★第9次 21世紀の朝鮮通信使 ソウルー東京 友情ウオーク      (2023・4・1~5・23)★

ソウルから東京まで(約2,000㌔)、毎日30㌔の道を日本人・韓国人・在日韓国人ウオーカーが共に歩き日韓交流を深めます

4月7日 水安堡ー聞慶邑(24㌔)

2009-04-07 22:29:06 | 朝鮮通信使ウオーク
4月7日

いよいよ韓国内の朝鮮通信使ルートのハイライト「鳥嶺越え」だ。
冷え込みはなく朝の気温は12℃。
9時スタート。
のどかな山間の農村の風景が続く。
30分ほど歩いた農村に並ぶ石碑の前で宣さんが解説。
「ここが昔、安堡といわれた場所です。朝鮮通信使は先ほどの温泉地、水安堡ではなく
ここに宿泊しました。この場所は昔はおおきな集落でした」。
私も実は「水安堡」と「安堡」の位置を同一の場所だと思っていた。
韓国の地名についての解説書は日本語の本はないようで、ど同一視していたのだ。
10時半、登山口の公園で休憩。
最初はゆるやか、だんだんきつくなる上り道を一歩一歩足を進める。
約1時間で峠のゲートに着いた。
2年前はだいぶ「きつい」といって、あえぎながら上った人が多かったが、今回は比較的たやすく
峠にたどり着いた感じだ。
聞慶市の人が出迎え、案内地図をみながら説明をしてくれる。
「朝鮮通信使が通った道の中で、昔の雰囲気を一番残している場所です。聞慶市としても保存に力をいれて
います」と話してくれた。
文禄慶長の役で、豊臣軍が攻め入った時に、朝鮮軍の将軍がここを見捨てた逸話は有名だ。
その後、三つの石造りの関門と石垣を作ったわけだ。
峠の関門は「第三関門」で、狭い関門をくぐると、芝生が広がり、春の山の雰囲気に覆われていた。
このノンビリムードとかつての厳しい戦いのイメージにはギャップが大きく、昔に思いをはせようとしても、
なかなか結びつかないのが実情のようだ。
石が転がる山道はまさに古道の雰囲気がひろがる。
この道はまた、ソウルへ科挙試験(官吏登用試験)のため上京する人々にとっても重要な道だった。
ところどころに小石を積み上げた「塔」がある。
「ドルムジ」と呼ばれ、科挙試験を受ける人々が小石を積み上げ「合格祈願」した。
今は受験生の親たちが子供の合格祈願のため、白い和紙に祈願内容を書いて石の間にはさみ石を積み上げている。
ハイカーがおそろいのユニフォームで上がってくる。
韓国のハイカーは服装にも懲り、きっちりした格好のいいスタイルが多く目立つ。
第二関門を過ぎると屋外授業の女子中学生と一緒になる。
「アンニョンハセヨ」と呼びかけると、「こんにちは」「ナイスツーミチュー」などの日本語、英語を、混ぜ合わせて
かえってくる。明るい屈託のない女の子たちだ。
北朝鮮の衛星発射の ニュースが広がっているためか、男の子の一人は「統一するなら北朝鮮よりイルボン(日本)
の方がいいよ」という子もいた。
第三関門近くには一本の桜の花が満開。
ここには韓国の時代劇の大掛かりなセットが作られれいる。
韓国時代劇ファンの私としてはとても魅力のある場所。
ちょうど「世宗大王」の王宮セットでは、一人は王座に座って撮影してもらえるというので、早速靴をぬいで、
セットのスタッフに撮ってもらった。
前回と同じ「ムックパッブ(青マメにそば粉をいれたうどん風の食べ物」を食べて、かつて故朴大統領が小学校の
先生として勤務した時に住んでいた場所に立ち寄り、ゴールの「冠山之館」のい午後3時50分に到着。
後ろには越えてきた鳥嶺の山々がそびえる。
中学校の構内にあるこの昔風の木造建築は、朝鮮時代には中央官僚が出張してきた時に泊まる場所として
使われた「客舎」。
聞慶邑長の金キョンウさんが迎えてくれた。


山合いの畑は傾斜がきつい


きつい上り道では、日韓のウオーカーが力をあわせて峠を目指した


このウオーク最大の難所、鳥嶺峠の関門を越え、慶尚北道に入る


白いモクレンの花が、まだ枯れ木の山を背に宝石のように光って見えた


峠越えした山道は昔の雰囲気が残る古道の雰囲気を残していた


遠足の女子中学生たちと、日本語、韓国語、英語を混ぜ合わせて話して下りの道を歩いた

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