【麻薬】パチンコ依存【癌】

米国政府の調査で麻薬、癌といわれているギャンブル・マシーン。パチンコの問題で調べた事、考えた事を書いていきます。

ギャンブルの動機と関与・・・⑨

2010年02月17日 | パチンコ

合理的な依存症の理論

経済学者Gary Beckerと同僚 [172-174]によって定式化された合理的な依存症の理論は、中毒性の商品の消費に標準の経済学の理論を敷衍しています。
理論は経済学者の間で広く引受けられて、修正を受けるのと同じくらい精緻化されてきましたが、経済学の学者の中には懐疑的な者もいます[176]。
その理論は、さまざまな中毒性の行動の中でギャンブルに適用されました [177-179]。
しかしながら、それがおそらくいくらか直観に反しており、経済学分野の外部のほとんどの人々にとって分かりにくい数式で表現されるので、その理論は全体として依存症調査に僅かしか影響を与えませんでした。
合理的な依存症の理論は、依存症は2つの顕著な特徴である、強化と耐性という特徴を持っている消費商品の特定の形態であると主張します:
その理論は、依存症のこれらの特徴を既成の事実と見なして、何故そうなのかという理由については調査しません。
強化は、より大量の過去の中毒性の商品の消費が、現在の消費に関する願望を増大させるとき、作用します。
耐性は、過去の大量の消費が、商品の消費から与えられた効用を低下させるとき、作用します。
これらの2つの特徴が、共に、中毒性過程を形成し、そこに、より大量の中毒性の商品に対する定期的に増大する欲求が存在します。
この過程は、「中毒性の資本」の蓄積、すなわち、多かれ少なかれ依存症である個人の状態を生み出します。
その理論は、人々がアルコールやニコチンなどの物質だけに中毒となるのではなく、行動も中毒となることを認めます。
中毒性の資本の蓄積には、中毒性の商品を使用する効用にたいして因果関係があります。
短期的には、強い中毒は効用を増大させます。
例えば、アルコール中毒は、アルコール中毒患者が、より多くのアルコールを消費することによって典型的に見舞われる二日酔いを生み出します。
私たちは、非アルコール中毒患者が支払っても構わないと思っている価格と比較して、酷い二日酔いに苦しんでいるのに、1瓶のワインに進んで非常に高い価格を支払うアルコール中毒患者を思い浮かべることができます。
ギャンブルに関して、私たちは失われたものを取り戻すこと(「追跡」として知られている行動)に望みを託し、多額の負債を負いながら大穴の馬券に賭ける問題ギャンブラーを思い浮かべても良いかもしれません。

何人かの中毒者は、引き延ばされた満足以上に即時性を好み、そして、彼らは依存症であることの否定的で長期的な結果を大幅に割り引いて考えます。
したがって、彼らは、将来の非効用より現在の効用にはるかに関心があります。
合理的な依存症の理論はそのような人々の行動を「近視眼的依存症」であるとみなします。(それは、合理的な依存症と異なっています)。
依存症の近視眼的な特徴は、心理学者によく知られており、ギャンブルを含む中毒性の行動に関するほとんどの理論の一部となっています。
合理的な依存症の理論以前では、近視眼的な依存症は、消費の中毒性のパターンに関する経済学上の普通の説明でした。
中毒性の物質の現在の消費の否定的な将来の結果(非効用)を、中毒者は、十分には自覚していないと想定されました。
これまでのところ、叙述されたような合理的な依存症の理論の推理は、それほど論争となっていません。
しかしながら、その理論は、以下の仮定と論理的なステップで論争となります。
その理論は、近視眼的な中毒者と異なって、完全な情報に基づいて完全に合理的な選択をする中毒者がいると想定します。
これらは「合理的な依存症」です。

