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好きな音楽や本、映画などについてのエッセイ

血と暴力の国(ノー カントリー)

2008-07-22 04:31:40 | Weblog
 映画の「ノー カントリー」があまりに素晴らしかったので、原作を読んでみた。
 原作は「血と暴力の国」というタイトル(原題「No country for old men」)。
 原題の意味は「老人の住む国にあらず」と翻訳者が書いている。Not country for old menとしてくれた方が日本人には分かりやすいのではないかと思うが、そういうのはどうでもいいことだ。
 映画は面白いのだが、よくわからなくて、しかし観終わった後ずしりとした余韻があるという感じで、俺にとっては最高の映画だった。
 映画が最後、プチッと電器器具のコンセントを引き抜いたように終わったことについて賛否があるみたいだが、俺的にはこれもよかった。実は映画の最後の方で、トイレに行きたくてしょうがなくなって、早く終わってほっとしたのだった。
 そういう意味でも、もう一度じっくり観たい映画ではある。
 映画の最後の場面は老保安官の語りになるが、この語りの挿入が映画を分かりにくくしてて、唐突なイメージを与えるのだろう。
 ダウンタウンの松本の映画評(シネマ坊主3)だと、「本当はもっとわかりやすい話なのに、わかりにくくしましたね」ということになるんだけど、俺もそう思った。
 しかし、原作を読むと、この映画は原作に忠実に作っているということがわかった。
 この小説は通常の犯罪小説の文脈から逸脱している。
 「ヴェトナム帰還兵のモスは、メキシコ国境近くで、撃たれた車両と男たちを発見する。麻薬密売人の銃撃戦があったのだ。車には莫大な現金が残されていた。モスは覚悟を迫られる。金を持ち出せば、すべてが変わるだろう。。。モスを追って、危険な殺人者が動き出す。彼のあとには無残な死体が転がる。この非情な殺戮を追う老保安官ベル」(原作本の背表紙より)
 物語は1980年ごろ。このような舞台が設定されて、物語はどのように動くのか読者は引き付けられる。普通の物語だと、殺人者は最後には逮捕されるか、警察に射殺される。モスは大金を手に逃げ切れるかもしれないし、死ぬかもしれない。しかし、最後になんらかのカタルシスが用意されているのが通常の犯罪小説である。
 この小説にはカタルシスがない。モスはあっけなく殺され、「通常」なら死ななくてもいいはずの妻まで殺される。保安官は殺人者を追い詰めることもできず、逃げてしまい、殺人者は生き延びてしまう。ヒューマニズムを無視した展開だ。しかし世の中には、そういう事件も多いからリアルとも言えるのだろう。
 この小説には、物語の流れとクロスして保安官の過去をめぐる独白が挿入される。
 「縦糸に横糸をからめる」という程度の物語に厚みを加えるものではなく、実はこれこそが本流なのではないかというインパクトがある。
 保安官は第二次大戦中、ヨーロッパで従軍し勲章を受けた。実際はドイツ軍に砲撃されて、仲間は立てこもっていた民家の瓦礫に埋まってしまう。保安官は残っていた機関銃で多くのドイツ兵を射殺する(これで勲章を受けた)が、仲間を救出できず、夜になって敵の攻撃を恐れて逃げてしまう。仲間はどっちみち助けられなかったのだろうが、このことを後悔している。
 今回の事件は、過去と似たような状況もあり、保安官は何もできず、殺人者と直面できたかもしれない状況で「再び逃げてしまう」。これが、物語の重要なポイントであり、彼が保安官を辞めることを決断する理由ではある。
 しかし、このエピソードもこの小説では表面的なことにすぎず、深層的にもっと重要なのは、保安官の叔父の一人が第一次大戦に従軍してヨーロッパで17歳にして戦死したことにあるのではないかと思う。
 「ハロルドが海の向こうへ行ってどこかの塹壕で死んだことを思ってごらん。17歳だ。わかるなら教えておくれ。わしにはさっぱり分からない」
 アメリカという国は建国以来数々の戦争をしている。第一次大戦では保安官の叔父がヨーロッパで戦死。保安官も第二次大戦に従軍した。
 モスはベトナム戦争の帰還兵。そのため、銃器の取り扱いに詳しいし、殺人者とも銃撃戦をする能力がある。殺人者のアントン・シュガーは、小説では語られていないがベトナムに行ったことがあると思える。銃撃を受けた傷を、彼は自分の手で治療する。人を殺すことをなんとも思わない異常な性格は、ベトナムの戦場で精神が傷付けられたため、と解釈すれば納得できる。小説に出てくるもう一人の殺し屋も、ベトナムで仕官だったことになっている。
 国が戦争を続けるため、国民がおかしくなるというのは短絡的なものの見方かもしれないが、二つのことが言えると思う。
 近代の戦争では、徴兵で適齢の男が戦場に行かなければならないが、以前なら考えられないことだった。例えば、テキサスの田舎に住む17歳の若者がヨーロッパの塹壕で死ぬなどということは人類史上初めての異常なことだ。これは日本の戦争も同じで、日本のどこか田舎の若者が硫黄島で命を落とすのも同じ。この異常さを「通常」のことに変換したのが近代の国家である。
 もう一つ。戦争で人をたくさん殺せば英雄となるが、平時に人を殺せば犯罪者となる。この矛盾を国家や社会は「戦争」という定義や、国際法の手続きでもって解消してはいるが、実際の行為者にとっては同等のものであるかもしれない。
 シュガーなる殺人者がベトナムを経験しているならば、彼の無慈悲な殺人が理解できるかもしれない。彼にとって殺人とは、彼独自のルール従ったものであり、またあるいはコイントスの裏表の結果に従ったもので、一般的な価値観では理解しがたいが、彼にとって命とは戦場での命ほど軽い。
 作者は、この小説の一連の事件を内なる戦争ととらえている
 と書けば一応の結論づけになるんだろうが、この小説はもっと奥が深いように思える。
 
 
 

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1 コメント

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Unknown (通りすがり)
2010-07-05 22:08:40
このブログに興味があります。
もっと書いてみてくれませんか。
読みたいです。
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