東日本大震災、節目の5年を迎え、それに合わせてこの震災を題材にしたパフォーマンス、小劇を見る機会がありました。
このパフォーマンスのバックグラウンドにある考え方が「その人の記憶は、その人がその事象を経験したその時の環境(心身状態)によって決定される。したがってその事象の記憶は自分自身が作り上げたものなので自分で変えることができる。」というものです。
確かに、同じことを一緒に体験したはずなのに、自分のその事象に対する記憶と、他の人の記憶がすれ違っていることを多々経験しています。極端な場合、昨日の出来事を体験した人と話をしていて、その記憶の違いに首を傾げた経験はありませんでしょうか?
例えば旧知の知り合いと想い出話に花を咲かせているときに、「あれっ?そうだったかなあ?」と感じるときはないでしょうか。自分の中で持ち続けていた記憶と、他の人の記憶が食い違っているのです。
他に、あるテレビ番組を見て、感動した記憶をずっと持ち続けて、数年後にその番組のビデオを見てみると、自分の覚えていたはずの内容と食い違っていることを知って驚いた経験もあります。
「他人と過去は変えられない」という言葉がありますが、過去に起こった事実は変えられませんが、その記憶は自分で変えることができるということになるわけです。
僕にはこういう経験があります。
学生時代に交通事故により4か月の入院生活を余儀なくされ、大学も1年留年せざるを得ませんでした。手術も3回受けました。しかもこの交通事故は、相手の一方的な不注意による事故だったのです。
どっぷりと被害者意識に浸ってい居た時に、お見舞いに来ていただいた大学の主任教授が僕に「君はこれまで浪人もせずに順調に来たのだから、ここらで挫折を経験するのも大事なことだよ。」とおっしゃいました。この言葉にカチンときたことを覚えています。
しかし、この事故による1年の留年期間がその後の僕の人生を大きく変えていく事になりました。僕は今、現在の仕事に関して、感謝し、満足しています。天職とも感じています。
あの事故がなかったら、おそらくこの職業には就かなかったと思われます。つまり、あの教授がおっしゃったことが現実となったのです。
言い換えれば、突然身に降りかかった不幸だと感じていた事故、事象が、今思えば「あってよかったこと」に変わっているのです。
衝撃的な体験の記憶が、その後の生活に悪く影響してしまうものをPTSDと呼んでいます。その時の記憶により健康状態が害されてしまうのですが、上記の「記憶は自分で変えることができる」とすれば、このPTSDの記憶も変えられるということになります。
5年前の震災では多くの方が、PTSDに苦しんでいると聞きます。
確かにその時点に戻ってその事象を味わっていたのではなかなかそこからの離脱は難しいと思われますが、その後の生活の中で、その事象によって生じたプラスの経験を意識することによって、その悲惨な体験記憶も変わっていくと思われます。
もちろんそう簡単にできることでないことは事実です。
「うらみ、つらみ」は過去に起きたある事象に立ち戻って行っている行為です。つまり過去に生きているわけです。
しかし大事なのは、今現在がどうなのかです。
今を充実して生きるためにその「うらみ、つらみ」が必要なのかどうかです。
嫌なことを想い出し、感情はネガティブになり、暗くなる、イライラすることは楽しいことでしょうか。
そのつらい出来事も、再度呼び起せないくらいの記憶に変えることができればいいと思います。簡単ではないでしょうが、可能なはずです。
まだ起こっていない将来のことを不安がることも無駄なことです。上述したように起きてしまった、過去のつらい事象にしがみついているのもこれまた無駄なことです。
大事なのは、今この時をいかに充実して生きるかです。その積み重ねが、自分の人生になっていくのです。
たまには、楽しかった想い出に浸る、輝く将来に想いを馳せることもいいでしょう。
でもそれらは、今を生きるためのスパイスです。あくまでも大事なのは、「今この時」です。
このパフォーマンスのバックグラウンドにある考え方が「その人の記憶は、その人がその事象を経験したその時の環境(心身状態)によって決定される。したがってその事象の記憶は自分自身が作り上げたものなので自分で変えることができる。」というものです。
確かに、同じことを一緒に体験したはずなのに、自分のその事象に対する記憶と、他の人の記憶がすれ違っていることを多々経験しています。極端な場合、昨日の出来事を体験した人と話をしていて、その記憶の違いに首を傾げた経験はありませんでしょうか?
例えば旧知の知り合いと想い出話に花を咲かせているときに、「あれっ?そうだったかなあ?」と感じるときはないでしょうか。自分の中で持ち続けていた記憶と、他の人の記憶が食い違っているのです。
他に、あるテレビ番組を見て、感動した記憶をずっと持ち続けて、数年後にその番組のビデオを見てみると、自分の覚えていたはずの内容と食い違っていることを知って驚いた経験もあります。
「他人と過去は変えられない」という言葉がありますが、過去に起こった事実は変えられませんが、その記憶は自分で変えることができるということになるわけです。
僕にはこういう経験があります。
学生時代に交通事故により4か月の入院生活を余儀なくされ、大学も1年留年せざるを得ませんでした。手術も3回受けました。しかもこの交通事故は、相手の一方的な不注意による事故だったのです。
どっぷりと被害者意識に浸ってい居た時に、お見舞いに来ていただいた大学の主任教授が僕に「君はこれまで浪人もせずに順調に来たのだから、ここらで挫折を経験するのも大事なことだよ。」とおっしゃいました。この言葉にカチンときたことを覚えています。
しかし、この事故による1年の留年期間がその後の僕の人生を大きく変えていく事になりました。僕は今、現在の仕事に関して、感謝し、満足しています。天職とも感じています。
あの事故がなかったら、おそらくこの職業には就かなかったと思われます。つまり、あの教授がおっしゃったことが現実となったのです。
言い換えれば、突然身に降りかかった不幸だと感じていた事故、事象が、今思えば「あってよかったこと」に変わっているのです。
衝撃的な体験の記憶が、その後の生活に悪く影響してしまうものをPTSDと呼んでいます。その時の記憶により健康状態が害されてしまうのですが、上記の「記憶は自分で変えることができる」とすれば、このPTSDの記憶も変えられるということになります。
5年前の震災では多くの方が、PTSDに苦しんでいると聞きます。
確かにその時点に戻ってその事象を味わっていたのではなかなかそこからの離脱は難しいと思われますが、その後の生活の中で、その事象によって生じたプラスの経験を意識することによって、その悲惨な体験記憶も変わっていくと思われます。
もちろんそう簡単にできることでないことは事実です。
「うらみ、つらみ」は過去に起きたある事象に立ち戻って行っている行為です。つまり過去に生きているわけです。
しかし大事なのは、今現在がどうなのかです。
今を充実して生きるためにその「うらみ、つらみ」が必要なのかどうかです。
嫌なことを想い出し、感情はネガティブになり、暗くなる、イライラすることは楽しいことでしょうか。
そのつらい出来事も、再度呼び起せないくらいの記憶に変えることができればいいと思います。簡単ではないでしょうが、可能なはずです。
まだ起こっていない将来のことを不安がることも無駄なことです。上述したように起きてしまった、過去のつらい事象にしがみついているのもこれまた無駄なことです。
大事なのは、今この時をいかに充実して生きるかです。その積み重ねが、自分の人生になっていくのです。
たまには、楽しかった想い出に浸る、輝く将来に想いを馳せることもいいでしょう。
でもそれらは、今を生きるためのスパイスです。あくまでも大事なのは、「今この時」です。