夢みるアンドロイド

アンドロイドは電気羊の夢をみるか?
膨大な情報を蓄積し相互にリンクするインターネットはやがて知性を持つかもしれない。

かつて電子計算機と呼ばれた機械 (BN)

2011年10月30日 14時13分31秒 | ブロガーズネットワーク翼■ネットの未来記
ネットの未来記@ブロガーズネットワーク翼 2011年10月30日掲載


そう。コンピュータはかつて電子計算機と呼ばれていました。

電卓と呼ばれる電子卓上計算機とは兄弟のようなものでしょうか?(そんなことはない)

しかし、私にとってはほぼ、ネットにつながるための機械です。

今、このブログを書いているノートパソコンにはWordもExcelもPowerPointもはいっていません。考えてみるとこのパソコンには、セキュリティソフトと、FirefoxやGoogle ChromeやSafariといったブラウザ以外、これといったアプリはインストールしていないかもしれない。買ったときのそのまんま使っている。

約2年前に、「ネットにつながるための機械であるならば」という記事を書いた頃の状態と変わっていない。

そういえばEvernoteのアプリケーションソフトはインストールしたけれども、このサービスはWebでも使えるのでそっちがメインだ。

私にとってパソコンとはコミュニケーションのツールな訳です。

[お題]オーダーメイドできる通信端末」という記事で、iPadはインターネットにつながるためのネット端末であり、末端ノードである、と書きました。

まもなく普及率においてキャズムを超えるであろうスマートフォンもまた、名前はフォンですが、その実体はコンピュータです。電話機に付加価値がついたものではない。逆ですよね。電話もできるコンピュータ。

そう、コンピュータはコミュニケーションの道具となりつつある。

クラウド化の進展によって、もはや情報処理の機械ですらなく、ネットとのインタフェースへと向かっている。ローカルで情報を処理する必要がどんどん少なくなっている。

mixiやTwitterやFacebookといったサービスに触れている時間が長くなるにつれ、その傾向には拍車がかかっていくでしょう。

それは常時つながっているのがあたり前の環境であり、従来のコミュニケーションという概念からは既に離れているような気がする。インスタント・メッセンジャーが流行っていた頃は、これにちょっと近かったかもしれません。あれはメール以上に手軽だったから。

常につながっているという感覚。

それが意見交換を活発にし、自分とは異なる意見を持つ人との議論やコミュニケーションのスキルを深める方向にいけばよいのだけれど。ネットは検索という技術により自分と似ているテイストを持った仲間を見つけることが容易であるがゆえに、同じ考えの人同士のグループ内では濃密なコミュニケーションがはかれても、意見の違う人とはうまくやれないという方向に進む可能性もはらんでいる。

オープンでフラットなネットという場が、意見の多様性を肯定し、その多様性の中から方向性を見出すスキルを磨く場になっていって欲しいと願う。

原発の問題にしろ、TTPにしろ、普天間にしろ、賛成派と反対派に分かれて互いに自分の言い分を声高に主張するばかりで一向に議論はかみ合わず、妥協も方向性も見出せない状況を目の当たりにして議論のスキルに関する危機感を覚えているのでした。

それに比べると、先日のギリシアの国債問題への対処を議論したEU首脳のトップ会談は夜を徹した10時間あまりの議論の末に、一応の協力をとりつけた。本当に10時間も議論したのかどうかは知らないけれど、とにかく何らかの結論を出すという点で、ヨーロッパの紛争解決の伝統の重さというか、交渉スキルの高さというか、危機感の深さというか、レベルの高さを感じたのでした。

コブシではなく言葉で問題解決をはかる能力というのはやはり知性なくしてはできないことだと思うのです。




戦略は個々の環境条件に深くかかわる 「ストーリーとしての競争戦略」より

2011年10月29日 16時25分37秒 | Weblog

楠木建「ストーリーとしての競争戦略」14ページより引用

**************************引用開始**************************

神戸大学の三品和広さんは、次のような三点の興味深い指摘をしています。いずれも戦略の「つながり」という本質にかかわる重要なポイントです。第一に、経営の問題の多くは、大きな事象を構成要素に分解し、そのうえで一つひとつの要素を別個に吟味しようとするアナリシスの発想に基づいている。だから企業の組織デザインにしても、マーケティング、アカウンティング、ファイナンスといった構成要素に分解される。第二に、しかし、戦略の神髄はシンセシス(綜合)にあり、アナリシス(分析)の発想と相いれない。だから、戦略に対応する部署は企業の中に見つからない。第三に、戦略は部署でなくて人が担う。サイエンスの本質が「人によらない」ことにあるとすれば、戦略はサイエンスよりもアートに近い。


戦略は因果論理のシンセシスであり、それは「特定の文脈に埋め込まれた特殊解」という本質を持っています。優れた戦略立案の「普遍の法則」がありえないのは、戦略がどこまでいっても特定の文脈に依存したシンセシスだからです。

**************************引用終了**************************



同書19ページより引用

**************************引用開始**************************

要するに、ジェニーンさんは、「文脈に埋め込まれたシンセシス」という戦略の第二の本質を強調しているわけです。日本企業とアメリカ企業は異なった文化的な文脈に置かれている。だから日本でうまくいくことがアメリカでもうまくいくとは限らない。同じアメリカの企業でも、それぞれに異なる文脈のもとで動いている。だから、よその会社でうまくいく戦略であっても、ITTでうまくいくとは限らない。戦略なり経営というものはどこまでいっても、その会社や事業の特定の文脈に埋め込まれたシンセシスであって、さまざまな断片をつなぎ合わせた総体として初めて意味を持つ。経営はサイエンスではなくアートだ。それなのに、「経営理論」は全体を無理やり要素に分解して、個別の要素を文脈から引きはがしてああだこうだとこねくり回す。だから理論には意味がない、というのがジェニーンさんの苛立ちです。

