私のパソコンの「ホームページ」っていうのかな?ネットにつないで最初に出てくる画面は ここしばらくずっとYAHOO!にしてるんだけど、このYAHOO!に「知恵袋」っていうのがあります。
ご存知の方も多いかと思いますが、さまざまな悩みや疑問を投稿して、自由に回答を募るというもの。
かの有名な「家に帰ると妻が死んだフリをしています」とか 「キラキラネームをつけられた子どもの悩み」とか、申し訳ないけどちょっと面白いなと思ってしまうものから かなり深刻に見えるものまで、それはそれはいろいろな質問が寄せられています。
YAHOO!の初期画面に 興味深そうな質問のタイトルが出ていると読みに行かせてもらうのですが、中でも印象深いのは、家族や友人間のトラブルなど「身の上相談」的な悩みに対しての回答に、非があると見える人を感情的に責め立てるような内容のものが多いこと。
読んでると 心の中にビンビン痛みが走って、そして思うのです、
「ああ、この人は回答にこと寄せて 自分自身の痛みを吐き出しているんだなぁ」って。
その感じ、ありありとわかる。
私自身、ほんの少し前まで 新聞読もうがテレビや映画見ようが、自分と同じような痛みを持った人を見つけると、激しく感情移入して 過激に反応してたもの。
それはもう他人事なんかじゃない、自分自身の痛みそのものから生まれる怒りや憎しみなんですね。
そんな自分の思考回路に氣づかせてくれたのが、これまた旅館のお仕事。
それまで他人の中で揉まれて働いた経験のほとんどなかった私にたくさんのことを教えてくれた、ほんとありがたい職場です。
一緒に仕事してる人やお客さまのちょっとしたひと言に 「ムッ」とか「カッ」とかしてしまう自分がいるんですね。
と同時に、いや、そんなに怒るほどの事じゃないはずなのになぁ、と首かしげてる自分もいるのです。
どういうことなんだろう?と 心の奥をずっと探っていくと、とんでもなく昔の記憶にたどりつきます。
まわりの大人の何氣ない言葉に傷ついて、その感情をどうすることもできないまま身の内に封じ込めてぐっとガマンしている幼い自分。
そして ウン十年経って、当時と同じような言葉を投げかけられたのがスイッチになって、幼児の頃そのままに持ち越していた感情が噴き出してしまってたんですね。
今怒ってるように見えて、実は心だけ子どもの頃に返って怒ってるんだ、と。
お客さまにもときどきそんな方がおられます。
こちらのミスやサービスの遅れなどに対して お叱りを受けるのは当然なんですが、そんな中でもいわゆる「大人氣ない」怒り方をされる方があって、そんなとき「ああ、この方文字通り『大人の氣じゃない → 子どもの氣(氣持ち)に戻ってしまってる』んだなぁ」と思うようになりました。
納得いかないことに激しい怒りを覚えるとか、自分に非があるとわかっていても 責め立てられるとなんとしても認めまいとがんばってしまうとか、そういう反応って 案外リアルタイムのものじゃなくて、昔の記憶に突き動かされているだけという場合が多い氣がします。
前の日記に書いたような、人の話を聴くよりも 自分の言い分(攻撃であれ防御であれ)を激しく言い立てたくなるときって、子ども時代の心に戻っている可能性が高いんですね。
もちろん 相手の言葉に違和感を感じたり 同意できないと思ったりすることはあるでしょうが、子どもの感情に左右されなければ、もっと敵対せずに建設的な話し合いができるんじゃないかっていう氣がします。
もし、自分の怒りや憎しみや恐れのおおもとに何があるか しっかり確かめることができたら。
そのときは、きっと他人を責めなくてもよくなるね。
自分を動揺させるほんとうの原因は その人じゃなく 自分の中にあるんだってわかるから。
さらに。
自分を守れなかった自分を責めることもなくなるね。
他人に投影した怒りは 実は自分に向かうものだったことにも氣づけるから。
