【麻薬】パチンコ依存【癌】

米国政府の調査で麻薬、癌といわれているギャンブル・マシーン。パチンコの問題で調べた事、考えた事を書いていきます。

ギャンブルの動機と関与・・・⑪

2010年02月27日 | パチンコ

文化的な研究方法

1952年に、2人のアメリカ人の人類学者が「文化」という概念の164の異なった使用のリストを集大成しました[242]。
文化に関する新しい考えが認知的人類学の分野で最も著しく明らかになったので、今日、そのリストはさらに長くなるでしょう。
基本的な定義は、文化は、時間とともに蓄積され、複雑で社会的な調整と様々な社会的システムを可能にする社会的に伝えられた知識であるということです[243]。
文化は、物、出来事、および関係に共有された意味を与えることです。
その結果、文化的な研究方法をギャンブルに取ることは、ギャンブルに関連する、集合的な意味、価値および道徳に関係があります。

遊技とギャンブル

遊技に関する人類学的で民族学的な文献は広範囲にわたります[244]。
また、遊技の対象は教育学と動物行動学でカバーされています。
研究の基本仮定は、遊技には、個人やグループにとって有益な機能があるということです。
遊技は、人間の知的な又は物理的な前進を刺激し、社会的文化的な技術の習得を支援し、グループ結合を強化し、興奮と娯楽を与え、したがって、健康と幸福を助長します。
ここではこれらの一般的な機能については議論せず、焦点は、ギャンブルが遊技観点からどう見られるかにあります。
間違いなく、遊技で最もよく知られている論文は、ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)です(オランダ人歴史家のジョハン・ホイジンガによる文化における遊技の要素の研究)[245]。
ホイジンガの論文の名声は、先鋭的なメッセージである、
まさしく文化と社会の基礎にはまさしく遊技があり「文明は、遊技として起こり、展開する」、によります。(p.i)
このようにして遊技は、非常に肯定的な光の中で見られ、そして、ホイジンガは、社会の歴史的な発展の様々な段階と次元に亘ってそれを探究します。
遊技は、文化と社会の発展に必要な創造性、エネルギー、および精神的な雰囲気を提供すると主張されます。
十分当然のこととして、文明の勃興と発展へのこのような単線的な研究方法は、バランスのとれている読者にとって不自然なこじつけと思われました。
望ましくは、この本は、文明の起源の説明としてみなされるのではなく、人間の生活における、遊技と想像力の重要性に関するインスピレーションの源としてみなされるべきです。
ギャンブルに関して、ホモ・ルーデンスは、ほとんど言及しません。
ついでとして、ギャンブル・ゲームは、文化の発展にとって、「非生産的であり」、「生活と心に何も加えることのない、無益なもの」(p.48)であると主張されます。
ホイジンガは、遊技には物質的な利益は無いと述べ、「偽りの遊技」の存在を悲しみ(p.13)、おそらく、純粋な遊技ではないものとしてギャンブルの概念を示しています(p.205)。

