数読みましたが、この「エゴ」に厳しいものがけっこう多いという印象を受けます。
エゴは 本来の自分を妨げる存在であり、それに引きずられることなく乗り越えなければならない、エゴに捕らわれてはならない、というような。
それはまったくそのとおりだと思うのですが、「エゴ」に少しでも否定的な色がついた状態でこういう話を聞くと、ついつい自己実現を妨げるジャマモノみたいに思って、攻撃的に排除しようとしてしまうんじゃないかなぁと。
でも・・・敵視すればするほど、実はその存在が大きくなっちゃうんですね(T_T)
そもそも「敵視する」っていうこと自体、「敵がいる」ことが前提になってますから。
間違って生み出してしまったものを 生まれる前の状態・ゼロに戻そうとしてるのに、相手が大きくなってしまうのは困りものです
「レイアース」の光ちゃんは、自分の分身・「陰バージョン光」とでもいうべきノヴァちゃんを受け入れて 再び一人に戻ることで、自身の心の闇をクリアした。。。というストーリーに見えるんですね。
戦闘もののアニメで 敵を倒す場面は数あれど、こういうシーンは見たことがなかったので、強く印象付けられてたんじゃないかと思います。
私たちは、生まれた後、いや、もしかしたら生まれる前から、周囲の人を通じてさまざまな情報を受け取り、それに応じていくつもの反応パターンやキャラクターを作り上げます。
それをそのまま持ち続けたり 中には「売り」にして生きていく人もあって、そういうのもありだと思います。
ただ、そのキャラがもはや自分を幸せにはしないと感じたときは、あの手この手でお別れしようと努力することになりますが、そのときに相手と戦うのは逆効果だし、戦いたくなるような言葉も使わないほうがいいんじゃないかな?という話なんです。
よく使わせてもらう例えだけど、「北風と太陽」の北風さんは、労多くて報われない役回りですものね。
私自身、ネガを排除しようとする誤りをなかなか手放せず(理屈でわかっていても ついやっちゃうんですね)、約十年経った今になって ようやっとこのことが身に沁みるところまでたどり着いたんですから。
どんな否定的な性格だって、そのときは意味があったんだもの。
ほかに手立ても思いつけないまま 身を守るために必要だったからこそ生み出されたんだもの。
成長して必要のなくなったそれは、春が来たときの冬用コートみたいなもの。
暖かくなったからって邪険にすることないよね、役に立ってくれたことに感謝して そっと手放すだけでいいよね。
今はあまり心地よく思えなくなった性格だって、かつて自分のために生まれてきて 自分を守ってくれたことに感謝しよう。
そして、状況が変り 自身が成長できたことにもう一度感謝して、“歩みを止めた子ども”状態のネガちゃんを 大人になった自分の中に呼び戻せばいい。
こうやって バラバラに散らばっていた自分をひとりひとり呼び戻しては、再びひとつになって歩いていくんだね
年明け以来、もうたいがい見つけ出したかなんてうぬぼれてたネガキャラが 再びぞろぞろと姿を現す機会が多くなって、ネガキャラ一掃セールみたいなありさまで かなりヘトヘトなんですが、ヘトヘトの原因がどこにあるのかが、昔々のレイアースの一場面とともに思い浮かんだ、というお話でございました
おかげでだいぶ氣が楽になりました(^^)
それにしても、毎回思うことですが、人生のどこにどんな伏線が張られているかわかりませんね♪
はるか昔に 台所でお茶碗洗ったりしながら聞いていた「レイアース」がこんなところに出てくるなんて、思いもよらなかったよ(笑)
今回も 長々とお付き合いくださり ありがとうございます m(__)m