日南娘(ひなむすめ)

宮崎をアピールできたらいいな

自然体で生活していきたいなーー。
      

「明日に架ける橋」

「500マイルも離れて」

『戦争の惨禍 忘れない』

2010-08-08 14:18:51 | Weblog

今日の宮日新聞に心に残った記事がありました。

皆さんも何か感じてもらえれば、うれしいです。



終戦直前の1945年7月31日午前、宮崎市佐土原町に米軍戦闘機4機が飛来。

8両編成の機関車に無数の銃弾を浴びせ、乗客の命を無情に奪っていった。

車掌補として乗務していた鹿児島県日置市、宮下ミチさん(81)が7日、現場を38年ぶりにおとずれ、

線路脇に花を手向けた。宮下さんは「これが最後の慰霊になるかもしれない。戦争の現実を、若い人に

ちゃんと知って欲しい」と65年前の忘れられない記憶を静かに語った。

             
            

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「車外退避!車外退避!」広瀬駅(現佐土原駅)を通過して程なく、空襲の知らせが入り列車は緊急停車。

東の太平洋上から4機のグラマンが低空飛行で近づいてくる。宮下さんは乗客を非難させようと

声を張り上げた。

パイロットの顔が見えるほどの距離から機銃掃射の弾丸が降り注ぐ。車輪に跳ね返る音が「ピンピン」と

不気味に響いた。機影は旋回し、攻撃を繰り返す。「もう、だめだ」と死を覚悟しながら、車輪の陰に身を伏せ

祈り続けた。 

すぐそばには戦闘帽をかぶり、黒いカバンを肩に掛け、ゲートルをまいた凛々しい青年が同じように

身を潜めていた。突然、その青年が口から血を吐きながら「車掌さん・・・・・」と力なく寄りかかってきた。

どうすることもできず、息絶えた青年の体を、そっとその場に寝かせた。

15分間続いた恐怖の後、客車から男の子が小さな妹を抱いて降りてきた。

「お母さんは車内にいる」と言うので、確認すると、辺りは血の海。いすのそばには、数十発の

銃弾を背中で受け止め、何かに覆いかぶさるような格好のまま、絶命した女性の姿があった。

「一人で銃弾を受けて、あまりにもかわいそうだった」


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宮下さんは自分の腕の中で死んだ青年が頭から離れず必死に探し回り、空襲から27年後に

宮崎市高岡町の赤池義春さん(当時16)だったことを突き止めた。

墓参りを済ませると、スッと肩の荷が降りたという。


戦後65年。

あの日と同じ夏空の下、惨劇の地に立ち、静かに手を合わせた。

犠牲者十数人の冥福を祈った後、「心が和みます」と穏やかな顔を見せた。

「あの恐ろしさは、今も日々よみがえってくる。なんであんなばかな戦争をしたんだ」と宮下さん。

心の傷は、時が癒してくれた。しかし同時に、当時を知る人はもう数えるほどに減った。

その現実に恐怖を感じる。

「戦争が忘れられていくことが、一番怖い」と。








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