ジェニーンさんは究極の理論として「セオリーG」を提示しています(Gはジェニーンさんの頭文字)。それはこういうものです。「ビジネスはもちろん、他のどんなものでも、セオリーなんかで経営できるものはない」。


**************************引用終了**************************

理論と実践 「ストーリーとしての競争戦略」より

2011年10月29日 16時05分16秒 | Weblog

戦略とはそれぞれの異なる条件のもとでそれに適応する方法論のことであり、それぞれの条件を超えて成功を約束するような「法則」はない。

あるのはただ、その個々の条件に適応するための戦略を導き出すための道筋としての「論理」だけ。


楠木建氏「ストーリーとしての競争戦略」2ページより引用

**************************引用開始**************************

皆さんは、それぞれの実践世界で、何らかの「解くべき課題」に直面していることでしょう。そして、それは普通ちょっとやそっとで解決がつく問題ではないでしょう。資源や時間の制約の中でどうやったら業務プロセスをもっと効率化できるか。どうすれば競争力のある製品を開発できるか。そもそもどうやったら業績が上がるのか。とても具体的で切実な問題があるはずです。しかも課題の中身は一人ひとり違います。今、一〇〇人の実務家がいれば、そこには一〇〇通りの、それぞれに異なった「解くべき課題」があるはずです。

(中略)

一〇〇通りの解決すべき問題のすべてについて、こうやったらいいですよ、こうすればたちどころに業績が上がりますよ、というような個別のソリューションは率直にいってありません。経営学と経営は違うのです(一緒だったら、私はそもそも学者商売を選んでいません)。「学者の話を聞いて良くなった会社はない」という金言(?)もあるそうです。

「机上の空論」という言葉があります。この言葉の意味するところを、私は図1・1のように理解しています。ビジネスの成功を事後的に論理化しようとしても、理屈で説明できるのはせいぜい二割程度でしょう。丹波宇一郎さんは「経営は論理と気合だ」と言います。理屈で説明できないものの総称を「気合」とすれば、現実の戦略の成功は理屈二割、気合八割といったところでしょう。あっさりいって、現実のビジネスの成功失敗の八割方は「理屈では説明できないこと」で決まっている。

「理屈では説明できないこと」とは何でしょうか。まず、「運が良い」ということがあります。運が良いこと、これはどう考えてもビジネスの成功を大きく左右する要因です。幸運は理屈ではとうてい割り切れません。

もっと大切なものに「野生の勘」があります。ビジネスは多かれ少なかれ「けもの道」です。その道の経験を積んだ人しかわからない嗅覚がものを言います。右か左かどちらに行くべきか、判断を迫られたときに野生の勘で右を選び、五年経って振り返ってみたら、あのときのとっさの判断が効いていた、というようなことはしばしばあります。これもまた理屈では十分に説明できません。

野生の勘なり嗅覚は、さまざまな実務の局面で有効な判断基準のようなもの、「こういうときはこうするものだ」というフォームのようなものです。自分のけもの道を「走りながら考える」ことによって、実務家は判断基準なりフォームを構築していきます。自らの一連の行動が貴重な実験です。自分(や日常的に観察できる周囲の人々)の行動の一つひとつが判断基準の有効性を検証するためのサンプルになります。けもの道を日々走り、走りながら考える中でフォームが練り上げられ、これが野生の勘を研ぎ澄ませるわけです。

実務家であっても、完全に個別の具体的な現実にべったり張りついて、本当の意味での「直感」で場当たり的に判断し、行動しているかというと、そんなことはありません。優れた実務家は、必ずといっていいほど何らかのフォームを持ち、それを野生の勘の源泉として大切にしているはずです。学者のいう「理論」ではありませんが、その人に固有の思考や判断の基準があるのです。


**************************引用終了**************************




変わるものと変わらないもの 「ストーリーとしての競争戦略」より

2011年10月29日 15時35分51秒 | Weblog

いつの時代も、「今」こそが変化の時である。

いつだって、「時代は激動の時」である。

楠木建氏の「ストーリーとしての競争戦略」10ページより引用。


**************************引用開始**************************

第三に、ありがたいことに論理はそう簡単には変わりません。目前の現象は日々変化します。だからこそ「変わらない何か」としての論理が大切になるのです。

以下の文章は『日本経済新聞』の記事からの引用です。ちょっと読んでみてください。

いよいよ日本経済は先の見えない時代に突入したという感がある。今こそ激動期だという認識が大切だ。これまでのやり方はもはや通用しない。過去の成功体験をいったん白紙に戻すという思い切った姿勢が経営者に求められる。


そのとおり、とうなずく人も多いとおもいます。ただ、この記事は昭和も昭和、私が生まれた一九六四(昭和三九)年九月の『日本経済新聞』からの引用なのです。昔の新聞をめくってみれば明らかなのですが、この数十年間、新聞紙上で「激動期」でなかったときはついぞありません。今も新聞紙上では「今こそ激動期!」「これまでのやり方は通用しない」という全く同じような主張が躍っているのですが、新聞はいつの時代も「今こそ激動期!」です。「これまでのやり方は通用しない」と何十年間も毎日毎日言い続けているわけです。

これはどういうことでしょうか。マーヴィン・ゲイならずとも"What's going on?"と言いたくなるところです。激動期が何十年間も毎日続くというのは、論理的にいってありえません。要するに、「変わっているけど変わっていない」というのが本当のところなのです。為替レートや株価は定義からして毎日変わる現象です。新しい市場や技術が生まれては消えていきます。そういう意味では現象が「激動」するときもあるでしょう。しかし、現象の背後にある論理はそう簡単には変わりません。日々動いていく現象を追いかけることに終始してしまえば、目が回るだけです。目を回してしまえば、有効なアクションも打てません。そういう人には腰の据わった戦略はつくれないのです。

