国会(都議会)が学級会の様だった
君づけは慣例なのだろうか。子どもの様な気分の会議で、子どもの様な議員が子どもの様な問い詰めで悦に入る。
まさか全国放送ではないよな?
東京都だけで恥を忍ぶなら、それで良いのかといえば疑問ではあるが、全国放送よりはましだ。
私に対する迫害と虐殺は、政治家やそれを利用する者が音頭を取っているらしく、国会に潜む奴等を眺めながら、トップ議会ショーに笑った。
私をターゲット利用して優秀な闘牛を育成し、闘牛ショーをさせ、闘牛を高値で売却する金亡者は、実に頭がキレる。
実力者をマネしたら、強くなると睨んでの計算だ。
例え、見ためだけでも、実力者の振るまいのマネで、こいつはデキル!と誤解されるからだ。
錯視ってやつだ。自前の闘牛らの御輿たちも雇い、スパイ工作も怠らない金や人の使い方に長けている。
どんなに実力者であっても、虐殺や迫害で弱り果てるのは理解できるだろうか。それで実力者に勝ったつもりでも、実力が有るふりのモノマネでは、いつまでも着ぐるみの闘牛だ。
私は闘牛ではない。一人しかいない文人芸術家だ。誰かを尾行したり監視したり虐殺したりする余裕は無いし、それに意味を見いださない。
自分より実力者であるなら師匠と仰ぎ、周囲に対する挨拶程度の礼儀は示せる。距離感くらい分からないと、良い作品が作れないのは理解できるだろうか。
贈り物で人付き合いをしない家庭だが、学校や社会で学んで来たので人付き合いは普通にできる。友人の誕生日や祝い事には何か贈った。私を責める筋合いが無い奴等は、もはや友人とは言えず、昔の知人程度だろう。
昔の知人が何を言おうと、その人の内面までコントロールできないので、こちらは静観だ。
私の方は、言いたい事を言っているだけの文人芸術家として恥じないレベルでブログに発表し、コメントも書き込み自由にしている。書き込み制限は一切していないので、異論があれば書き込み大歓迎だ。広告に関しては対処法が少し違うが、私の文章や作品への批評や意見は自由だ。
試しにコメントを残してみては?悲しいならそう書けば良いし、嫌いならそれを書けば良い。
ただ、私はコメントの為に何かを書いてはいないので、私を操作しようとマインドコントロールゲームを仕掛けないでもらいたい。
裁判の様な誘導尋問は姑息で嫌いだ。
我田引水も止めてもらいたい。
言葉盗みも嫌いだ。
書けないなら書くな。
学生でしかないなら、師匠を敬え。
着ぐるみや張りぼてで光を浴びたいなら、衣裳に金をかけ、TVで阿呆を演じろ。気づかれても、可哀想に…と憐れんで貰えるからな。