家康の海外交易(2)
朱印船に使われた船は、主に数百トンの中国式ジャンク船だった。
後には、西洋船の構造を取り入れた船も用いられている。
購入品は中国産の生糸や絹織物、陶磁器、紅茶それと東南アジア産の香材や香辛料だった。
代金は銀で支払われた。
日本からは銅、硫黄、刀剣、工芸品などが売られた。
当時、日本は世界の銀産出量の3分の1を占める、銀産出大国だった。(黄金の国、ジパング)
これらの交易を背景に、多くの日本人が東南アジアに渡った。
その数、10万人を超えたという。
各地に日本人町が作られ、タイのアユタヤ、ベトナムのフエ、ルソンのマニラなどに
数千人の日本人が暮らしていた。
これらの交易ネットワークには、ヨーロッパ列強が入り込んでいた。
最初に現れたのは、ポルトガル人だった。
ヴァスコ・ダ・ガマにより喜望峰回りのインド航路が発見されると、ポルトガルは
東南アジアの香辛料を求め、多くの武装商船隊を送り込んだ。
そして、現地の勢力を駆逐し、各地に要塞を築き、商館を立てた。
16世紀初めにはゴア、マラッカを占領し、モルッカ諸島(香料諸島)をおさえる。
そして、リスボンからモルッカ諸島までの制海権を確保する。
その航路は“スパイス・ロード”と呼ばれた。
さらに、ポルトガルは東アジアにも進出し、東アジアの密貿易ネットワークに乗り、活動する。
彼らは、キリスト教の布教と貿易を一体のものとして行った。
16世紀末には、日本にも宣教師と共に、日本の銀を求め、貿易船が九州各地に来航する。
参考図:Wikipedia:「朱印船」