実際に考え、決定し、行動するのはあくまでも皆さんです。本当の答えは皆さんの中にしかありません。しかし、新しい視界や視点を獲得すれば、背中を一押しされるようにアクションは自然と生まれるものです。この意味で「論理ほど実践的なものはない」と私は確信しています。逆にいえば、新しい実践へのきっかけを提供できない論理は、少なくとも実務家にとっては価値がありません。実践にべったりの処方箋は、ある特定の実務家にとって、特定の状況のもとでは有効でしょう。しかし実践は、どこまでいっても一人ひとりに個別の問題です。そうだとしたら、いわゆる「実践的なビジネス書」というものは実はひどく窮屈な話なのです。

即効性のある処方箋も、優れた戦略の「法則」もありません。しかし、優れた戦略の「論理」は確かにあるのです。ふだんから走りながらなんとなく考えていることであっても、一度立ち止まって頭の中から出してみて、じっくりと論理化してみれば、どうすればいいか気づくことがあるはずです。この本を読んでいる途中や読んだ後で、皆さんの視点が転換したり、視界が拡張するようなことが起きれば、それは私にとって大いなる成功です。


**************************引用終了**************************

リブログ>実名匿名ハンドルネーム (BN)

2011年10月23日 12時41分32秒 | ブロガーズネットワーク翼■ネットの未来記
ネットの未来記@ブロガーズネットワーク翼 2011年10月23日掲載



ネットの匿名論について、松本さんのブログがとてもわかりやすく説得力があったのでリブログします。



実名匿名ハンドルネーム ~寝たふりモードでネタ拾い by 松本淳

なぜ日本では匿名主義が喜ばれるのか。思い返してみれば、パソコン通信が起源ではないかと聞いたことがあります。
via kataoka.bloggers-network283.com


これが本当かどうかは知りませんが、もしそうだとしたら、一世代前の習慣が現在も受け継がれているわけで、文化というものの堅牢さを思い知らされます。ただ、変わるべき実利的理由があるときには、文化は案外かんたんに変わるんですよね。堅牢でありながら柔軟でもあるのが文化の性質です。そして、かんたんに変わらない文化は、実は実用的にはどうでもいい部分で花開くことが多いんですよ。

実用的には、実名でもハンドルネームでも、ほとんど変わりはないんですよね。名前は、実用的には個体識別記号です。アイデンティティがそれで識別できればいいわけです。そして、初対面の人が「私は○○です」と名乗り、以後もその名前で通用するのであれば、それが実名であるか仮名であるかハンドルネームであるかペンネームであるか源氏名であるか愛称であるか法名であるか戒名であるかなんてのは、コミュニケーションの上でまったくどうでもいいことです。どうでもいいことだから、放置されてきたんでしょう。

ただし、実名に対置するのが実名以外の別の名前ではなく、名前を隠した匿名である場合、全く別種の「実名か匿名か」問題が発生します。こちらの方は度々浮上します。そして、Web上で完全な匿名性が不可能なことは数多くの「晒し」で実証されています。その一方で、一時的な匿名が可能であり、それが広く受け入れられているのは、たとえば某巨大掲示板の投稿者名や、増田の存在などに見て取ることができます。これらは「お約束としての匿名」であり、その場のルールを破らない限りは正体を晒されることはありません。いうなれば仮面舞踏会(マスカレード)のようなものです。あえて実名を捨てた世界で、非日常のコミュニケーションを行いましょうということです。

ということで、実名に関してはきれいに整理できるような気がするのですが、実はここにはもっと根の深い問題があるような気がします。それは、名前というものが本来もつ匿名性です。

私自身がいい例です。私は、たまたまネット時代以前の1980年代にに翻訳者として名前が印刷されていたという関係から、Web上での活動にあたって、そのまま「松本淳」という名前を使ってきました。ところが、この「松本淳」という名前で本を出していた著者が、私以前に少なくとも御二方は存在したのですね(こちらこちら参照)。そして、1990年代半ばまでに、少なくとも2人の「松本淳」氏が著書を出しました。当時の書籍目録には、同じ「松本淳」名義で5人以上の著者の作品が掲載されていたわけです。そして、これが2000年代のWeb時代になるとさらに「松本淳」の名前が溢れかえります。高名なアニメ監督からミュージシャン、スポーツ選手、大学教授、ジャーナリストなど、「著名人」としてよい人々だけでも軽く10人は超えるでしょう。そして、弁護士や税理士、会社社長など積極的に名前を出していく立場の人々がさらに多数存在し、そして特に実名を出す必要はないけれどそれでもWeb上に実名を公開している「松本淳」さんが無数に存在します。正直、子どもの頃はここまでありふれた名前だと思いませんでした。そして、似たような名前まで含めれば、石を投げれば当たると言っても過言ではないほどそこらに転がっているのがこの名前なのです。

その私が、「松本淳」ですと言って、何か発言します。これってほとんど、「名無しさん」レベルの個体識別機能しかありません。「どの名無しさんですか?」っていう感じですね。

これは特殊なケースです。例えば私の兄は、同じ「松本」姓ですが、名前まで入れて検索すると本人以外は出てきません。同姓同名がいないわけはないでしょうけれど、さまざまな属性情報まで加えたら個人の特定に困ることはありません。私の場合、私の本業の翻訳をやっている私以外の「松本淳」さん、私の趣味であるギターを私以上に上手に弾きこなす「松本淳」さん、私と同じ大阪出身である「松本淳」さんなど、属性情報まで加えても私との境界線が判然としない同姓同名諸氏が実在します。けれど、一般には、そこまで極端なことはありません。こと著名人に関しては、だいたいはその名前で本人かどうかの判別がつきます。