自分にも人にも 折あるごとに もう怒ったりおびえたり責めたりしなくていいんだよ、ってやさしく伝えたい。
しみじみそう思います。
ご存知の方も多いかと思いますが、さまざまな悩みや疑問を投稿して、自由に回答を募るというもの。
かの有名な「家に帰ると妻が死んだフリをしています」とか 「キラキラネームをつけられた子どもの悩み」とか、申し訳ないけどちょっと面白いなと思ってしまうものから かなり深刻に見えるものまで、それはそれはいろいろな質問が寄せられています。
YAHOO!の初期画面に 興味深そうな質問のタイトルが出ていると読みに行かせてもらうのですが、中でも印象深いのは、家族や友人間のトラブルなど「身の上相談」的な悩みに対しての回答に、非があると見える人を感情的に責め立てるような内容のものが多いこと。
読んでると 心の中にビンビン痛みが走って、そして思うのです、
「ああ、この人は回答にこと寄せて 自分自身の痛みを吐き出しているんだなぁ」って。
その感じ、ありありとわかる。
私自身、ほんの少し前まで 新聞読もうがテレビや映画見ようが、自分と同じような痛みを持った人を見つけると、激しく感情移入して 過激に反応してたもの。
それはもう他人事なんかじゃない、自分自身の痛みそのものから生まれる怒りや憎しみなんですね。
そんな自分の思考回路に氣づかせてくれたのが、これまた旅館のお仕事。
それまで他人の中で揉まれて働いた経験のほとんどなかった私にたくさんのことを教えてくれた、ほんとありがたい職場です。
一緒に仕事してる人やお客さまのちょっとしたひと言に 「ムッ」とか「カッ」とかしてしまう自分がいるんですね。
と同時に、いや、そんなに怒るほどの事じゃないはずなのになぁ、と首かしげてる自分もいるのです。
どういうことなんだろう?と 心の奥をずっと探っていくと、とんでもなく昔の記憶にたどりつきます。
まわりの大人の何氣ない言葉に傷ついて、その感情をどうすることもできないまま身の内に封じ込めてぐっとガマンしている幼い自分。
そして ウン十年経って、当時と同じような言葉を投げかけられたのがスイッチになって、幼児の頃そのままに持ち越していた感情が噴き出してしまってたんですね。
今怒ってるように見えて、実は心だけ子どもの頃に返って怒ってるんだ、と。
お客さまにもときどきそんな方がおられます。
こちらのミスやサービスの遅れなどに対して お叱りを受けるのは当然なんですが、そんな中でもいわゆる「大人氣ない」怒り方をされる方があって、そんなとき「ああ、この方文字通り『大人の氣じゃない → 子どもの氣(氣持ち)に戻ってしまってる』んだなぁ」と思うようになりました。
納得いかないことに激しい怒りを覚えるとか、自分に非があるとわかっていても 責め立てられるとなんとしても認めまいとがんばってしまうとか、そういう反応って 案外リアルタイムのものじゃなくて、昔の記憶に突き動かされているだけという場合が多い氣がします。
前の日記に書いたような、人の話を聴くよりも 自分の言い分(攻撃であれ防御であれ)を激しく言い立てたくなるときって、子ども時代の心に戻っている可能性が高いんですね。
もちろん 相手の言葉に違和感を感じたり 同意できないと思ったりすることはあるでしょうが、子どもの感情に左右されなければ、もっと敵対せずに建設的な話し合いができるんじゃないかっていう氣がします。
もし、自分の怒りや憎しみや恐れのおおもとに何があるか しっかり確かめることができたら。
そのときは、きっと他人を責めなくてもよくなるね。
自分を動揺させるほんとうの原因は その人じゃなく 自分の中にあるんだってわかるから。
さらに。
自分を守れなかった自分を責めることもなくなるね。
他人に投影した怒りは 実は自分に向かうものだったことにも氣づけるから。
自分にも人にも 折あるごとに もう怒ったりおびえたり責めたりしなくていいんだよ、ってやさしく伝えたい。
しみじみそう思います。