したがって、効用を最大にする合理的な選択パラダイムは、重度の中毒者の消費形態にも有効であると主張します。
一般に、個人は、合理的で、積極的で完全に知識があると想定されます。
彼らは、依存症であること、及び、中毒性の商品を用いることによる将来の非効用の可能性、例えば健康を損なうこと、仕事を失うこと、離婚などのリスクを知っています。
依存症になり、そのままでいるとするなら、彼らは、短期的な効用が長期の非効用を上回ると合理的に判断していることになります。
合理的な依存者は、一定の割合で軽視された、将来のマイナスの効果を含む依存症の結果を完全に熟知しています。
軽視する度合いが大きければ大きいほど、依存症は、より強くなります。
中毒者は、使用の停止は合理的な計算上、否定的結果を悪化させさえするので、現在そして将来の否定的結果にもかかわらず、中毒性の商品の使用を継続します。
離婚や失職などの精神的外傷性の生活上の出来事は、中毒性の商品の効用を増大させ、したがって、依存症への道に人を向かわせるかもしれません。
近視眼的及び合理的な依存者は、中毒性の商品の価格に敏感であると想定されます。
しかしながら、彼らは異なった面に敏感であり、実証的な経済学的な研究をとおして、ある商品への依存が近視的であるか、または合理的であるかに結論を下すことが可能です。
経済的諸条件において、依存症の2つの異なった形式は、異なった短期的、及び長期的な価格の弾性をもたらします。
近視眼的な中毒者は、現在、及び近い将来における価格の変化に敏感です。
価格感度の度合いは、異なったタイプの商品の中毒性に依存します。
遠い将来において何が起こるかは、その人の近視眼的な決定と無関係です。
それと反対に、合理的な依存者は、現在及び近い将来よりも、遠い将来における価格の変化により敏感です。
例えば、タバコの価格が現在から1年後に下がるのが分かっていると想定してください。
合理的なタバコ中毒者は、すぐに喫煙を増やし、その人の中毒性の資本を増大させることによって、反応するでしょう。
合理的ということは、価格が下げられるとすぐに、多くのタバコを吸うことからの効用を最大にするために、価格が低下するまでの期間に、より依存症になりたがろうとすると言う事です。
逆に、遠い将来の価格の上昇は、合理的な中毒者がすぐさま中毒性の資本の蓄積を減少させるようにうながすでしょう。
近視眼的、及び、合理的な依存症には、異なった政策的含意があります。
近視眼的な中毒者は、不完全な情報と効用計算に基づいて行動し、したがって、依存症であることの不利な将来の結果に関しての教育が役に立つでしょう。
合理的な中毒者には、現在のところ潜在的否定的結果に関して知られていることに関する完全な知識があると想定されます。
その結果、例えば、真新しい情報が依存症や治療研究から示されない限り、依存症の危険と乱用するのを止める様々な手法に関して彼らを教育するのは無駄となります。
合理的な中毒者を止めさせようとする努力は、見当違いです。なぜなら、彼らは、自ら中毒者であることを選び、中毒性の商品の使用を中止するなら、より以上に苦しむだろうからです。
したがって、政策措置は、交通事故を引き起こすことによって飲酒運転者が他のものに危害を加えるのを防ぐことなどのように、負の外部性を修正するのに集中されるべきです。

上記で言及されたギャンブルの3つの経済学の研究[177-179]のすべては、ギャンブル(宝くじに申し込み、競馬に賭けること)は、中毒的であり、そして、その依存症は合理的であると示唆する証拠を提示していると主張します。
特に、ギャンブラーが遠い将来において、合理的な依存症の価格弾力性の特徴の性質である予想価格の変化に反応を示すように見えるという、経済学的な分析からのこの結論に達します。
しかしながら、元々が定式化がされ、これらの個々の研究で使用された合理的な依存症の理論は、例えばElster [185]によって、痛烈な批評を受けることがあるので、これらの結果は十分な注意をもって見られるべきです。
例えば、1つの研究は、さまざまな消費財の消費に関するアプローチをテストし、ミルクがタバコより中毒性であるという信じられない結論(有益な依存症の厄介な概念が引受けられない場合)に到達しました[176]。
その結果、このテストは、合理的な依存症の理論に欠陥があることを示唆します。
また、それは、現在の著者を含む依存症とギャンブル研究の分野の多数の学者の意見です[56]。

ギャンブル依存研究への関連性
合理的な依存症の理論には、基本的に欠陥があると想定する理由があります。
その結果、理論がギャンブル依存研究にどのような関連性のものであるか、疑問があります。
【注;糖類などに強い依存性があり、肥満や循環器疾患の原因となっていることは広く受け入れられています。例えば、菓子類ばかりでなく、旅先でお米がどうしても食べたくなったり、毎日食べても飽きないのは何故かという問題があります。食物に依存性があるという事には、文化的な文脈において違和感があるのは否めないが、理論を否定する理由としては弱すぎると思われます。】