けれど、著名人なんてごくひとにぎり、わずかな存在です。ほとんどの人は、いわゆる無名人です。読んで字のごとく、名前がないのです。名前がないわけはありません。その名前が、ほかの人にとってほとんど意味を持たないのですね。いえ、その人の属する社会では、重要な意味をもちます。家族や友人にとってはかけがえのない名前です。けれど、それが広大なWebの空間に出たときに、記号の組み合わせ以上の意味をもたないのです。

これが、名前のもつ匿名性です。実名を名乗っても、99パーセントは単なる記号としてスルーされるんですね。だったら、その場にふさわしい気の利いたペンネームを選ぼうかという気にもなります。ペンネームそのものが、メッセージの一部、主張の一部になるからです。ほとんどのハンドルネームは、実はそういう観点からつけられているのではないでしょうか。「実名だとまずい」という消極的な理由ではなく、「もっと自分を伝えたい」という積極的な理由から選ばれているのがWeb上の名前ではないかと、そんなふうに思います。

そして、スルーされない1%未満の中に、個人を特定して十年ぶりに連絡をくれる旧友とか、個人情報を狙って詐欺を働こうとする悪漢がいるのでしょう。それはそれで別次元の利益やリスクです。そういった利益をリスクと天秤にかける必要を、多くの人は感じません。それ以外の部分で十分にWebは利用価値があるのですから。

だから、ほとんどの人にとって、実名かハンドルネームか、実名か匿名かというのはどうでもいい問題なんですね。だからこそ一世代前の匿名文化はどこまでも続いていくのではないでしょうか。

via mazmot.bloggers-network283.com



固体識別ができれば実名でもハンドルネームでも関係ない。この意見には同意します。アイデンティティを隠した匿名での発言は某巨大掲示板などの特殊な場に限定された非日常的コミュニケーションだというのもユニークな視点だと思いました。そして実名にもまた個人特定できない匿名性があるという指摘にも目から鱗でしたね。ブログというサイトであれば、その場で特定が可能なのだろうし、Twitterではアイコンがアイデンティティのひとつとして機能しているのだと思う。あのアイコンは以外に大事な記号なんだと気づかされましたね。視覚的な印というものは判りやすいし。いっそのこと、日本でもネットではミドルネームを定着させちゃえばどうでしょうか。鍛冶・“フューチャーテラー”・哲也とか、鍛冶・“ホラフキー”・哲也とか。(笑)

2年前の記事ですが、やはり日本においてはネットでは匿名擁護派が多いようです。

ネット上は匿名?実名? 勝間和代氏vsひろゆき氏の“議論”より

ネットで実名をだすのはリスキーだという考え方は、某掲示板の影響が大きいのではないかと個人的には思います。ネット普及の途中の一時期であのサイトの影響力はかなりあったのではないか、と。或いはそれはネットのダークサイドとしてマスコミに大きく取り上げられたためかもしれない。

実名をだすことのリスクとは具体的にはどんなものか?それはネットの中での行動がリアルな人間関係に影響するということだ。最悪の場合、炎上などの問題が生じたときにそれが会社に知れて解雇されることも可能性としてはある。そこまでいかなくても人間関係がギクシャクする原因となることはありえるだろう。

ネットでの発言とリアルとがつながるということだ。逆に、実名を隠していれば仮に炎上のようなことが起こっても、それはリアルとは切り離された世界の出来事として片づけられる。ネット上ではリアルとは別な人格を演じることができるということでもある。問題が起こればその人格を放棄し廃止することも可能だ。

実名論者の問題意識は、このリアルとは切り離された別人格としての振る舞いが時に傍若無人であり非礼で誹謗中傷に走りやすい点を問題にしているのだと思う。私の知ってるところではその典型が勝間和代さんかな。今でも相変わらず怒っていらっしゃる。(笑)

新刊「まじめの罠」で、以前から指摘をしていたamazonのレビュー問題について。関係者の方々の連絡をお待ちしています。~勝間和代公式ブログ



逆に匿名論者には、ネットは実名じゃなきゃだめだって意見は有名人とかの強者の意見だとするものが多いような気がする。確かに実態としては実名で書いてる人は名前の通った人が多いし、後はビジネスにつながる社長のブログとかが多いと思う。でも私はそこに強者も弱者もないと思うけどな。ネットはフラットだ。アクセスの多い少ないがあるだけだ。でも匿名論者は、実名論者を否定はしてなくて、実名で書きたい人は書けばいいじゃん、という立場なのでその分だけ有利かな。

私の立ち位置は、実名またはハンドルネームでも匿名でもどっちでもいいじゃん。てとこ。現実的には匿名での発言を禁止することって難しいと思うし。それを法律で強制的に禁止するのはあまり得策ではないような気がする。いくらでも抜け道ができそうだし。スプレーで落書きするような行為を完全に防止することなんてできないと思うし。

どちらにしても今は過渡期だと思うのです。実名のリスクというものは、実際よりも過大に受け取られている(大げさに怖がってるだけ)と思うし、デジタルネイティブの世代はまた違う肌感覚を持っていると思うし。リアルと完全に切り離してネットで行動を続けることは段々難しくなっていくだろうと思うし。

こういう時代の中でプライバシーという名のもとでどんな情報を秘密なものとして隠しておかなければいけないのか、それは今後更に明確にしていかなければいけない問題だと考えます。

ただ、自分は匿名の陰に隠れて安全な位置から他人を攻撃するような行為にはあまり賛同できないな。それは普通の感覚ではないかと思うがどうだろう。例えば街中で、覆面をして顔を隠してビラを配ってる人がいたとしたらどうだろう?それはあまり情報源として信頼できないと感じるのでは?



それがタイガーマスクの覆面だったら、それはそれでひとつのメッセージになるかもだけどね。





■関連記事

プライバシーは本当に保護されるべきなのか?

どこまでネイキッドになりたい?