遊技に関する別の著名な論文は、フランス人知識人のロジャー・カイヨアの「遊びと人間」です[68]。
ホイジンガは、文明が遊技で築き上げられると主張しますが、カイヨアは、より慎重です。
彼が「遊技の精神は文化に根本的です」と主張しますが(p.58)、「ゲームとおもちゃは、歴史的には文化の残滓である」と加えています。
初期の文化的背景の「遺物」として、ゲームは現代社会で新しい機能と意味を帯びています。
しかしながら結局のところ、因果関係を決定するのは困難であるかもしれません:
「…遊技か真面目さのどちらが先行したかという問題の知識は、無駄なものです」 (p. 64)。
カイヨアは、ホイジンガより分析的に注意を払い、遊技の形式としてギャンブルを受け入れています。
彼は遊技を4つの主なカテゴリに区別します:
アゴン(競争)、アレア(偶然)、シミュレーション(物真似)、およびイリンクス(眩暈)。
これらのカテゴリに関する例は、それぞれ、チェス、ルーレット、劇場、およびバンジージャンプに関連するだろう。
遊技の4つのカテゴリは、paidiaとludusの間にわたって、すなわち、自発性、喜び、および即興性から、人為的な複雑さと文化的な体系化の程度に依って8区分に細分されます。
カイヨアは、(ホイジンガはそうしましたが)、遊技は、世界中の社会における普及を説明するような何らかの単一の、基本的な文化的な機能を持つとは仮定しません。
彼は、遊技の非常に多くの機能と異なった分類の面について議論しますが、ここでは、ギャンブルに関する彼の主要な考えだけが関係づけられます。
ギャンブルはアレア(偶然)のカテゴリ、すなわち、偶然性に基づく遊技に属します。
決定論とコントロールの要素を紹介しながら、カイヨアは、プレーヤーには偶然性のゲームに関する迷信深い考えがあるかもしれないと述べます。
これを、彼は、アレア(偶然)の「堕落」と「不正」とみなします(pp. 46.49)。
真のアレア(偶然)を前提として、カイヨアは、「意志の放棄」とは、「したがって、昏睡、憑依、または催眠状態が進行した状態と理解できる」と観察し述べている。
ギャンブルに関して、カイヨアの論文の最も興味深い部分は、競争(アゴン)と偶然(アレア)の間の対比と補完性についての議論です(Ch.VIII)。
階層的な社会と組織には、組織の中での決定性と個人の地位の変化に対する原則が必要となります。
他の者との競争(アゴン)と偶然により獲得される価値が2つの主要原則となります。

偶然の原理は、しばしば世襲に帰することとなり、それ故、カイヨアは、「誕生は、一定の才能と特権を皆に割り当てる普遍的で強制的な宝くじのチケットと同等である」と主張します(p.111)。
その上、偶然の原理に基づく一定のメカニズムは、厳格な社会的体系を別の状態に緩和するために工夫されるかもしれず、その結果、個人に、彼らの社会的地位があがる可能性があると感じるのを許容します。
構造的機能主義的な傾向として、カイヨアは、可能性のゲーム(例えば、宝くじ)がそのようなメカニズムを構成すると主張します。
偶然性のゲームは、持たざる者に、だれでも勝つことができ、一挙に社会的階層を上昇するという希望を提供します。
この非現実的な期待は、向上する具体的な手段も持っていない、さえない状態に耐えるている平凡な者たちを励まします。
並はずれた運、つまり奇跡が必要とされています。
そのような奇跡の希望を常に感じさせてくれるのが、偶然(アレア)の機能です。
それが、偶然性のゲームが繁栄し続ける理由です(p. 115)。

「遊びと人間」の付録で、カイヨアは、多くのレジャーを持っている社会と産業におけるギャンブルを議論します。
そこでは、しばしばギャンブルは、「芸術、倫理、経済、および人生経験さえ」(p.146)に影響を及ぼす文化的な重要性を獲得します。
この影響はそれほど肯定的ではありません。
偶然性のゲームは「労働に置換わる傾向があり」、そして、人々は遊技に熱中し、その結果、「無関心な中毒者」と「永遠の子供」になります(p.147)。

