松本竜助さん告別式、西川のりおが絶叫 (日刊スポーツ) - goo ニュース
脳出血で亡くなった元漫才コンビ「紳助・竜介」の松本竜助さん(まつもと・りゅうすけ、本名・稔=享年49)の告別式が3日、大阪市北区の大阪北玉泉院で営まれた。前夜の通夜から告別式まで古巣の吉本興業が取り仕切った。同社の吉野伊佐男社長は「漫才やり直すんなら(所属に)預かってもよかった。最後は紳助・竜介として送り出してやりたかった」と語った。
吉野社長は、竜助さんが同社を離れた97年にタレントマネジメントを統括する立場にあった。今年迎える50歳を機に竜助さんが島田紳助(50)と漫才を再開する夢を持っていたと聞かされ「残念。吉本の歴史にない新しい形の漫才だった」と、幻となった「紳竜復活」を惜しんだ。
この日の告別式には西川きよし、B&B、ぼんちおさむ、西川のりお・上方よしお、オール巨人や一般ファンら約500人が訪れ、出棺時には、のりおが「竜助ーっ」と22回絶叫し、出席者の涙を誘った。
目の前でコンビ解散の決意を告げようとする相方の内心を察したのか、その役割を引き取るように、松本竜介は「やめよ、もうやめよ」と自ら切り出したという。(紳助談)
紳助・竜介が正式に解散した1985年は、お笑い界の歴史年表において一つのエポックメイキング的な年であった。漫才ブーム以後、急速に覇権を拡大したビートたけしをはじめとする「テレビのニュースター」たちの勃興が、一つの極致に達し、お茶の間全般の共通認識というレベルで、完全に「覇権を認定された」年が実質85年と言えるからである。
3月、それまで「視聴率100%男」の異名を取り、テレビの帝王として君臨した萩本欽一が「欽ドン」「欽どこ」らゴールデンタイムのレギュラー番組を全て降板。9月には、その萩本欽一と並び、長らく「テレビの笑い」の頂上を極めた「8時だヨ!全員集合」が終了。
半面、4月には、90年代以降バラエティの主流となった「ドキュメント型お笑い番組」の原型とも称される「天才・たけしの元気が出るテレビ!」がスタート。ちなみにビートたけしは、この4月だけで「たけし」の名前入り新番組をゴールデンとプライムで同時に3本開始し、欽ちゃんに取って代わる「帝王」の地位を不動のものとする。
そして10月調査のNHK「好きなタレント調査」(いわゆる好感度調査)で、男性部門の1~5位を全てお笑いタレントが独占という、空前絶後の結果が発表される。1位明石家さんま、2位ビートたけし、3位タモリ、4位萩本欽一、5位とんねるず。前年まで3年連続1位(7年連続2位以上)の萩本欽一は、後に「ビッグ3」と称された3大勢力にあっさり定位置を奪われ、翌年には上位10傑から姿を消す。
その萌芽は5年前の漫才ブーム前後に遡るにせよ、これらは、単に一部のタレントが旬とかブームを迎えたというより、放送演芸の世界において、ある種の秩序が確立した時期である。政治体制になぞらえて言うなら、これ以後をいわば「85年体制」と言ってよいと思う。
あれから20年。笑いの形が多様化し、新たな感覚のタレントも何組となく登場して、ネタの質や笑いのエネルギーでは大御所たちを凌ぐ存在が日々茶の間を賑わす今にしてなお、「85年体制」そのものが崩壊したとまでは言えないのが事実である。そして「ビッグ3」と称されることはなかったものの、島田紳助にしても、間違いなく「85年体制」下の「超大国」の一角である。
世間的な意味では「天下を取った」とされるその時期に、天下を取ったとされる「大国」の一角が、覇道を駆け上がってきた拠り所の「笑いの先端にいる自ら」に引導を渡し、または見切りをつけていたことは興味深い。紳助だけではなく、ビートたけしも、まだ「元気が出るテレビ」開始前の1月、38歳の誕生日の「オールナイトニッポン」で既に、トップ芸人としての自分の終焉について踏み込んだ持論を語り、ファンに衝撃を与えている。
が、それ以後の島田紳助やビートたけしの活躍のあり方は周知の通り。単なる「一お笑い芸人」「一出演者」の枠を超えた次元に世界を拡げ、今もって磐石な支持を獲得している。笑いの「85年体制」とは、笑いの「超大国」が「笑いの先端におけるリーダーとして君臨した」歴史というより、むしろ「先端の笑い以後」に活路や権益を見出し、覇権を維持し続けた歴史という色が強い。「先端」に見切りをつけたからこそ、これほど長期間・高齢化した芸人が頂点に座り続けられたという意味では、そのことこそが「85年体制」の本質と言っても良いのかも知れない。
実際には、漫才ブーム終焉後「85年体制」までの時期においても、既に相方に比べれば著しく不遇だったにせよ、紳助・竜介の解散は、覇道を極めた「時代の先端」の一角が、体制の転換点において、過去の遺物として埋葬された象徴的な出来事であった。「やめよ、もうやめよ」と自ら切り出したというその日から20年余り。49年という生涯は確かに短すぎる。でも同時に、過去の遺物として歴史を眺め続けた時間の長さにも、胸が詰まるものはある。