表の顔と裏の顔

「肩書のない実名に意味はない」論





■追記 2011年10月23日16:25

このネット上の人格とリアルな人格との乖離については、関連記事であげた「プライバシーは本当に保護されるべきなのか?」という投稿へのセルフコメントでちょっと掘り下げているので再掲してみます。またちょっと違った視点なので。






「ネット上で公開している情報と、リアルな世界に生きている本人とをリンクすると問題になるというのも、考えてみるとヘンな話だ。」


つまりは匿名にせよ、実名にせよ、ネット上で語る際の人格というものはリアルとは別につくられる。
ネット上の人格は通常、映像も、しゃべり方の癖も、体臭も、顔の表情もともなわない、限られた情報により構成される。人格イメージにおけるコトバの占める割合が大きい。


つまりはネット上の人格は、そもそもリアルと同じではない。


仮想性あるいは虚構性の強いネット上の人格とリアルの人格を結びつけることを強制するべきかどうか。それを切り離しておきたいという権利を認めるべきかどうか。


問題の立て方としてはこっちの方が適切な気がします。


そしてこのネット上の人格。本文では、有名人のプライバシーを例にあげましたが、むしろ、ペンネームを使う作家の方が例としては適切かもしれない。


ペンネームで書く人はたくさんいるだろう。ペンネームは有名でも、実名は知られていない人はたくさんいるだろう。


その人たちは、言わば言論世界における人格とリアル世界における人格を切り離して使い分けている。
いわゆる作品と作者は別だという考え方だ。


作者がその私生活においてどんなにダメ人間、くず人間であっても、その作品が美しければ、その作品の価値を減じることはない。

そういう考え方はある。たしかに。


私はその考え方には賛成だ。小説家であれ、漫画家であれ、映画監督であれ。或いは俳優、シンガーであれ。そういう表現者に、私生活において聖人君子であることは求めない。


確かにそうだが。一方で言行不一致という考えもある。言うことは立派だがやってることは全然違うじゃん、という人は信じられない。そんなケースだ。言行不一致を許せないケース。


例えば、宗教家。思想家。評論家。教育者。政治家。医者。弁護士。コンサルタント?いわゆる「先生」と呼ばれる職業の人たちか。警察の人なんかはどうだろう?経営者は?


いわゆる指導的立場にある人。偉そうに説教たれる人たちは、言行不一致が許せない気がする。人としての真摯さ、誠実さを求められる立場というものはあるような気がする。


言行不一致が許される人と、許されない人。その違いは何なのだろう?


それは職業なのか?それともその言葉の、その言説の内容なのか?


そして、仮に言行不一致が許されるなら、その人は仮想人格とリアルな人格とは切り離しておくこと、すなわちプライバシーの保護が許されるということか。


それとも更に進んで、仮想人格とリアルな人格とが結び付けられた上で、そこに違いがあることを、受け手によって許容されるということか。それは俳優がインタビューを受けて、役柄とは違う自分の考え方を述べるようなものか。その場合の人格の違いは、公開された上で許容されている。そんなものか。


俳優が、俳優という立場でインタビューを受けて語る言葉は、しかし俳優という役割を演じているのであって、その人の「素」の言葉とは限らないというややこしい問題もあるが。当然、その俳優の過去の出演作品とか、ファンの期待とか、そういう俳優としてのブランドイメージってもんもあるわけだから。


そういうのひっくるめて情報公開/非公開は自分で決めてるわけだからそれはいいのか。今回の問題は本人が非公開にしてる情報はあくまで非公開であることを前提にしているのだから。本人が公開している仮想人格をリアルの人格と結びつけることの是非を問題にしているのだから。

モノの価値 ふたたび (BN)

2011年10月16日 04時42分11秒 | ブロガーズネットワーク翼■ネットの未来記
ネットの未来記@ブロガーズネットワーク翼 2011年10月16日掲載


前回の投稿「モノの価値」のページにzenbackでついていたリンクを読んでみた。

モノの価値って全部錯覚だよね

2ちゃんのまとめだがおもしろかった。哲学ってやつは、いろいろと面倒くさいことを考えることだと思うし。物理的に生きるためには必要のないことをあれこれ考えずにはいられないってことかもしれないし。いずれにしても、「疑う」ということ自体が哲学の第一歩であるのだろう。

学問的な理屈は抜きにして、このような素朴な疑問というか、議論が自然発生するところがネットのおもしろいところ。或いは哲学的な「問い」というものは身近なところに転がっているという点で、ある意味では哲学というものの必要性を実証しているのかもしれない。人間というものは面倒な屁理屈というものを必要としているのだ。



さて、リンク先の内容についてだが、トピ主は、世間一般にあたり前のように広がっているモノの価値ってもんが、本当に価値あるものなのか、疑問を持っている。疑問というよりむしろ不信かな。信じられない。本当は必要ないものじゃないかと思っているのだ。トピ主はそれを錯覚と呼ぶ。世間一般の信仰に共感できないということ。

私の理解で言うと、彼の疑問は正しい。価値というものに客観的根拠はないからだ。主観的なものであるから、共感できないというケースは当然ありえる。それは共感が成り立たないということと同じではないが。

価値とは無根拠なものであり、共感或いは信仰によって支えられている。ただの紙切れであるお札に価値があるのは皆がそれを認めているからだ。個人としてそれを否定することは可能だ。お札をブランドものの服に置き換えてみればすぐわかることだ。思い込みが価値をつくっている。欲しい人の数がその価値の価格を支えている。

価値とは恣意的なものだ。幻想と置き換えてもいい。共同幻想。共感がそれを支えている。それゆえにそこに正解はない。価値というものは揺れ動いている。絶対性はない。

社会も同様だし、人間そのものだってそうだ。言語が恣意的であるからだ。自我も同じ。相対的なものなのだ。関係性の中でしか存在しえない。

社会というものは物理的存在ではない。国会議事堂とか警察の建物とか物理的な存在としてはそんなものしかなくて、法律や政令というものも物理的なものではない。人間同士の関係でありルールだ。人間そのものも、物理的には食って出すだけの生命体であり化学反応の塊だ。それがあれこれ考えたりもがいたりしているのは、自分自身との関係や他人との関係性を位置づけ安定させようという営みだ。自我とは言語体系であり、快不快の価値観の体系である。好き嫌いのルールブックの総体、集積だ。社会も人間もその本質は関係性なのだ。