その結果、カイヨアは、持たざる者に希望を提供する偶然性のゲームの構造機能は誇張され、健全な社会に必要な品行と意欲を台無しにするかもしれないと主張していると思えます。
ホイジンガとカイヨアの「ひじ掛け椅子」的な遊技理論の他の主要な貢献は、Eugen FinkのSpiel als Weltsybol[247]と関連する研究[248]への言及であるかもしれない。その研究は、哲学的な観点から、遊技は人間が実存的な自由を経験できる世界のシンボリックな再現を提供すると結論します。
アドルフ・E・イエンゼンのMythos und Kult bei Naturvolker【原始的人々の神話と信仰】の第2章:
Religionswissenschaftliche Betrachtungen[249]【宗教科学の視点からの考察】はホイジンガと同様の観点から遊技について議論します。
Carlo MontgardiniのSaggio sul gioco[250]【遊技についての小論】は、十分に最小限の実証的な内容と様々な考察と理論について議論する芸術と人文科学における、多くのイタリアの学問の典型のごった煮です。
これらの研究のいずれにも、ギャンブルに関しては多くの言及はありません。
現代の学者の中には、ギャンブルを肯定的で慈善活動であると理解することを強調するとき、「大人の遊技」として、あるいは顕著な遊技要素を含むこととしてギャンブルの概念を言い表す人もいます。
これらの影響は、自尊心を促進させることであり、実存的な欲求に役立ち、健康な刺激を供給し [251, 252]、実生活での不安、衝突、不確実性からの逃避を提供し[70]、行動と危険の消費[202]、フロー【ハマリ】の経験[80]、telicやparatelicな状態を楽しみ[253]、実存的な楽観主義を提供する[254]。【注:telic or paratelic:Michael J. ApterのReversal Theoryにおける覚醒や快感の逆転現象】
カジノの設計では、「遊園地」のコンセプトは広く使用されています[255]。
過去20年間に、社会科学および人文科学の分野で、主要なレジャー活動となったコンピュータゲームやテレビゲームによって引き起こされた遊技研究の書き換えがありました。
現代のゲーム研究は、コンピュータゲームやテレビゲームの心理学、社会的コンテキスト、遊技の動機、ゲーム媒体とオンラインゲームに表現される文化的文化的な意味を調査します[256-258]。
ゲーム研究は、理論的に異質で、例えば、初期の遊技理論、人工知能学、物語論、文化研究、社会学、社会的学習理論、および民族学からの要素が組み込まれています。
これまでのところ、ゲーム研究は、ギャンブルに大きな関心を示していません。
コンピュータゲームとテレビゲームは、ギャンブルと精神活性物質として同様に中毒性があるかもしれないと示唆した心理学者もいました。
しかしながら、この見方は疑問に思われています[259]。
オンラインや電子機械でのギャンブルはもちろん、それらの複合的形式の出現のために、現代の遊技研究は将来、ギャンブルにより多く注意を向けるかもしれません。

ギャンブル依存研究への関連性
概して、初期の文化的な遊技理論は、あまり価値のあるギャンブルの研究に貢献していません。
かなり、最も影響力の大きい思想家(ホイジンガとカイヨア)は、ギャンブルを遊技の堕落した本物でない形式であるとみなす傾向があります。
これは期待はずれです。なぜなら、ギャンブルのいくつかの形式は遊技(その単語の広い意味における)の否定しがたい要素を持っています。
恐らく、ギャンブル研究において、文化的な観点以外の遊技に関する観点が、より有益であるかもしれません。
その可能性に関してわずかな考察しかなされていないと思われる為、探究されるべき余地が残っています。
その幾つかのうちの一つは、上段で議論した心理学上の「フロー」の遊技理論です[80]。
探検のなしうる分野には、サイバネティクス遊技理論[260]と人間と動物におけると心理学上の核的情動理論を含み、そのような感情の1つが「遊技」であると示唆しています[261, 262]。
ギャンブルとビデオ/コンピュータゲームのハイブリッド形式が一般的になるなら、現代のゲーム研究はギャンブル依存研究との関連性を増大させることになりそうです。

ギャンブルの宗教的、実存的な局面

多くの伝統的で非西洋の文化では、ギャンブル、宗教、および呪術的な慣習が融合しています[68, 263-266]。
宗教的、呪術的な儀式は、ギャンブルの要素を含んでいるものであり、そして、ギャンブルは宗教的、呪術的な信仰を含んでいます。
また、一方ではギャンブルと、他方では迷信と呪術的な信仰の間の関連が、現代の西側社会にも現れており、ギャンブラーはそのような信仰の多数を抱えています [105pp. 134-5, 267-269, 270Ch. 5]。
呪術的思考(偶然性のゲームに結果は、運命や特殊な幸運の要因、または呪術的な手順によって影響されるとの信念)は、ギャンブル依存問題に関連していると一般的に見なされます。
現代の西側社会における、ギャンブルと宗教及び実存的な問題の間の最終的な連鎖に関して、世論はばらばらです。
通俗的な論説や公的な論争では、ギャンブルは、きわめて世俗的で唯物論的の活動として、また精神的な問題における宗教的な感情や関心との明白な差異としてしばしば表現されます。
ギャンブルの後ろにある原動力は、お金と、お金で買うことのできる物質的所有物と世俗的な威信への欲望であると信じられています。
あるいはまた、ギャンブルは無教育で心の狭い人々によって行われる、浅くて取るに足らない娯楽の形式として見なされます。
そのような見方は、独断的なクリスチャン、文化的エリート、そして左翼または右翼の共感者の中で一般的です。

