風はエーゲブルー・・・にしたい

愛車の307SWのことや、興味のある様々なことをダラダラと書いていきたいです。

教えるってことを、ちょいと考えてみる

2006年06月12日 | お仕事関連
 この前のNHKの番組「プロフェッショナル」で清水商業監督の大瀧雅良氏を扱っていた。印象的だったのは、「いかに生徒達に考えさせるか」ということである。これは「教える」ということをやっていれば、必ず考えさせられる問題で
「教えなければ、わからない」
「でも、教えることを強くすれば、生徒は考えることをやめて、答えだけを求めたがる」「結局、教えられたことが身につかない」
という、悪循環に陥りやすい。かといって、制約条件として、
「時間が限られている」
「教えるべきボリュームが、あらかじめ決まっている」
「生徒の理解度には、ばらつきがある」
「より突っ込んだ内容を求める生徒もいる」
というものがある。これらを全て満たそうとしたって不可能!なのは当たり前なので、優先順位として最下位の「より突っ込んだ内容」を犠牲にするわけで。まあ、これは「どうせ一回に教えすぎても、身につかない」という経験則もあるわけで。
 幸いにして、自分の場合は学校ではなく、文科省の学習指導要領もなく、自分で学習内容を決め、時間を決め、教えるというフリーハンド状態なので、まだ楽ではある。んが、常にイレギュラーというものはあるわけで、なかなか難しい。
 例えば、パソコン関係の知識、技能というのは「これこれができること」という条件付けが難しい。具体的には、「日本語入力が出来ること」と言っても、これがタッチタイピングできるレベルから、一本指打法で、キーの位置を探しながら、一文字一文字打つレベルまでのピンキリなわけで。実際に「最低限パソコンは使えること」としたら、マウスもろくに操作できない人がいて、マジで切れそうになったことが・・・反省。
 「教える」ということは、悪いけれど「教えられる」こと以上に、貴重な経験をもたらしてくれる。考えること、経験の宝庫という感じ。でも、世の教員の方々は、多分そんなことを感じる間もなく、ひたすら文科省の学習指導要領とかにおっかけられて、日々が終わっていくんだろうなあ。
 教育現場の問題が言われ続けているんだけれど、教える方と教えられる方、いったいどちらが哀れな被害者なのか。本当は、どちらも制約条件の中でもがき続けている被害者なのでは?などと考えてしまう。

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