そしてその関係性というものが、オープンなネットを通じてその範囲がものすごく大きく広がっている。リアルな世界での関係性とは比較にならないポテンシャルを持っている。関係性がネットの中に広がることによって、関係性の構築に検索という要素が新たに加わった。検索が関係性のあり方を変えた。その関係性の拡大が、人間という存在のあり方自体の変質を迫るのではないかと私は考えている。

「ニュータイプ」という言葉に、私は特別な意味を込めている。可能性としての新しい存在のあり方を、私は知りたいと願っている。

人間は変わるのか?




モノの価値 (BN)

2011年10月15日 01時04分41秒 | ブロガーズネットワーク翼■ネットの未来記
ネットの未来記@ブロガーズネットワーク翼 2011年10月15日掲載


先日、ある機会があって、お宝鑑定団の岩崎紘昌さんのセミナーを聴講しました。

鑑定団での知名度により講演もいろいろやっているそうですが、本業は骨董品屋だとのこと。骨董品屋はモノを仕入れてそれを売る。その時に値をつける。決まった定価はない。全てが時価。オープンプライスな世界。

骨董品の値段。古いものが高いという訳ではないそうです。その骨董品を欲しいと思う人が少なければ高い値はつけられない。どんなに古くても買い手がつかないモノには値がつかない。逆に、それを欲しがる人が多ければ多いほど高い値がつく。

商売においてはあたり前のことです。

それが資本主義のシステムだという。どんなに古いモノでも、それを欲しいと思う人がいないものには高い値はつかない。商売の基本です。需要と供給が価格を決める。

古くても、それを欲しいと思う人がいないならばそれは単なるガラクタ。それは市場の原理。

「欲しい」と思うのは人という存在の思い込み。或いは思い入れ。市場価格を決めるのは、人の思い。もしかするとそれは幻影。「思い」が決める価格というものは、客観的なものではない。外在的なものではない。

岩崎氏はこう言います。骨董品を買うのなら、すぐに買ってはいけない。まず、10軒、骨董品屋を回りなさい。そうすれば、絶対欲しいと思うようなものが見つかるはず。それだけの思い入れが感じられないものを買ってはいけない。そう語っていました。どんなものを欲しいと思うか。

それを判断するには、多くのモノをまずは見てまわること。そうすればおのずとわかる。自分の価値観が見えてくる。のだそうです。

視点を変えてみる。それを創った人はどんな人か。掛け軸。陶器。絵。書。それらを創った人は、普通の人生の道を外れた人。クリエーター。創作者。芸術家とは、普通の人生の道を踏み外した人たち。食えるかどうかも判らずに、得体の知れぬ情熱に突き動かされ創作の道に突き進んだ人たち。

その魂を尊敬せよ。敬意を払え。

けれども、それに心を動かされないならば、それにカネをだすな。

骨董品屋がそれを言う。

例えそれが出所があやしくても売れれば商売。そんなスタンスをとらない。感じるなら買え。そうでなければ買うな。決めるのは自分だ。

需要と供給のバランスによって決まるのが市場価格。骨董品屋はそれを見極めるのが商売。

だがしかし、市場価格とは異なる価値もある。それは所有者の思い入れ。思い込み。それは市場価格とは全く別の原理。

個人として大切にしているモノ。それは価格ではない。プライスレス。

誰もほしいと思う人がいないようなガラクタでも、本人にとっては大切なモノっていうのがある。それが周りの目から見るとガラクタであっても。本人にとってはかけがえのないモノっていうものもある。

その価値は需要の多さでは決まらない。

欲しいと思う人が誰ひとりとしていなくても、本人にとってはどても大切なモノだってある。

自分にとって大切だと思えるモノを大切にしよう。

それが、自分にとっての価値だから。値段は関係ない。

ブラジルの移民の老人が大切にしていたボロボロの掛け軸。欲しがる人がいないそのガラクタの値段は二束三文。ほとんど値がないに等しい。でもその本人が、7歳の時に日本からブラジルに渡る際に親から託された代物。その価値はプライスレス。市場では値がつかなくても、それが本人にとってどれ程大切なものであることか。

モノの価値とは、ことほど左様に主観的なもの。

その価値は本人にしかわからない。かけがえのないもの。そんな価値だってある。モノは因縁を持っている。ストーリーといってもいい。コノテーションといっても。

市場はそれを評価できない。



それは主観と客観の不一致ということを意味するのかもしれない。




[お題]オーダーメイドできる通信端末 (BN)

2011年10月08日 07時33分28秒 | ブロガーズネットワーク翼■ネットの未来記
ネットの未来記@ブロガーズネットワーク翼 2011年10月8日掲載


インドの35ドルタブレットはAndroidマシン ~寝たふりモードでネタ拾い by 松本淳 より引用↓。

昨日(大ニュースがあったので遠い昔のような気がしますが)、インドの35ドルタブレットがついに出た!という記事を書きましたが、このマシンのスペックがこちらに出ていました。

India Now Aims For $10 Android Tablet

OS: Android 2.2
Processor: Connexant with Graphics accelerator and HD Video processor
Memory (RAM): 256MB RAM / Storage (Internal): 2GB Flash
Storage (External): 2GB to 32GB Supported
Peripherals (USB2.0 ports, number): 1 Standard USB port
Audio out: 3.5mm jack / Audio in: 3.5mm jack
Display and Resolution: 7” display with 800x480 pixel resolution
Input Devices: Resistive touch screen
Connectivity and Networking: GPRS and WiFi IEEE 802.11 a/b/g
Power and Battery: Up to 180 minutes (2-3 hours)on battery.

