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高橋定一郎「為朝神社」(平成5年)

2017年12月28日 | 川内〈昔〉アーカイブ

『月刊 あおば城』1993年3月号(No. 42)に掲載された。
高橋定一郎さん(川内大工町丁)は、平成14年11月23日に94歳で亡くなられました

 

為朝神社

高橋定一郎

 

 為朝神社=写真㊦=仲ノ瀬22番付近(仙台二高東側)に鎮座する。

 時は天正17年(1589年)11月豊臣秀吉は、鎌倉時代の幕府執権だった北条氏に宣戦布告した。その時までに秀吉は、伊達政宗に京都への上洛を催促したが、摺上原の戦いで蘆名氏を倒し政宗23歳で奥州66郡の半分を手にした時でもあり、政宗毒殺未遂事件で、弟小次郎を斬殺する事となり、乱世の真只中にいた。秀吉の催促をのんで臣従を決し、上洛したが秀吉はすぐには謁見せず、小田原城の近郊にある底倉温泉に閉じ込めてしまった。政宗にとっては生死をかけた究極の状況となったが、そのとき源為朝の御心霊のおかげで危うく難を逃れ、意外と軽い処罰で、再び54郡に対する下地検を認められ安堵したことで、その後源為朝を家の守護神とした。

 時代はとんで、江戸時代の文化4年(1807年)徳川家斉の命により、北方に出没するロシア船を討つために、九代藩主周宗(ちかむね)に出兵を命じたが、周宗は幼少病弱であったため執権・中村日向守義景が命を受け、文化5年に、エトロフ方麺に600名。国後方面に600名。函館に800名の兵を出征させた。そのとき中村日向守義景の屋敷の東側(今の仙台二高東側)に為朝神社を創建した。藩士にお守りを渡した事が社記にある。水雜よけ・鎖火・耳疾に霊験ありと知られている。

★源為朝…源為義の息子。為朝は父に似て、武術にたけていたが、乱行があって伊豆大島に流刑されたが、嘉応2年(1170年)狩野重光に攻撃され討死したとされている。また琉球に逃れ、王になったという伝説もある。


 

 

資料提供:千葉さん(川内明神横丁)

 

 

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