カトリック教徒と対照的に特にルター派の中のクリスチャンのそのような消極的な考えの結果として、ギャンブルへの参加は通常、形式的な宗教と原理主義信仰における関与の激しさと否定し難く相互に関係しています。

しかしながら、数人の学者が、西側社会におけるギャンブルは実存的な問題に関係しており、宗教性質の要素を含むと主張しました。
例えば、「神秘主義的な状態」[251p. 138]を活性化、「神秘説のわざとらしいムード」[278pp. 359-60]を惹起、「形而上学的、ほとんど神聖な意味あいの占有」[279p. 200]、「神秘的分野の要約」[6p. 26]、「超自然的な結合」の確立[264p. 35]、アニミズム信仰の表出[61, 280]、「超越的、不鮮明な暗闇に向こうの生活の最も深い関心の励起」[281p. 406]が論じられてきました。
「ギャンブルと宗教:友好と紛争の歴史」という表題の論文において、現在の著者は、どの様にギャンブルと様々な社会と歴史上の様々な時期の宗教との間の様々な関係を理解するかに関する理論的モデルを示しています[263]。
ギャンブルと宗教は、一定の共通要素を持っていると主張しています。(未知、神秘、および運命の概念、および突然生活を改善する何か素晴らしい価値を突然授かるイメージ)
多くの伝統的文化では、ギャンブルは多神教的でアニミズム的な宗教と調和して存在しました。
ギャンブルと宗教は、まさにそれらが共通に持っている要素の故に一緒にうまく行きます。
しかしながら、宗教的、そして超越的な事柄に関する権威を主張する一神教は、ギャンブルを糾弾する傾向があり、そして、ギャンブルが一定の宗教概念と経験に邪悪な代替案を提供するという考えによってこの非難はあおられました。
その結果、ギャンブルと宗教が共有する要素は、紛争の源となってきました(p. 145)。
したがって、現代の世俗的な西側社会では、ギャンブルは、実存的で宗教的な性質の事柄に関する関心によってある程度動機づけられています。
現在の著者は、そのような関心がどう賞金獲得者に関するスウェーデンの新聞記事の中身を構造化するかを探究してきました[44]。
そのような記事(約2000の項目)に関する大標本の研究では、4つの文化的な話題が認められました:
「品行と性格のテストとしての財、財の社会的な影響、正当で良い世界、運とオカルト」
大当たりの獲得の体験談が、実存的で道徳的な問題に多方面に渡る分野を提供することによって伝統的宗教と民間伝承の衰退によってできた間隙をある程度埋めていると結論付けられました。
宝くじと他の偶然性のゲームに対する関心を刺激することが推定されます。
ブライアン・サットン-スミスというアメリカ人の遊技理論家の言葉では、「偶然性のゲームとギャンブルは、基本的に運命についての扱いに対する宗教的努力の一種であり、一種の実存的な楽観主義である」(p.72)。
ギャンブルには、他の局面がもちろんありますが、故Gordon Moody(メソジスト教派のイギリスの教会と従事しているギャンブル依存問題の大臣)が述べるには、
「ギャンブルのルーツは私たちの一般的な人間の経験の深い所に位置している」[282](p.50)。

ギャンブル依存研究への関連性
ギャンブルの宗教的、実存的な局面の研究は、明らかとは程遠い、一般に認識されていないギャンブルに対する動機を明らかにします。
それらは、ギャンブル依存の危険因子であるかもしれない「迷信的な」信仰などのような良く知られたギャンブル関与の動機と相関を解明しました。
独断的なルター主義やイスラム教のような一定の宗教の支持者によるギャンブルへの参加に対するする嫌気は、公衆衛生観点からみて、ギャンブル依存に対する保護因子です。
したがって、危険を構成する要因とギャンブル依存の防止の調査は、個人の宗教的、実存的な問題の見地を考慮するべきです。


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