これを見る限り、安手の中華パッドと大差ありません。実際、記事によると、ほとんどの部品は東アジア製でインド国産品はほとんどないそうです。以前の噂で、中国製品ではないかと言われていたのが、半分は正しかったわけですね。

ひとつ予想を外したのが、OSがカスタマイズしたLinuxディストリビューションではなくAndroidだということでしょう。OpenOfficeを動かすとか言っていたのは、結局諦めたのかもしれません。Webアプリで代替するほうが合理的という判断なら、それは正しいと言えるようにも思います。スペックの低いタブレットで何もかも処理しようとするよりは、端末と割り切ったほうがずっと使い勝手が向上すると思います。

そして、この記事では、「さらに10ドルのタブレットにも挑戦する」と書かれています。それはいくら何でも無理だと思うのですが、インドの低価格化への挑戦は続くようです。それはそれで、ひとつの正しい方向性であるのかもしれませんね。

via mazmot.bloggers-network283.com





松本さんの言う、この言葉。「スペックの低いタブレットで何もかも処理しようとするよりは、端末と割り切ったほうがずっと使い勝手が向上すると思います。」 その通りだと思います。

そもそもタブレットコンピュータというマーケットを創り出したiPad。そのiPadはマルチタスクを捨て去り、シングルタスクに割り切った端末でした。

複数のアプリケーションを同時に立ち上げ、切り替えながらカットアンドペーストでコンテンツを創りあげるというようなことはできない。Illustrationで画像を創ってPhotoShopでエフェクトを加えて加工することはできない。

イラスト作成にしても、精密な絵を描くというような作業には(おそらく)向かない。指でタッチして操作するというオペレーションは精密な作業には向いていないと思う。

パソコンのそうした使い道を、iPadは切り捨てた。

その代わりに、軽快で簡単な操作性、ユーザインターフェースを提供したのがiPadという端末。使いやすい、ユーザフレンドリーなコンピュータ。なんでもできる高機能ではなく、使い勝手にフォーカスした端末。コンテンツビューワーに近い。情報表示装置。インプットよりもアウトプット重視。

そのコンセプトにおいて重要なのは簡単さと軽快さ。起動スピードや動作スピードも操作感には大切だ。Simple & Speedy.



iPadにはキーボードもマウスもない。USBの口もプリンタをつなぐ口も外部ディスプレイの接続口もない。周辺機器と接続するためのインターフェースが、30ピンDockコネクタという独自規格とヘッドフォンジャックしかない。シンプルだ。限定的とも言える。CD-ROMやDVDドライブもない。それはシンプルさを追求した結果であろう。本体の薄さ。持ち運びやすさ。ソファでもベッドでもどこでも使えるというポータビリティ。

入力手段としてはタッチパネルディスプレイの他に、カメラとマイクを備えている。が、入力のメインはネットとの接続だ。既にしてネット端末と呼んでいい。はじめから巨大なコンピュータネットワークであるインターネットのノードとして設計されている。末端のノードだ。ネットとリアル世界の接点だ。

考えてみると、クリエートよりもビューワーに近い端末というものはコミュニケーションのための道具である。情報交換のツールだ。その意味では通信端末と言えるだろう。



データをローカルのドライブに置かずに、ネットの中に置く。クラウドに置いて、端末はそこへのアクセス手段とする。その発想はGoogleのChrome OSも同じだ。目指すところは同じ。ネットにアクセスするための軽快に動作するシンプルな端末。その点ではChrome OSはコンセプトの発表こそ早かったがその実現においてはiPadに大きく水をあけられてしまった。Androidとの違いも明確ではなくなってしまった感がある。Amazonもまた低コストなクラウド端末としてKindle Fireをリリースして追撃している。パーソナルコンピュータにおいて、とりあえず次の方向性は確定したといってよいだろう。シンプル&スピード。

Chrome OSマシンのレビュー記事 ~寝たふりモードでネタ拾い by 松本淳





それにしてもスティーブ・ジョブズは過去に様々なものを捨ててきた。Power Macintoshでは過去のソフトウエア資産の継続性を捨て、SCSI(スカジー)インターフェースを捨て、フロッピーディスクドライブを捨てCD-ROMドライブを捨て、USBコネクタを捨て、有線LANの接続口を捨て、マウスとキーボードも捨てた。Flashの再生も。レガシーインターフェースをそれにつながる周辺機器ごと過去のものとして捨て去る。それは先へ進むための決断であった。

アラン・ケイの描いたDynabookは現実化したのだろうか?



■関連記事

iPadはパソコンじゃないわけね?

iPadのもしかしたら最大のメリット

iPadは多機能と単機能の中間のもの。なのだろうか?







R.I.P. Steve Jobs

汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ

2011年10月03日 02時27分22秒 | Weblog
前回同様、山竹伸二氏の「フシギなくらい見えてくる 本当にわかる哲学」から気になる文章を引用します。

カントについて。カントは、主観と客観は一致しないと結論づけた。主観と客観の一致を保証することはできないと。しかし、カントは人間が自分の外側の世界を認識するしくみが同じであるならば、人間同士の間で共通理解という形での客観認識は成立可能だとする。

そしてまたカントは、「世界にはじまりや果てはあるか」とか「すべては因果法則にしたがっているのか、それとも自由はあるのか」といった類の、自分の感覚に現れたこと以外の、純粋に観念的な問いについては、それはアンチノミー(二律背反)な問いであり、人間にはそれに答えることができないとする。平たく言うと、それは現実離れした観念的な問いであるからということだ。

「全てのあらゆることが因果律によって定められており、人間の自由意志というものは存在しない」といったことについて人間にはその真偽を判定することができないとしながらも、カントは、しかし人間の自由意志を肯定するのだ。



