
★土の匂いをさせながらも、とてもポップな舞台
「劇団桟敷童子」率いる東憲司作・演出の芝居『骨唄…骨、咲き乱れて風車…』。2年連続で岸田國士戯曲賞の最終先行に残っているという気鋭の脚本家・演出家、というのがオフィシャルな情報。
唐十郎の影響を受けている(状況劇場の頃の影響、と思い込んでいるんですが)というのを聞いていたし、タイトルの「骨唄」のイメージから、なんとなく土の匂いのする重めの、ちょっとおどろおどろしい芝居を想像していた私でした。チケットを先行でとったときは、そういう疲れるような重めの芝居を観たかったんだろうけど(覚えてない)、この季節になったら、湿気の多い芝居はきついなあ、なんて勝手なことを言い出す始末。客はわがままです。
実際には、現代を舞台にし、今風なデザインの服を着た女性が現れ、やにわに携帯電話なんぞ持ち出して「圏外?まいったなー、圏外って」などと慌てたりする場面から始まる。娘二人の父親が住む家が舞台の一幕物で、その佇まいはかなり古めかしいけれど、地元活性化のために「エミューの里」がつくられたり、と、話題はもろ「今」。
父親はかつては人骨に彫刻をする(そういう風習って、地方によっては実際にあったのでしょうか)職人で、心を病んで帰ってきている下の娘と、お互いに死んだら相手の骨に彫刻をする、なんてことを約束しているのだが、頑固一徹、というのともちょっと異なる感じ。職業を変えて普通の格好をすれば、実はそこいらによくいる父親、ということになるのかもしれない。
幼い頃に母親をなくし、その際、妻を土葬にし、その骨に彫刻をするんだ、と主張する父親から離れて別々の親類に預けられて成長した娘二人。かつて耳に風車を突き刺し、それが原因で発作を起こす下の娘が失踪して父親のところに帰ってきている。その妹を探すために、17年ぶりに故郷を訪れた上の娘は、父親を許してはいないし、反発をあらわにする。だけど、妹の怪我は自分のせい、と心に傷ももっている。
古いものがどんどん失われ、人が生きていくためにさまざまなものが外から入ってくる。エミューの里でエミューの世話をしている妹が、実際はエミューを受け入れてはいない、ということから、エミューはその「外から新しく入ってくるもの」の象徴として存在しているのかもしれないと思った。
頑固な父もそして気の強い姉も、傷ついた娘を優しく守ろうとする。この地には、千本の風車を東の山に飾れば、海の向こうに蜃気楼が現れ、それを見た人を導いてくれる、という伝説がある。発作を起こし、それを覚えていないことがある娘は不安を抱えていきており、その蜃気楼が見たい、それを見るまではこの地を離れない、と言う。父と姉妹は千本の風車作りを始める。その時間の流れを暗転を利用しながら演出するシーンがなぜかとても楽しい。コミカルでポップで。
そういうシーンをはさみながら、蜃気楼の出現を見た三人。そして下の娘はそれを見た直後、高い台の上から飛び降りて亡くなってしまう。自殺した、というより、蜃気楼につれていかれてしまったような、そんな衝撃を味わう。
そのあと、故郷を離れる姉の独白で、「栞(下の娘の名)に骨に彫刻すると言っていた父ですが、なぜか火葬にすることに反対はしませんでした」ということがわかる。再び故郷を離れる娘に、父は「栞の病の責任はお前にはない」とはっきり言い、「ババアになるまで生きろよ」とぶっきらぼうに、どこか優しげに声をかける。
土地に根付く風習と、古いものをおしやって新しく活性化していこうとする流れ。それは形をさまざまに変えながら、結構普遍的なテーマだ。そんな中で健気に生きる小さな存在を、乾いているけれどとても優しい目線でみすえた芝居だったように思える。古さと、新しいものの軽さが不思議なアンバランスで、かえって心地よい雰囲気でした。
★風車の咲き乱れる舞台
最初に会場に入って目に入ったのが、舞台上に回る風車。まるで白い花のように咲き乱れている。カラカラ、カサカサという音が軽やかでもあり、少し不気味でもあり、悲しくもある。この風車の一本一本に、この土地に今まで生きてきた人たちの希望や怨念や、そういうもろもろの思いが託されているのかもしれない。それは考えすぎだろうか。
