角灯と砂時計 

その手に持つのは、角灯(ランタン)か、砂時計か。
第9番アルカナ「隠者」の、その俗世を生きる知恵を、私にも。

#272 読書週間なので(なのに)・・・『読んでない本について堂々と語る方法』

2018-10-28 06:02:02 | ぶらり図書館、映画館
2018 第72回 読書週間ポスター



 終戦まもない1947年(昭和22)年、まだ戦火の傷痕が至るところに残っているなかで「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」という決意のもと、出版社・取次会社・書店と公共図書館、そして新聞・放送のマスコミ機関も加わって、11月17日から、第1回『読書週間』が開催されました。 そのときの反響はすばらしく、翌年の第2回からは期間も10月27日~11月9日(文化の日を中心にした2週間)と定められ、この運動は全国に拡がっていきました。

 『読書週間』が始まる10月27日が、「文字・活字文化の日」に制定されました。よりいっそうの盛りあがりを、期待いたします。


*公益社団法人 読書推進運動協議会
http://www.dokusyo.or.jp/jigyo/jigyo.htm


・・・なので「ぶらり図書館、映画館」でございます。お題は、

・・・なのに『読んでいない本について堂々と語る方法』でございます。はい、実際そういうタイトルの本があるんです。




カバーにある売り文句は、

〈本は読んでいなくてもコメントできる。いや、むしろ読んでいないほうがいいくらいだ―大胆不敵なテーゼをひっさげて、フランス文壇の鬼才が放つ世界的ベストセラー。ヴァレリー、エーコ、漱石など、古今東西の名作から読書をめぐるシーンをとりあげ、知識人たちがいかに鮮やかに「読んだふり」をやってのけたかを例証。テクストの細部にひきずられて自分を見失うことなく、その書物の位置づけを大づかみに捉える力こそ、「教養」の正体なのだ。そのコツさえ押さえれば、とっさのコメントも、レポートや小論文も、もう怖くない!すべての読書家必携の快著〉

*筑摩書房:読んでない本について堂々と語る方法
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480097576/

というものでございまして「すべての読書家必携」というより、全ての見栄っ張りにオススメの本、でしょうか?


とりあえず、目次を紹介しましょう。



Ⅰ 未読の諸段階(「読んでいない」にも色々あって…)
 1 ぜんぜん読んだことのない本
 2 ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
 3 人から聞いたことがある本
 4 読んだことはあるが忘れてしまった本

Ⅱ どんな状況でコメントするのか
 1 大勢の人の前で
 2 教師の面前で
 3 作家を前にして
 4 愛する人の前で

Ⅲ 心がまえ
 1 気後れしない
 2 自分の考えを押しつける
 3 本をでっち上げる
 4 自分自身について語る

結び



さて、このように、なんとも人を喰ったような内容を想像させる目次ですが、そういうアンタ(ワタクシ)こそ読んでないんだろう、なんて言われるのも癪なので、今回は各章からの抜書きメインでいきます。


まず【第Ⅰ部】で〈「読んでいない」という状態をいくつかの段階に分けて考察(【序】より)〉してます。


いくら読んでもきりがないというこの事実の発見は、読まないことの勧めと無縁ではない。なるほど、出版された数かぎりない書物を前にして、一生かけても読めない膨大な量の本のことを考えればいくら読書に励んだところでまったく無駄だという思いをいだかない者がいるだろうか。(Ⅰ-1p27)

しかし、この流し読みという読書法が幅広く実践されているという事実は、読むことと読まないことの違い、ひいては読書そのものの概念を大きく揺るがさずにはおかない。一冊の本を全部は読まないにしても、ある程度は読んだ人間を、どのカテゴリーに入れるべきだろうか。何時間も読んだ人間はどうか。もし彼らがその本について語ることになったら、彼らは本を読まずにコメントしていると言えるだろうか。(Ⅰ-2p63)

これ[本を読まずに本の内容をかなり正確に知るために、他人が本について書いたり話したりすることを読んだり聞いたりすること]が珍しい方法だと思うのは間違いである。われわれはしばしばこの方法で本にふれているのだ。われわれが話題にする多くの本は、人生で重要な役割を演じた本も含めて、手にとったこともない本なのである。(Ⅰ-3p67)

われわれは、多かれ少なかれ、本の一部しか読まないし、その部分にしても、遅かれ早かれ、時間がたてば消え去る運命にある。こうしてわれわれは、われわれ自身および他人と、本についてというより、本の大まかな記憶について語るのである。その記憶が、そのときそのときの自分の置かれた状況によって改変されたものであることはいうまでもない。(Ⅰ-4p89)


大学教授とか、評論家とか、はたまた作家とか、膨大な量の蔵書を背にした写真があったりしますが、そりゃね、全部読めるわけないですよね、でも、それは言わないお約束なんですよね、とまあ、そこをぶっちゃけてしまったわけですね。


【第Ⅱ部】、〈読んでいない本について語らされる羽目になる具体的な状況の分析(【序】より)〉をしてます。


このように、われわれが一冊の本だけについて会話を交わすということはけっしてない。ある具体的なタイトルを介して、一連の書物が会話に絡んでくるのであって、個々の書物は、教養というもののひとつの観念全体へとわれわれを導く、この全体の一時的象徴にすぎない。われわれが何年もかけて築き上げてきた、われわれの大切な書物を秘蔵する〈内なる図書館〉は、会話の各瞬間において他人の〈内なる図書館〉と関係をもつ。そしてこの関係は摩擦と衝突の危険を孕んでいる。(Ⅱ-1p122)