山竹伸二 「本当にわかる哲学」84ページより引用

********************************引用開始********************************

◎道徳と自由

形而上学的な問いに答えはないのだとすれば、一体、哲学に何ができるというのか、疑問に思う人も多いだろう。自分にとって哲学は、形而上学的な問いの答えを求めること以外ない、そう主張する人もいるかもしれない。

しかし、カントは形而上学を無駄な努力として捉えていたわけではない。形而上学が求めてきた対象は認識不可能だが、意志や欲求の根拠として実践の指標となり得る。それは理論的には認識できないとしても、私たちの実践にとっては必要なものなのだ。

この場合、カントの念頭にあるのは「自由」の問題であり、人間が自由か否かは理論的には認識不可能だが、しかし道徳的な実践においては、自由があることが前提になる。自由な行動が可能でなければ、道徳的な善悪を判断して行動することなど、まったく無意味になってしまうからだ。

ここで、「すべては因果法則にしたがっているのか、それとも自由はあるのか」という、先に述べた問い(アンチノミーになった問い)を思い出していただきたい。

たとえば、人間は衝動に左右されて行動するのではなく、自分の欲望を制御し、道徳的な行為を行うことができる存在だ。

このとき、私の道徳行為を自然の因果連関のなかに組み込んで考えれば、それは決して自由な行為とは言えない。その行為を導いたのは、たとえば彼の親の影響によるものであった、などというように、外的な原因をいくらでも遡行して挙げることができるからだ。

世界を因果関係のある秩序として考えるかぎり、そこに自由は存在しない。

しかし、こうした因果秩序は私が主観において与えているため、「私」は因果秩序の外側に存在することに、つまり因果関係に規定されないことになる。「私」を認識対象として見るかぎり、因果関係に絡め取られているように思われ、自由は存在しないように見える。だが、自分の意志で実践する主体としての「私」という観点からすれば、自由はないと困る(要請される)のだ。

そしてカントによれば、自由は、自己中心的な衝動を抑制し、他者のためになる善きおこない、道徳的な行為によって実現される。

では、一体なにが「善きおこない」なのだろうか?

これについては、カントの有名な言葉がある。それは、「汝の意志の格率が、常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」(『実践理性批判』)というものだ。要するに、あなたの行動が自分勝手なものではなく、誰もが従うべきであるような、世の中全体に調和をもたらすような行動の基準(普遍的立法)に適っていれば、それが「善きおこない」なのである。

このように、社会の価値観や誰かの言動に依拠して行動するのではなく、衝動に任せて行動するのでもなく、自分自身で考え、理性的に判断して行動するところに、人間の自由が存在する。それは道徳的な行為においてこそ実現されるのである。

◎カントの功績と問題点

以上のように、カントは「客観的な認識は可能か」という問題に対して、「十分に可能である」という答えを導き出した。

なるほど、ヒュームの言うとおり、主観の外側にある客観的世界(世界それ自体)を正確に認識することなど不可能だ。それは認めざるを得ないし、物自体が認識不可能であることは、カントの出発点でもあった。

しかし、客観的世界それ自体は認識不可能であっても、主観に現れた世界の秩序は他者との間で共通了解が成り立っている。それは他者と同じ認識の枠組みを持っているからであり、他者と共通了解ができる以上、それは普遍性のある秩序だと言えるし、客観的な認識だと考えることができる。カントはそう考えたのである。

こうした発想の転換を、カントは“コペルニクス的転回”と呼んでいる。事実、それはまったく新しい普遍性の捉え方であった。

********************************引用終了********************************



う~む。自分勝手ではなく、世の中全体に調和をもたらすような行動。それが善きおこないであり、そういう選択を行うことが自由である。

調和、全体最適を目指すことこそが自由である、と。

それは、悪法もまた法であるとして、裁判の判決に従い、脱走の機会があったにもかかわらずあえてそれを拒み、自ら毒をあおいだソクラテスの行動を思い起こさせる。善とは何か?自分自身の考えがありながら、判決に自らの意志で従ったソクラテスの答えである。それはまさに、カントの言うところの「自由」をソクラテスは選んだということであろう。「善きおこない」を。命を賭して。

自分勝手は自由ではない。・・・それは世間一般の自由の概念とは反対であるように思われる。世間的には、自分の好きなように振舞う自分勝手な行動を指して自由と呼ぶのではないだろうか。

カントの言っていることはわかるのだが・・・

そしてもうひとつ、善きおこないを選ぶことこそが自由であるとカントは言うが、あえて悪を選ぶ自由もあるのではないだろうか。

私にはそう思える。

それはしかし、問題のポイントがカントの主張とは、ズレているんだろう。つまり、「善」と「悪」の定義の問題だ。どういうことかというと、世間では「悪」とされていることが実は私にとってはそうではないことがありうるということ。私にとっての正義が、世間からは「悪」とみなされることがありうる。

その時に、どういう行動をとることが「善」なのか?自分にとっての善が世間にとっての悪。普遍的立法の原理が、世間と自分とでズレているケース。

これは難しい問題だ。多くの場合、個人の独自の考え(ズレ)というものは、やっぱり世間一般からするとおかしなことが多い。「それは個人的事情でしょ?」という場合は、全体最適な観点からは間違っているという場合だ。通常、法というものはそうした観点から適用される。個人としては正しいと思った行為であっても世間からすれば正しくないと裁判で判定されれば、罰が下される。

しかし、世間が正しいのか?多数決が正しいのか?

多数決は正義を保証するものではない。それは原理ではないのだ。現実的な解決を見出すための手段であり、手続きである。正しさを保証するものではない。かつては天動説が主流であり、ガリレオ・ガリレイが裁判で負けた事実をみてもそれは明らかだ。世間が正しいとは限らない。

正義はどこにあるのか。それは、私の内にあると信じたい。