最後の蜃気楼が見えたところで、バックのカーテンが一瞬に引き下げられ、舞台中に風車が咲き、回り、音をたてる。そこはちょっと予想できてしまう場面ではあったけど、実際に目の前に現れた光景は圧巻でした。胸にぐっとせまるものがありました。
妹が美しい声で歌う「骨唄」と、舞台上に回る風車は、この芝居の象徴なのだろう。
★役者たちへの思い
父親を演じるか高橋長英。相変わらず、深いところで形にとらわれない演技をしてくれる。昔から大好きな役者です。あまりよく知らない方はここを見てほしいけど、でもあんまり的確な情報じゃないなあ。今の私には昨年の舞台『小林一茶』での彼が過激な印象で残ってしまっている。屈折した男が女を強姦しようと、女の足を両手で開いてすごい形相をするところで暗転、となるのだが、私の脳裏にはそのときの形相が留まったままです。その後、テレビで哀れな老人を演じたりしているのを見るのですが、「いやいや、これだけのはずはない。こいつはとんでもない恐ろしい男なんだから」なんて余計な思い込みが入ってしまうのです(笑)。それだけすばらしい役者です、ということだな。
上の娘を演じるのは富樫真。初めて見たのは、『リア王の悲劇』の次女役。次が『子供騙し』。そして今回。どんどん気になる役者になっていきます。重くないのがいい。いつもどこか軽やか、そしてヘンな色をもたないっていうか。今回も軽妙な演技で笑わせたり驚かせたりしてくれる。
下の娘は新妻聖子。まったく知らない女優さんだったのですが、プロフィールなどを見ると、すごく注目されている新進気鋭の…、という感じです。歌、さすがにうまかったです。さりげなく歌っても光っていたし。でも正直、演技には違和感があって。なんていうか、大劇場のミュージカルの演技とでもいうか。彼女が叫んだり懇願したり泣いたりするたびに、ちょっと心が離れていってしまうような。これは趣味の問題でしょうか?
吉祥寺シアター、やっと訪れました。すごくいい雰囲気の小劇場です。観やすいし、椅子の座り心地もOK。
「蔵」という、東急デパートの裏にある洒落たダイニングバー?で飲んだのですが、なかなか素敵なお店。残念ながらHPがみつからない。ご存知の方、教えてください。混んでいたので、地元では知られたお店かと思われます。
「劇団桟敷童子」率いる東憲司作・演出の芝居『骨唄…骨、咲き乱れて風車…』。2年連続で岸田國士戯曲賞の最終先行に残っているという気鋭の脚本家・演出家、というのがオフィシャルな情報。
唐十郎の影響を受けている(状況劇場の頃の影響、と思い込んでいるんですが)というのを聞いていたし、タイトルの「骨唄」のイメージから、なんとなく土の匂いのする重めの、ちょっとおどろおどろしい芝居を想像していた私でした。チケットを先行でとったときは、そういう疲れるような重めの芝居を観たかったんだろうけど(覚えてない)、この季節になったら、湿気の多い芝居はきついなあ、なんて勝手なことを言い出す始末。客はわがままです。
実際には、現代を舞台にし、今風なデザインの服を着た女性が現れ、やにわに携帯電話なんぞ持ち出して「圏外?まいったなー、圏外って」などと慌てたりする場面から始まる。娘二人の父親が住む家が舞台の一幕物で、その佇まいはかなり古めかしいけれど、地元活性化のために「エミューの里」がつくられたり、と、話題はもろ「今」。
父親はかつては人骨に彫刻をする(そういう風習って、地方によっては実際にあったのでしょうか)職人で、心を病んで帰ってきている下の娘と、お互いに死んだら相手の骨に彫刻をする、なんてことを約束しているのだが、頑固一徹、というのともちょっと異なる感じ。職業を変えて普通の格好をすれば、実はそこいらによくいる父親、ということになるのかもしれない。
幼い頃に母親をなくし、その際、妻を土葬にし、その骨に彫刻をするんだ、と主張する父親から離れて別々の親類に預けられて成長した娘二人。かつて耳に風車を突き刺し、それが原因で発作を起こす下の娘が失踪して父親のところに帰ってきている。その妹を探すために、17年ぶりに故郷を訪れた上の娘は、父親を許してはいないし、反発をあらわにする。だけど、妹の怪我は自分のせい、と心に傷ももっている。
古いものがどんどん失われ、人が生きていくためにさまざまなものが外から入ってくる。エミューの里でエミューの世話をしている妹が、実際はエミューを受け入れてはいない、ということから、エミューはその「外から新しく入ってくるもの」の象徴として存在しているのかもしれないと思った。