脳出血で亡くなった元漫才コンビ「紳助・竜介」の松本竜助さん(まつもと・りゅうすけ、本名・稔=享年49)の告別式が3日、大阪市北区の大阪北玉泉院で営まれた。前夜の通夜から告別式まで古巣の吉本興業が取り仕切った。同社の吉野伊佐男社長は「漫才やり直すんなら(所属に)預かってもよかった。最後は紳助・竜介として送り出してやりたかった」と語った。
吉野社長は、竜助さんが同社を離れた97年にタレントマネジメントを統括する立場にあった。今年迎える50歳を機に竜助さんが島田紳助(50)と漫才を再開する夢を持っていたと聞かされ「残念。吉本の歴史にない新しい形の漫才だった」と、幻となった「紳竜復活」を惜しんだ。
この日の告別式には西川きよし、B&B、ぼんちおさむ、西川のりお・上方よしお、オール巨人や一般ファンら約500人が訪れ、出棺時には、のりおが「竜助ーっ」と22回絶叫し、出席者の涙を誘った。
目の前でコンビ解散の決意を告げようとする相方の内心を察したのか、その役割を引き取るように、松本竜介は「やめよ、もうやめよ」と自ら切り出したという。(紳助談)
紳助・竜介が正式に解散した1985年は、お笑い界の歴史年表において一つのエポックメイキング的な年であった。漫才ブーム以後、急速に覇権を拡大したビートたけしをはじめとする「テレビのニュースター」たちの勃興が、一つの極致に達し、お茶の間全般の共通認識というレベルで、完全に「覇権を認定された」年が実質85年と言えるからである。
3月、それまで「視聴率100%男」の異名を取り、テレビの帝王として君臨した萩本欽一が「欽ドン」「欽どこ」らゴールデンタイムのレギュラー番組を全て降板。9月には、その萩本欽一と並び、長らく「テレビの笑い」の頂上を極めた「8時だヨ!全員集合」が終了。
半面、4月には、90年代以降バラエティの主流となった「ドキュメント型お笑い番組」の原型とも称される「天才・たけしの元気が出るテレビ!」がスタート。ちなみにビートたけしは、この4月だけで「たけし」の名前入り新番組をゴールデンとプライムで同時に3本開始し、欽ちゃんに取って代わる「帝王」の地位を不動のものとする。
そして10月調査のNHK「好きなタレント調査」(いわゆる好感度調査)で、男性部門の1~5位を全てお笑いタレントが独占という、空前絶後の結果が発表される。1位明石家さんま、2位ビートたけし、3位タモリ、4位萩本欽一、5位とんねるず。前年まで3年連続1位(7年連続2位以上)の萩本欽一は、後に「ビッグ3」と称された3大勢力にあっさり定位置を奪われ、翌年には上位10傑から姿を消す。
その萌芽は5年前の漫才ブーム前後に遡るにせよ、これらは、単に一部のタレントが旬とかブームを迎えたというより、放送演芸の世界において、ある種の秩序が確立した時期である。政治体制になぞらえて言うなら、これ以後をいわば「85年体制」と言ってよいと思う。
あれから20年。笑いの形が多様化し、新たな感覚のタレントも何組となく登場して、ネタの質や笑いのエネルギーでは大御所たちを凌ぐ存在が日々茶の間を賑わす今にしてなお、「85年体制」そのものが崩壊したとまでは言えないのが事実である。そして「ビッグ3」と称されることはなかったものの、島田紳助にしても、間違いなく「85年体制」下の「超大国」の一角である。
世間的な意味では「天下を取った」とされるその時期に、天下を取ったとされる「大国」の一角が、覇道を駆け上がってきた拠り所の「笑いの先端にいる自ら」に引導を渡し、または見切りをつけていたことは興味深い。紳助だけではなく、ビートたけしも、まだ「元気が出るテレビ」開始前の1月、38歳の誕生日の「オールナイトニッポン」で既に、トップ芸人としての自分の終焉について踏み込んだ持論を語り、ファンに衝撃を与えている。
が、それ以後の島田紳助やビートたけしの活躍のあり方は周知の通り。単なる「一お笑い芸人」「一出演者」の枠を超えた次元に世界を拡げ、今もって磐石な支持を獲得している。笑いの「85年体制」とは、笑いの「超大国」が「笑いの先端におけるリーダーとして君臨した」歴史というより、むしろ「先端の笑い以後」に活路や権益を見出し、覇権を維持し続けた歴史という色が強い。「先端」に見切りをつけたからこそ、これほど長期間・高齢化した芸人が頂点に座り続けられたという意味では、そのことこそが「85年体制」の本質と言っても良いのかも知れない。
実際には、漫才ブーム終焉後「85年体制」までの時期においても、既に相方に比べれば著しく不遇だったにせよ、紳助・竜介の解散は、覇道を極めた「時代の先端」の一角が、体制の転換点において、過去の遺物として埋葬された象徴的な出来事であった。「やめよ、もうやめよ」と自ら切り出したというその日から20年余り。49年という生涯は確かに短すぎる。でも同時に、過去の遺物として歴史を眺め続けた時間の長さにも、胸が詰まるものはある。