しかし時が経つにつれて分かってきたことは、学生たちはこうした状況を微塵も苦にしていないということだった。じっさい彼らはよく、読んだことのない本について、私が期せずして与えるいくつかのヒントを手がかりに、当を得た、ときには正確ですらある発言をするのである。(Ⅱ-2p125)

自分の本について、注意ぶかい読者とゆっくり話をしたり、長いコメントを読んだことのある作家ならだれでも、この「不気味さ」の経験を味わっている。作家はそこで、自分が言いたかったことと他人が理解したことのあいだの呼応関係の欠如に気づくのである。(Ⅱ-3p156)

したがって、二人の間のテクストを一致させるという夢は、ファンタジーのなかでしか実現されない。現実生活のなかでは、われわれが書物について他人と交わす会話は、残念ながら、われわれの幻想によって改変された書物の断片についての会話である。つまり、作家が書いた本とはまったく別のものについての会話にほかならない。作家自身でさえ、読者が彼の本について語ることのなかに自分を認知できるということはまれなのである。(Ⅱ-4p171〜172)


多少なりともモノを書いたりして、また多少なりともソレに対する反応をいただいたりすることもあるワタクシ的に、あるあるというか、ちょっと痛いというか、そんな風にも読み取れたりして、なかなかに面白くなってまいりましたよ。


そして【第Ⅲ部】、著者が言うところの〈もっとも重要な部分、本書を書く動機となった部分〉であり〈さまざまな人生の場面で役立つ一連のシンプルなアドバイス(【序】より)〉が書かれています。


このように、読んでいない本について気後れすることなしに話したければ、欠陥なき教養という重苦しいイメージから自分を開放するべきである。これは家族や学校制度が押し付けてくるイメージであり、われわれは生涯をつうじてこれにどうにか自分を合致させようとするが、それは無駄というものだ。(Ⅲ-1p200)

テクストの変わりやすさと自分自身の変わりやすさを認めることは、作品解釈に大きな自由を与えてくれる切り札である。こうしてわれわれは、作品に関してわれわれ自身の観点を他人に押しつけることができるのである。(Ⅲ-2p224)

読んでない書物についての発言が十分な効力を発揮するためには、意識的かつ合理的な思考を括弧に入れることも必要である。(Ⅲ-3p244)

批評家にコメントされる作品は、したがって、まったくつまらないものであってもかまわない。だからといって批評ができないわけではないのである。というのも、作品は口実にすぎないからだ。(Ⅲ-4p256)


困りましたね。良く捉えれば突き抜けてますが、悪く言えば開き直っているわけでして、そのまま本気のアドバイスと取って良いものかどうか・・・


【結び】になると・・・


というのも、読んでいない本について語ることはまぎれもない創造の活動なのである。目立たないかもしれないが、これより社会的認知度の高い活動と同じくらい立派な活動なのだ。人々はこれまで、伝統的な芸術実践に注意を向けるあまり、それより評価の低い実践をなおざりにしてきた。こうした実践は当然ながらいわば秘密裏になされるからである。(結びp269〜270)

言説をその対象から切り離し、自分自身について語るという、多くの作家たちが例を示してくれた能力を発揮できる者には、教養の総体が開かれているのである。(結びp272)


・・・なるほど、本気のアドバイスということで良いみたいですね。

とすれば、この本に出てくる「本」とか「書物」とか、あるいは「作品」とかを、ネット上(とは限りませんが)にある「速報」「詳報」「解説」に置き換えても、ほぼ成り立つりくつ理屈ですね、なんて思いました。自覚しているかどうかはともかく、既に実践している人も沢山いるようだし(でなければ世の中、こんなにも現在・過去・未来、あらゆる事柄に詳しい人だらけのはずがない)。



ところで、ワタクシはあえて巧妙に避けて抜書きしたわけですが、著者は、実際には沢山の文献を引用してます。で、その注として略号を付してましてですね、

〈未〉ぜんぜん読んだことのない本
〈流〉ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
〈聞〉人から聞いたことがある本
〈忘〉読んだことはあるが忘れてしまった本

 ◎ とても良いと思った
 ◯ 良いと思った
 ✕ ダメだと思った
 ☓☓ ぜんぜんダメだと思った


というモノです。やや、やり過ぎ感があるような気もするんですが、著者の「アドバイス」をより説得力あるものにするための工夫でしょうか。なるべく敵をつくりたくない日本人としては「〈精〉精読した本」とか「△可もなく不可もなく」とかも欲しいなというところですね。


さて、ワタクシ自身は、この本を如何様に読んだでしょう。

著者ピエール・バイヤールさんのように知名度があり、地位も名誉もある人なら正直に書けるのでしょうけど、市井の一般人がそれをしてもね、ということで、答えは秘密です。



最後に、再び読書週間について。

 そして『読書週間』は、日本の国民的行事として定着し、日本は世界有数の「本を読む国民の国」になりました。

 いま、電子メディアの発達によって、世界の情報伝達の流れは、大きく変容しようとしています。しかし、その使い手が人間であるかぎり、その本体の人間性を育て、かたちづくるのに、「本」が重要な役割を果たすことはかわりありません。

 暮らしのスタイルに、人生設計のなかに、新しい感覚での「本とのつきあい方」をとりいれていきませんか。



日々それなりに増え続け、気がつくと本棚から溢れている本の山を見ていると、確かに「新しい感覚」が必要なのかもしれないなと思ったりする時があります。


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