頑固な父もそして気の強い姉も、傷ついた娘を優しく守ろうとする。この地には、千本の風車を東の山に飾れば、海の向こうに蜃気楼が現れ、それを見た人を導いてくれる、という伝説がある。発作を起こし、それを覚えていないことがある娘は不安を抱えていきており、その蜃気楼が見たい、それを見るまではこの地を離れない、と言う。父と姉妹は千本の風車作りを始める。その時間の流れを暗転を利用しながら演出するシーンがなぜかとても楽しい。コミカルでポップで。
そういうシーンをはさみながら、蜃気楼の出現を見た三人。そして下の娘はそれを見た直後、高い台の上から飛び降りて亡くなってしまう。自殺した、というより、蜃気楼につれていかれてしまったような、そんな衝撃を味わう。
そのあと、故郷を離れる姉の独白で、「栞(下の娘の名)に骨に彫刻すると言っていた父ですが、なぜか火葬にすることに反対はしませんでした」ということがわかる。再び故郷を離れる娘に、父は「栞の病の責任はお前にはない」とはっきり言い、「ババアになるまで生きろよ」とぶっきらぼうに、どこか優しげに声をかける。
土地に根付く風習と、古いものをおしやって新しく活性化していこうとする流れ。それは形をさまざまに変えながら、結構普遍的なテーマだ。そんな中で健気に生きる小さな存在を、乾いているけれどとても優しい目線でみすえた芝居だったように思える。古さと、新しいものの軽さが不思議なアンバランスで、かえって心地よい雰囲気でした。
★風車の咲き乱れる舞台
最初に会場に入って目に入ったのが、舞台上に回る風車。まるで白い花のように咲き乱れている。カラカラ、カサカサという音が軽やかでもあり、少し不気味でもあり、悲しくもある。この風車の一本一本に、この土地に今まで生きてきた人たちの希望や怨念や、そういうもろもろの思いが託されているのかもしれない。それは考えすぎだろうか。
最後の蜃気楼が見えたところで、バックのカーテンが一瞬に引き下げられ、舞台中に風車が咲き、回り、音をたてる。そこはちょっと予想できてしまう場面ではあったけど、実際に目の前に現れた光景は圧巻でした。胸にぐっとせまるものがありました。
妹が美しい声で歌う「骨唄」と、舞台上に回る風車は、この芝居の象徴なのだろう。
★役者たちへの思い
父親を演じるか高橋長英。相変わらず、深いところで形にとらわれない演技をしてくれる。昔から大好きな役者です。あまりよく知らない方はここを見てほしいけど、でもあんまり的確な情報じゃないなあ。今の私には昨年の舞台『小林一茶』での彼が過激な印象で残ってしまっている。屈折した男が女を強姦しようと、女の足を両手で開いてすごい形相をするところで暗転、となるのだが、私の脳裏にはそのときの形相が留まったままです。その後、テレビで哀れな老人を演じたりしているのを見るのですが、「いやいや、これだけのはずはない。こいつはとんでもない恐ろしい男なんだから」なんて余計な思い込みが入ってしまうのです(笑)。それだけすばらしい役者です、ということだな。
上の娘を演じるのは富樫真。初めて見たのは、『リア王の悲劇』の次女役。次が『子供騙し』。そして今回。どんどん気になる役者になっていきます。重くないのがいい。いつもどこか軽やか、そしてヘンな色をもたないっていうか。今回も軽妙な演技で笑わせたり驚かせたりしてくれる。
下の娘は新妻聖子。まったく知らない女優さんだったのですが、プロフィールなどを見ると、すごく注目されている新進気鋭の…、という感じです。歌、さすがにうまかったです。さりげなく歌っても光っていたし。でも正直、演技には違和感があって。なんていうか、大劇場のミュージカルの演技とでもいうか。彼女が叫んだり懇願したり泣いたりするたびに、ちょっと心が離れていってしまうような。これは趣味の問題でしょうか?
吉祥寺シアター、やっと訪れました。すごくいい雰囲気の小劇場です。観やすいし、椅子の座り心地もOK。
「蔵」という、東急デパートの裏にある洒落たダイニングバー?で飲んだのですが、なかなか素敵なお店。残念ながらHPがみつからない。ご存知の方、教えてください。混んでいたので、地元では知られたお店かと思われます。