1543年、種子島に鉄砲が伝えられた。
種子島領主の種子島時堯は刀工に、鉄砲と火薬の製造を命じた。
それらは翌年には完成する。
火縄銃国産第一号である。
この製造法は日本各地に伝えられた。
そして、近江国友と泉州堺が一大生産拠点になる。
各地で戦いを繰り広げていて戦国大名は、争ってこの新兵器を求めた。
鉄砲は瞬く間に、全国に普及していく。
1570年代の各大名の鉄砲装備率を下の表に示す。
表からもわかるように、織田信長は特に鉄砲に強い関心を示した。
1568年、信長は上洛すると、堺に2万貫の矢銭を要求した。
堺は三好三人衆を頼って、矢銭を拒否する。
信長は三好三人衆を倒し、堺に侵攻、制圧する。
信長は、堺という鉄砲の流通と生産拠点を押さえたわけである。
そして、石見銀山も管理下に置き、鉄砲の生産に必要な資金も手に入れた。
他の大名は鉄砲を威力のある弓矢として使ったが、信長は革新的な使用法を考案し、戦いの様相を変えていくのである。
参考:「長篠の戦い」鉄砲伝来、二木譲一、学習研究社、1989
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