レジャーギャンブラー

レジャー研究は経済学、社会学、心理学、および人文地理学から観点を含んでいます。
人々のレジャー選択と行動に、この総合的な研究範囲の焦点があります。
人々は、空き時間に非常に多くの様々な活動をするので、研究される活動は、いろいろな形式のギャンブル、スポーツ、観光、自然散策などのように様々です。
理論上、またしばしば実際上、これらの活動は代用可能であり、そして、レジャー研究に一貫性をもたらします。
人々は、レジャー時間を持ち、様々な可能な活動を選びます。
その結果、レジャー研究は、人々が義務的でなく、自由意志から参加する構造化された活動において、どう限られた時間とお金を割り当てるかに関する研究として記述されています。
これらの研究は、様々なレジャー活動に従事する人々全体としての社会にとっての結果として、その活動の健康への影響をしばしば考慮に入れるので、より広い意味においては、消費者研究と異なっています。
その上、ほとんどの消費者研究は量的ですが、レジャー研究は、しばしば質的手法を使用します。
ギャンブルがレジャー活動として分析的にアプローチされた場合、人々がギャンブルに関して持っているかもしれない動機(職業的なギャンブルや病理学的な衝動)は、関心の範囲に入っていません。
ギャンブルのレジャー研究において、レジャーとしての研究法が、一般に、ギャンブル依存に焦点を合わせた研究以上に、何故、或いはどのように人々はギャンブルするのかということに答えると指摘されます。
通常、ギャンブルのレジャー研究は、個人が時間やお金を費やすことに複数の動機をもっており、ギャンブルの異なった形式には、異なった動機の側面があり、人々のあるグループが他の形式よりギャンブルの特定の形式に引き付けられていることを強調します[96, 98, 186-201]。
、至極当然なこととして、ギャンブルは、人々によって楽しく価値あるものとして知覚された他の様々なレジャー活動から自発的に選ばれているので、研究で明らかにされた動機は、ギャンブルは肯定的な経験を提供するということです:
楽しむこと、他の人々に会うこと、新しい場所を訪れること(カジノ)、興奮、勝ち目、賭けゲームの知的な刺激、そして、日常生活の日常業務の休憩。
米国での娯楽としてのカジノギャンブルの研究に示されたリスト[191]は、ギャンブルに見られる動機の例として捉えられるかもしれません:
1. 学習と評価としてのギャンブル
2. 「rush=麻薬的の効果」としてのギャンブル
3. 自己定義としてのギャンブル
4. 危険負担としてのギャンブル
5. 認識的な自己分類としてのギャンブル
6. 感情的な自己分類としてのギャンブル
7. 競争としてのギャンブル
8. コミュニケーションとしてのギャンブル
レジャーとしての観点は、ギャンブルが経済的意味において過程効用を持っているという、上記に概説された前提に依っています。
通常、人々は、長い目で見れば、ギャンブルで金を儲けれるとは信じていません。
得られる楽しみと経験に価格を支払っても構わないと思っているので、彼らは、損をしそうではあるけれど、それにもかかわらず、ギャンブルをします。
「純粋に」経済的な研究方法が、より抽象的にギャンブル参加の効用価値と機能を探る一方、レジャー研究は、他のレジャー活動に参加するよりむしろギャンブルを選択する動機に焦点を合わせます。
この観点は、後で議論される多くの文化的研究にも存在しています。そこでは、商業ギャンブルは、経験、想像、およびシンボリックな物の消費への強調を伴う現代の脱工業化社会の一部と考えられます。

ギャンブル依存研究への関連性
レジャー活動としてのギャンブルの研究が、過度のギャンブルの問題を指向する調査の補足として非常に必要です。
そのような研究は、人々がギャンブルに参加するために持っている異なった動機を明らかにします。
これらの動機のいくつかが、ある特定の状況でギャンブル依存の原因となる要素であるかもしれません。
現代のギャンブル研究では、以前の明確な「通常」のギャンブルと「病理学的な」ギャンブルの区別は、解消されている思われます。
多くの研究者が、一時は重大なギャンブル問題を持っている個人が、その後、ギャンブルをうまく制御しているか、全くギャンブルしていないと認めています。
したがって、制御されたものと制御されないギャンブル(前者はレジャー活動である)の特徴の調査を進めることは重要であると思われます。

