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売れない作家の日本定点観測

ゲマインシャフトがニューファミリーを生み出し、ニューファミリーはなんとも言えない倦怠を産んだ

2016-04-01 17:41:27 | 日記
http://potato.2ch.net/test/read.cgi/bizplus/1459383583/-100

日本でも1968年に学生や労働者が蜂起しましたが、政府に鎮圧されて開放に対する肯定的な関心は挫折しました。その複雑骨折の痛みが歴史の中で古いゲマインシャフトと折り重なってパイ生地のように層を形作り、過去の記憶がありのままの形で後世に伝わることはありませんでした。国民を勇気づけ団結させる意志は、言葉としては残されておりますが、実感としては失われました。日本に残されている江戸時代の記憶は、維新を経て近代化の亢進した東京の風習や伝統が文学や映画といった形となって歪んで伝わったものと認識しますが、大人同士のコミュニケーションと、大人と子供のコミュニケーションには差があると思われますが、子供の頃に強く感じたなんらかの出来事が、大人になる過程で栄養分が発酵して個人の資質が質的に変化することは十分あり得ることです。そういった思い違いが個人や家庭、地域や社会全体に層のある厚みを形作り、時間的進行が民族や国民国家に昆虫のコンプリート・メタモルフォーゼスがごとく、なんらかの変化を促します。個人的に伝達しているむかしの記憶は、大日本帝国の時代を遡ることはありませんが、山中貞夫監督「人情紙風船」に出てくる江戸の長屋は維新を経て近代化の恩恵を受けなかった東京のプロレタリアの倦怠や諦念が前景化していると認識しますし、黒澤明監督「七人の侍」は大日本帝国の敗北を受け入れるための避難処置だと感じますが、21世紀も先の見通せるこの時代にモノクロの映像を消費していますと、江戸時代の紙と木と竹で作り上げた消費都市と、鉄と火薬の匂いが立ち込める終戦を挟んだ時代とではやはり質的になんらかの変化があったのだろうと推測しますが、核心は後世に伝達することなく忘却されたと認識します。ですから、言葉に出して示せることは、ああした映像の生まれた背景と、生み出した人たちの事情を察するに留まります。江戸時代の古いゲマインシャフトはもう名前しか残されていませんが、大日本帝国の核心は、当時の修身教育にあったと勘ぐります。孔子の生み出した忠孝仁義を基本とする儒教は中国から日本の古代に伝わり、中国自身の歴史的解釈の変化と共に、日本でも相互に、あるいは独自に変化し、大日本帝国の記憶に据え付けられた礎です。実は極まれに、その派生である水戸学的な情熱の持ち主と街頭ですれ違うこともありますが、コミュニケーションは生まれず悲哀の嘆きが感得されます。彼は置き去りにされたのですから。そうは言っても、食べて飲んで生活しなければなりませんし、彼自身も維新を経て近代化の促進した東京を江戸時代だと誤解しているとも連想しますが、第二次世界大戦が日本側の敗北で終了し、焼けだされた都市部の市民があえてデカダン的堕落に身を乗り出し、空襲で生まれた焦土の地で修身教育の血糊を酒で濯いで、酔っぱらいと娼婦は瓦礫の上に溢れました。しかし、酒をいくら飲んでも人生に実りはないと気づく遅い青春時代から道は枝分かれします。一つの道は物質的に豊かな都市へ、もう一つの道はニヒリストのブルジョア学生が繰り広げる熱い闘争へ、いま一つの道は職工や労働者といったプロレタリアや、商店街のプチブル的商人や、アグリビジネスに携わる農夫といった者達の暮らす古いゲマインシャフトの荒蕪地へ続きます。この荒蕪地で自立しようと受験競争が加熱し、大日本帝国の修身教育は不可視になります。この荒蕪地から良い物も悪い物も生み出されました。経済発展を成し遂げたのですから結果的に作柄は良かったといえるのですが、この時の勝利体験で生まれた正規雇用のホワイトカラーの父親と、専業主婦の母親のニューファミリーのイメージが後々までつきまとい、生活レベルは向上し維持はするが、生産年齢人口の厚みを生み出したであろう核心的環境は衰退している、と思われます。ニューファミリーは生産年齢人口の厚みを形作る核心から生まれましたが、なぜか生産年齢人口の厚みを生み出しません。社会的上昇にも限界があるのではないか。ゲマインシャフトはニューファミリーを生み出しましたが、ニューファミリーはゲマインシャフトを生み出さないんですね。修身の時代から個人の時代へ変遷し、夫婦像や社会像といった幻想を放棄してしまったことが原因なのではないか。道行く見知らぬ人がこちらのことを知っているというのは、古いゲマインシャフトの影響なのか、それとも妄想なのかこの場で結論を下すことはできませんが、古いものを捨て去って身軽になることで、得るものも失うものもあったということなのでしょう。この古いゲマインシャフトで生まれる生産年齢人口の厚みが消費都市へ移動しマンションの一室で孤独死するという社会環境は長く続くことと思われます。消費都市での生活は憧憬から習慣にコンプリート・メタモルフォーゼスしましたが、まだ生命力を繽紛とたなびかせて生きているからです。正確な数字ではありませんが、毎年、生産年齢人口の1%はこうして消えてゆくことでしょう。高度経済成長という勝利体験は生産年齢人口の増加に貢献しはしましたが、物質的生産の発達では次の時代の生産年齢人口は生まれないのではないか。良くも悪くも市民の生活は安定し、人は生きようと思えば世帯年収600万円を目指し、死のうとまでは思わなくても生産的労働からは一歩距離を取ろうとする。この国では、プロレタリアやプチブル的商人こそ最たる少子化です。カップリングさえしない。しかし、資本の大義は蓄積だと思われますが、蓄積に成功した富裕層さえも生産年齢人口の厚みと距離を取ります。市民は安寧を求め、政府は苛斂誅求します。近代は賢明で、富国強兵へ進む社会に生産年齢人口の厚みを授肉しました。しかし、鋭い能力の持ち主はこれもコンプリート・メタモルフォーゼスして生産地より飛び去って消費都市へ降り立ち中庸を体得します。世界経済は弱いですが、蝶の飛ぶ姿のように美しいではありませんか。労働者でもあり、消費者でもあることでソニーやホンダの躍進を支えましたが、同じことをしていても時代が変わったという事実に興味関心が向いていないと推理します。しかし同じようなことではなく違ったことを成し遂げようと考えると、どうしても破壊へ向かうのではないか。もしも花束や札束をくれてやろうという思し召しなら、ぜひとも頂きたいところで、お礼の一つでもご披露いたしますが、人を束ねるということは大変難儀なことです。私は経済発展から取り残されましたが、それでもやむなくインターネットで噛み付く人たちを観察しておりますと、このネット空間も崖っぷちに立たされていると感得されます。政府だけでなく、メディアの貴人の方々はそこからさらに一歩前進していると黙考します。こちらからは以上です。

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