経済的交流としてのギャンブル

物質的なものは何も生産されないという事実によって、ギャンブルの経済機能は、必然的に制限されます。
経済的意味合いで唯一の製品は、産業界において大規模に販売され、厖大な利益を生み、ラスベガスなどのように共同体全体を支えるゲームの体験です。
非営利的なゲームでは、無料でギャンブルの体験を提供し、そして、ギャンブラーの中でお金か貴重品を循環させます。
お金が公正な確率的ゲームの中で循環すると、個々のギャンブラーの勝利と損失は最終的には均等になるでしょう。
しかしながら、貴重品が循環するなら、ギャンブルは重要な再分配としての経済機能を実現させるかもしれません。
いくつかの社会、主に小規模の第三世界社会では、これらの機能は、社会的な制度としてギャンブルを支えており、ギャンブラーがゲームに参加する主要な動機です。
文献的概観と議論は、Binde [92]とWagner [204]を参照してください。
まさしくそのような再分配機能をもつギャンブルの例は、1980年代初期にイギリス人の人類学者James Woodburn [205]によってタンザニアのHadzaから報告されました。
Hadzaは、ビクトリア湖の乾いたサバンナの東南に小集団として生息する狩猟採集民です。
それらの中の主要な倫理的な価値(厳しい環境での生存の為、非常に適応型の価値)が共有されています:
現状において多くの食物や他の価値ある資産を持っている人が、集団の他の者と共有することが求められます。
実際には、この理想は個人が持っているものを保持するという願望と衝突するかもしれません。
Hadzaの男性は、lukuchukoという樹皮から作った円盤をつかってプレーするサイコロゲームで頻繁にギャンブルをします。
それは、偶然性のゲームです。
賭けの対象は、その地域では製造できず、金属製の狩猟用の弓、ナイフ、斧や首飾りなどの、外部から輸入された比較的価値のある者です。
lukuchukoゲームは、急速で、そして何百回も毎日、プレーされることもあります。
各男性は、彼が不要なものを賭け、彼が勝ち取り利用する事が出来るものは保持します。
もし、ある者が非常に幸運で何回も続けて勝つなら、彼が負け始めるまで続けるように他のものによって主張されます。
したがって、もし共有の概念が、例えば、他の者から何かを単純に要求する1人の者によって提起されたなら、社会的関係の緊張なく、ギャンブルは、男性の間の財産を同じ水準にします。
Woodburnは、以下のことと述べます。
「勝利への願望と、ある意味で蓄積への願望が組織的蓄積の可能性に反して直接的に作用することは逆説的です。」(p. 443.4)
現在の著者は、他の場所で[92]、交換の形式として見なされたギャンブルの更なる密接な関係について議論しました。
交換の経済的、人類学的な理論[206-208]を利用して、Binde [92]は異文化でギャンブルとギャンブルへの受止め方を分析して、比較することの基本構想を提案します。
基本構想は、一般化 対 バランスのとれている互恵取引、そして、自発的 対 非自発的な移転としての社会的交換システムのいくつかの基本の特性の識別に依っています。
従って、ギャンブルの再分配機能は、共有の精神がある「非-西洋」社会で主に見つけられます。
現代の西側社会では、交換の基本的形態は、商業市場です。
したがって、ギャンブルは販売され消費される製品になり、そして、随伴する精神は、選択の自由となります。
その結果、重度のギャンブルは、合理的な選択の喪失、すなわち強迫的な行動または依存症を示すものとして考えられると同時に、レジャー及びエンターテインメントサービスの自発的な消費として概念化されます。

ギャンブル依存研究への関連性
主として小規模の前近代社会において、貴重品を再分配するためのギャンブルの機能がはたらいていますが、非営利的なギャンブルの経済を商業ゲーミングの経済と比較することは、より一般的に興味深いことです。
非商業的に運営された公正な偶然性のゲームにおいては、損失、および勝利は最終的には均等な配分となります。
最も強迫的なギャンブラーさえも、そのようなゲームでは時間の損失にすぎません。
失われた時間を取り戻すことは出来ず、お金を失うだけであるため、非商業的ゲームには、損失の追跡の昂進が無いことを意味します。
損失を取り戻そうと追いかけるのは、ギャンブル依存の主な構成要素であるので(或るものはそれを問題のまさしくその本質であるとみなしていますが)、そのような状況でのギャンブルは、過度で非制御な状態になることはほとんどないでしょう。
【注:著者の見解が、究極の希少財である時間の損失を取り返そうとする欲求行動に対する分析の点で不十分であることは否めません。一般的に、ノスタルジックなカルチャーに対する一定規模の欲求や探索欲求が、時間の損失に対する後悔の感情を背景として追及されることは日常的に観察されることです。】
したがって、ギャンブル依存の現象は、主として商業ギャンブルや、不公平に運営されるか、または最終的に技術要素が成功の可能性を分けるような非営利的なギャンブルにおいて存在するかもしれません。
これが真実であるかどうかは、異なった種類の商業的または非商業的が区別されたギャンブル依存普及調査において、実証的に検証する事が出来ます。
ゲームにおける動機と関与が、商業的および非商業的にアレンジされたゲームの間で異なるかどうかは、関連性のある実証的問題です。